今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

シュークリームの日

2009-05-19 | 記念日
今日・5月19日は「シュークリームの日 」だそうだ。
スーパー、コンビニなどで大人気の「牛乳と卵のシュークリーム」を製造している株式会社モンテールが、シュークリームをより身近なおやつにしたいと制定。日付はシュークリームの語呂と似ている毎月19日としたのだとか。
シュークリームは、洋菓子の一種で、小麦粉を卵で練ったシュー種を丸く絞り出して焼き、ふくれて空洞になったシュー皮の中に、クリームを詰めたもので、通常、その空洞にカスタードクリームなどを詰めるのが標準的である。皮は適度に弾性があり、一度ふくらむとそのままの状態を保つ。これは小麦粉を加熱したときにできる糊と小麦粉に含まれるグルテン・油脂の乳化、焼き上がったシューを固める卵の総合作用だそうである。
「理系」でありながら文学など文系の事象に造詣が深かった地球物理学者寺田寅彦は、夏目漱石の門下生でもあり、随筆家として吉村冬彦の筆名で多くの作品を著わしている(以下参考に記載の「青空文庫:作家別作品リスト:寺田 寅彦」参照)。
その中の『銀座アルプス』に、シュークリームの話題が登場している。以下抜粋である。
「鍋町(なべちょう)の風月(ふうげつ)の二階に、すでにそのころから喫茶室(きっさしつ)があって、片すみには古色蒼然(そうぜん)たるボコボコのピアノが一台すえてあった。「ミルクのはいったおまんじゅう」をごちそうすると言ったS君が自分を連れて行ったのがこの喫茶室であった。おまんじゅうはすなわちシュークリームであったのである。シューというのはフランス語でキャベツのことだとS君が当時フランス語の独修をしていた自分に講釈をして聞かせた。」
フランス語を知らないS君が得意げに、当時まだよく知られていなかったのであろう「シュークリーム」の説明を、フランス語を独修している寺田に説明しているのが可笑しかったのだろう。
一般的に言われている「シュークリーム」という単語は実際にはなく、フランス語のシュ(chou)と英語のクリーム(cream)をくっつけた和製外来語(和製用語)で、フランス語では「シュ・ア・ラ・クレーム(chou à la crème)」と言うようだ。フランス語のシュ(chou)は、キャベツと訳されることが良くあるようだが、キャベツよりはずっと意味が広く、キャベツ、ハボタン、ハクサイなどの総称だそうだが、ここでは、ボコボコッと膨らんで焼けた生地の形を結球したキャベツに見立てて「シュ」と呼ぶようになったという。
寺田の随筆に出てくる「鍋町の風月」とは、洋菓子・和菓子メーカーで有名な焼き菓子ゴーフル(ゴーフレット)の製造・販売をしている「風月堂」(正式表記は「凮月堂」)のことである。上野風月堂、東京風月堂、神戸風月堂が有名であるが、1747(延享4)年、近江出身の小倉喜右衛門が大坂より江戸・京橋鈴木町に移転、1753年(宝暦3)年に開いた「大坂屋」を起源とする。
その後、2代目の時に「大阪屋」は「凮月堂」と改め、姓も小倉姓から大坂屋の頭文字を取った大住姓へと改姓。この「風月堂」の流れをくみ、代々大住家によって受け継がれたのが、のちの「風月堂総本店」(京橋南伝馬町)であり、この「風月堂総本店」から6代目の弟が、1905(明治38)年に分家したのが「上野風月堂」であり、これとは別に、1872(明治5)年に、番頭であった米津松造が暖簾分けしてもらい両国若松町に「米津風月堂」を開業。これが、変遷を得て1965年に「東京風月堂」となったもの。更に1897年に暖簾分けされたのが、神戸元町通にある「神戸風月堂」である。創業以来、後継者問題や、事業の失敗など色々変遷のあった「風月堂」のなかで、現存する最古の風月堂が「神戸風月堂」だといわれている。
日本には、幕末から明治にかけてカステラなどの洋菓子が本格的に登場するが、この頃、フランスの菓子職人サミュエル・ペールが、横浜の外人居留地で洋菓子店・横浜八十五番館を開き在留外国人の間で人気を集めていたようだが、ここのメニューには既に、「シュークリーム」があったのではないかという説がある。
風月堂総本家の大住喜右衛門は進取の気性に富んだ人物で暖簾分けした米津風月堂の松造に横浜で西洋菓子を見聞させ、横浜での研究をもとに1874(明治7)年には“宝露糖”と名づけたボンボン・ド・リコールド(リキュール・ボンボン)を新発売したそうだ。また、明治政府は産業を興す政策の1つとして、1877年(明治10年)8月21日に、第1回内国勧業博覧会を開くが、このお菓子の部門では総本家・大住喜右衛門の「菓糕」と米津松造の「乾蒸餅(ビスケット)」が褒賞を受けた。又、米津風月堂は、この年、本拠地を京橋南鍋町店に定め、フランス料理も開業し、カレーライス、オムレツ、ビフテキ等を8銭均一で売った・・と同社HPには書いてある。
博覧会での受賞を機に両風月堂は洋菓子の製造販売に一層力を入れ、1882年(明治15年)頃になると大々的に、西洋菓子を売り出し、1884年(明治17年)には「シュークリーム」も製造し売り出したという。この時、西洋菓子に力を入れるため、米津松造氏は横浜八十五番館でコックをしていた谷戸俊二郎という人を雇いいれたそうだ。
因みに、先に書いた・・・寺田寅彦とS君とが、東京・南鍋町の米津風月堂でシュークリームを食べたのは、1899(明治32)年の夏のことであるから、シュークリームを売り出して、15年目くらいのことになる。
また、1877(天保8)年、京都の生れの村上光保が京都御所に出仕し、文明開化の流れの中、饗宴用のフランス菓子を作ることになり、在官のまま、1870(明治3)年、横浜八五番館のフランス人サミュエル・ペールに就いて高級洋菓子修行をし、3年後、宮廷に戻って大膳職(宮内庁の食事係)として修得したフランス菓子の腕をふるっていたが、1874(明治7)年、東京・麹町山元町で、フランス菓子の店・村上開新堂(現在の屋号は頭に村上の文字はなくただも「開新堂」。以下参考に記載の開新堂HP参照)を開き、宮廷内だけでなく、広く一般にも洋菓子を普及させることになったようだ。彼の作る"ガトー"や"プチ・フール"というものがどんなものかは知らないが、当時皇族・華族・富豪たちに大好評で、特に宴会用のデコレーションケーキは政府関係者に喜ばれ、鹿鳴館での催しの際にも、洋菓子の製造を受け持ったという。(以下参考に記載の「(社)日本洋菓子協会連合会: 洋菓子の世界」参照)。
この村上開新堂でも、風月堂とほぼ同時期にシュークリームを売り出したといわれている・・・が、ここの店では、由緒が由緒だけに、詳しいことはベールに包まれており、誰かに紹介してもらわないと予約さえなかなか取れないようだ。又、京都・寺町二条にも同名の村上開新堂があるようだが、どうも、この京・東京両店の中はあまり良くはなさそうだね~(以下参考に記載の「村上開新堂 - 関心空間」参照)。因みに、ここのシュークリームはプチの小さなものだそうだ。
明治も後半に入ると、シュークリームは確実に日本に広がり、明治36年~37年に、作家の村井弦齋が和洋料理法を小説風に書いた『食道楽』には、シュークリームの文字が登場し、この頃には、すでにシュー・ア・ラ・クレームは、日本独自のシュークリームへと変貌を遂げていたようだ。
このシュークリームの起源については、諸説あるようだが、以下参考に記載の「「PRODUCED BY ISIDA ROHO」が比較的詳しく書いてあったが、要約すると、ルー状の重い生地に熱を加えると膨れる「ベーニェ・スフレ」(以下参考に記載の「Mizの料理日記 : 36.ベーニェ・スフレ」参照)という揚げ菓子とか、又、ドイツの料理人マルクス・ルンポルトの本の中に出てくる穴を空けた壷の中に入れ、沸騰した油の中に落として揚げて作る「クラップフェン」という菓子がシュー・ア・ラ・クレームの祖型ともいわれているそうだ。この他、16世紀の始めに、イタリア・メディチ家のカトリーヌ・ド・メディチが、フランス王フランソワ1世の第2王子アンリ・ド・ヴァロワ(のちのアンリ2世)に嫁いだ時に、シュー生地がフランスに持ち込まれ、後に、製菓長のポフランがオーブンで乾燥焼にしたパート、すなわちパータ・シュー(※以下参考に記載の「シュー生地(パータ・シュー)の冷凍保存と使用方法について」参照)の作り方を会得していたという説も有力だという。
シュークリームと言っても、今では、一口サイズの小さなものから、大型のもの。また、表面にクッキー生地を使った「クッキーシュー」や、カスタードクリームの代わりに、小倉あん、チョコレート、ホイップクリームなどを入れた変わり種や、アイスクリームを詰めたシューアイスなども販売されているようだ。
最近は、スイーツブームだとかで、男性でも洋菓子など食べる人が増えたようだが、飲兵衛の私も、辛党の甘党で、和菓子などは、大好きで自分で買ってでも食べることがあるが、洋菓子は、買ってまで食べることは少ない。しかし、ごく普通のカスタードクリームの入ったシュークリームは、好きなものの1つではある。
「シュークリームの日 」である毎月19日前後数日間は、スーパーやコンビニで特売が実施されているようだ。久しぶりに食べてみたくなったので、家人に買ってきてもらおうかな・・・。
だけど、今、神戸は、新インフレで大騒ぎ。外出に必要なマスクは薬局などからなくなってしまっている。余り、人出の多いスーパーなどへは買物頻度を少なくしてまとめ買いしなくてはいけないので、シューアイスなど買って帰れるかな~???
冒頭の画像は、児童文学作家寺村輝夫作、永井郁子挿絵「わかったさんのシュークリーム」。私は読んでいないが、パティシエのわかったさんが森の中の家で力もちのゾウといっしょに、シュークリームを作るおはなしだとか・・。永井郁子さんのこの挿絵が気に入った。Amazonやe-honで買えるよ。
参考:
シュークリーム-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A0
株式会社モンテールHP
http://www.monteur.co.jp/
(社)日本洋菓子協会連合会: 洋菓子の世界
http://www.gateaux.or.jp/g/dictionary/his17.html
PRODUCED BY ISIDA ROHO
http://www.cremedelacreme.co.jp/profile_1.html
[PDF] “シュークリーム職人の殿堂” 『東京シュークリーム畑』
http://www.bandainamcogames.co.jp/corporate/press/namco/50/50-010.pdf
シュークリームの歴史といま
http://www.cream-dreams.com/cd_mail/bn200405.asp
青空文庫:作家別作品リスト:寺田 寅彦
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person42.html#sakuhin_list_1
風月堂 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E6%9C%88%E5%A0%82
カトリーヌ・ド・メディシス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%82%B9
お菓子の基礎 パータ・シュー
http://www.ne.jp/asahi/meringues/net/kiso/chou.htm
シュー生地(パータ・シュー)の冷凍保存と使用方法について
http://www.geocities.jp/mari_ceke/a6.htm
ミルフィーユ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%A6
開新堂HP
http://www.kaishindo.co.jp/index.html
AHO NA LIFE:村上開新堂でござる!
http://blog.livedoor.jp/ackies/archives/51249273.html
風月堂社史本文目次
http://www.tokyo-fugetsudo.co.jp/frame151403.html
村上開新堂 - 関心空間
http://www.kanshin.com/keyword/73114
村井弦斎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%BA%95%E5%BC%A6%E6%96%8E
寺村輝夫 – Wikipedia
>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E6%9D%91%E8%BC%9D%E5%A4%AB
永井郁子ホームページ
http://www.nagai-ehon.com/index.html

いなりの日

2009-05-17 | 記念日
毎月17日は、「いなりの日」だそうだ。 
日本の食文化の中で多くの人に親しまれているいなり寿司。そのいなり寿司を食べる機会を増やすきっかけを作ろうと、いなり寿司の材料を製造販売している株式会社みすずコーポレーションが制定したそうで、日付は「いなりのい~な」で毎月17日にしたのだとか。
いなり寿司に関する最古の史料としては、江戸時代末期に書かれた『守貞謾稿』があり、「天保(1830年~1844年)末年、江戸にて油揚げ豆腐の一方をさきて袋形にし、木茸(きのこ)干瓢(かんぴょう)を刻み交へたる飯を納て鮨として売巡る。(中略)なづけて稲荷鮨、或は篠田鮨といい、ともに狐に因(ちなみ)ある名にて、野干(狐の異称)は油揚げを好む者故に名とす。最も賤価鮨なり。尾(尾張国)の名古屋等、従来これあり。江戸も天保前より店売りにはこれあるか。」と記載されているようだ( Wikipedia。以下参考に記載の「寿司の歴史」も参照)。
江戸開府によって全国各藩の大名が屋敷を構え、その家臣、所要を担う商工業者、奉公人、賃職人などが移り住み、さらに、関東近郷からは冬の農閑期を利用した出稼ぎ人が大勢入ってきたため、江戸時代になると、こうした不特定多数の人々を対象に食事を供する様々な食べ物屋が出現するが、先ず天秤棒をかついで売り歩く振売が出現した。その後、当時の江戸の大半を焼失した明暦の大火(1657年【明暦3年】。振袖火事ともいう)が発生し、この復旧工事に、各地から集まった職人や労働者を相手に茶飯や煮豆などを食べさせる店が次々できたが、こうした食べ物屋は、当初、道端で立ったまま食べる屋台から小屋掛けの茶店、そして、一膳飯屋などへと発展していった。
私の蔵書、NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第1巻生活編の中に、江戸の外食について、そのころの食べ物屋の風景画が色々掲載されているが、その中に、このブログ冒頭に掲載の「稲荷鮨」をうる店(屋台)の画像があり、これには以下の補足があった。
天明の大飢饉(1782年-1788年【天明2年-8年】)の折、油揚げの中に飯のかわりに「おから」をつめて屋台で売ったのがはじまりと伝えられており、魚を使っていないから、極めて安く人気を呼んだ。江戸では、多くの場末の鮨屋で売られていた。”・・と。
天保年間(1830年から1843年)末期には今日のような油揚げにキノコや干瓢を刻んでいれた稲荷すしを江戸で売る者がいたようだが、名古屋でも、江戸でもその前から売る者がいたとある。蔵書のヴィジュアル百科『江戸事情』に書かれているように、天命の大飢饉の頃に飯のかわりに油揚げに「おから」をつめたものを売るようになったのが、「いなりずし」の始まりであるとあるが、それだからと言って、江戸が先か名古屋が先かは定かには出来ない。私は、仕事で、よく愛知県の豊川市へ行ったが、ここには日本三大稲荷の1つとされている豊川稲荷がある。仕事先の近いところにあり、そこの責任者から豊川稲荷の門前町が「いなりずしの発祥の地」だと、昼食時にその元祖を名乗る店に数回食べに連れて行って貰った。ここはここで、元祖を主張しているのである。
「いなりずし」の “いなり”には“稲荷”の漢字をあて、稲荷寿司又、稲荷鮨とも書くが、関西、少なくとも私の住んでいる神戸などでは、“いなり”のことを“きつね”、その寿司は「きつね寿司」うどんなら「きつねうどん」などと言っているが、この油揚げを「いなり」と呼ぶか「きつね」と呼ぶか、その呼称も、どうも名古屋辺りを境にして違っているようだ。又、いなり寿司の形についても、正方形の薄揚げを斜めに切るか、長方形の薄揚げを横に切るかの違いがあるようで、関東では四角、関西では三角が多いようだ。冒頭の屋台で売っている画像の寿司は長方形で長い型をしている。
「いなりずし」の名前の由来は、お稲荷さんと関係があるようだが、本来、稲荷神は狐ではなく、日本における神の1つである。京の“東山三十六峰”の、最南端に位置する霊峰(以下参考に記載の「※霊峰とは」参照)稲荷山の西麓にある伏見稲荷大社は、日本各所にある神道上の稲荷神社の総本社とされており、元々は京都一帯の豪族・秦氏の氏神であり、同社は、稲荷山全体を神域としている。この稲荷神社の楼門の前に、ちょうど狛犬のように鎮座するキツネは、稲荷神の使女(つかわしめ)である。
伏見稲荷大社の起源については「山城国風土記」の逸文には、伊奈利社(稲荷社)の縁起として秦氏の遠祖伊呂具秦公(いろこのはたのきみ)の的にして射た餅が白鳥と化して飛び翔けり、その留まった山の峰に『稲』が生じた奇瑞によって、稲生り(いねなり)が転じてイナリとなり「稲荷」の字が宛てられ社名になったとあるなど、諸説あるようだが、稲荷神は、農耕神として崇められているが、後に、弘法大師が紀州田辺で出会ったという稲を担った老翁(これが稲荷神)が東寺鎮守神として稲荷社に祀られるが、それが東寺での真言宗による病気平癒・国家安穏等の加持祈祷などが、霊狐信仰と結びつき、これが俗信により、稲荷神と狐の同化へと進み、いなり神の神使である狐の好物が油揚げであるという言い伝えから、江戸時代には油揚げに飯をつめた寿司が稲荷寿司へと繋がっていったのであろうと考えられている。稲荷信仰のことについて詳しくは、以下参考に記載の「稲荷信仰」「稲荷信仰について」「第2節 稲荷信仰の展開」など参照されると良い。
江戸時代・天明期を代表する狂歌師太田南畝(別号:蜀山人)が、蜀山百首(以下参考に記載の「狂歌のすすめ」参照)の中で以下の狂歌を詠んでいる。
「一つとり、二つとりては焼いて食い うずら無くなる深草の里」
これは、藤原俊成千載和歌集の以下の本歌を取り、パロディとしたもの。
「夕されば野辺の秋風身にしみて 鶉(うずら)鳴くなり深草の里」(千載259)
稲荷山から深草のこのあたりは、野鳥が多くいたらしく、多くの歌が詠まれている(以下参考に記載の「藤原俊成 千人万首」参照)。そのようなことから、この辺りでは、野鳥多く食べられ「すずめ焼」や「うずら焼」など野鳥の背を開いて照り焼きにしたものが名物となってはいるが、「稲荷すし」は、特に名物とはなっていないようだ。
先に書いた豊橋稲荷は、稲荷神社と同じく日本三大稲荷の1つとされているが、「稲荷」とは称しているが神社ではなく寺院であり、正式の寺号は「妙厳寺」。本尊は千手観音で、「稲荷」は鎮守神として祀られる荼吉尼天(だきにてん)だそうであり、信仰対象は稲荷である部分もあるものの、伏見稲荷とは同一ではなく、別格本山を名乗っている。また、俗説では、平八狐を祀っているともいわれているが・・・。
キツネ(狐)は古来より日本人にとって神聖視されてきたようで、景行天皇42年(112年)、既に日本書紀日本武尊命を助ける白狐が登場している(但し白犬説もある)という。
しかし、「稲荷」の総本山では、厚揚げが単に、稲荷神の使者である白狐さんの好物であるだけで、「稲荷ずし」がこの地域の特別な名物でもないのに、他の稲荷社が伏見稲荷にあやかって、「稲荷ずし」を名物にしたというのは面白いね~。
(画像は、稲荷鮨『晴風翁物売物貰尽』都立中央図書館蔵。NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科「江戸事情」第1巻生活編。より)
参考:
株式会社みすずコーポレーション
http://www.misuzu-co.co.jp/
稲荷寿司 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%AF%BF%E5%8F%B8
振売 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%AF%E5%A3%B2
寿司の歴史
http://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/s-15-13.html
明暦の大火– Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%9A%A6%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB
天明の大飢饉 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%98%8E%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%A3%A2%E9%A5%89※霊峰とは
http://kotobank.jp/word/%E9%9C%8A%E5%B3%B0
稲荷信仰
http://inari.jp/b_shinko/b01a.html#top
稲荷信仰について
http://www.fuchu.or.jp/~kanamori/inarisinkou.htm
第2節 稲荷信仰の展開
http://www.tamariver.net/04siraberu/tama_tosyo/tamagawashi/parts/text/071210.htm
伏見稲荷 | 写真の中の明治・大正 - 国立国会図書館所蔵写真帳から
http://www.ndl.go.jp/scenery/kansai/column/fushimi_inari.html
狂歌のすすめ
http://www7b.biglobe.ne.jp/~nishiou/hyoron/1/kyouka.htm
大田南畝 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8D%97%E7%95%9D
藤原俊成 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%8A%E6%88%90
藤原俊成 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzei2.html
和歌 秋(2)/かたつむり行進曲
http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/waka/aki20.htm
狂歌百人一首(蜀山人)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kyouka100i.html
落語の舞台を歩く:第116話「助六伝」
http://ginjo.fc2web.com/116sukerokuden/sukerokuden.htm
歌舞伎への誘い | 『助六由縁江戸桜』
http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/5/5_04_23.html

葵祭(賀茂祭)

2009-05-15 | 行事
京都御所ともゆかりの深い古都を代表する葵祭は、京都三大祭(葵祭、祇園祭時代祭)の1つでもあり、平安京遷都以来、平安京の守護神とされる賀茂大神(賀茂神社賀茂氏氏神を祀る神社)に、奉謝の念を表わすため、上賀茂(賀茂別雷神社【かもわけいかづちじんじゃ】)、下鴨(賀茂御祖神社【かものみやじんじゃ】)両社に年に1度、朝廷から斎王勅使を送る官祭(三勅祭の1つ)であった。
「葵祭り」は、神霊の依代としての季節の草花である葵・桂を、祭壇に列する人々が挿頭(かざし)として身につけ、また、氏子(氏神参照)たちが門口に挿して物忌(ものいみ)するところからこの名で呼ばれているが、かっては、賀茂祭と呼ばれていた。
祇園祭が庶民の祭りであるのに対して、この祭りは、賀茂氏と朝廷の行事として行っていたのを貴族たちが見物に訪れる貴族の祭となったもので、わが国の祭りのなかでも最も優雅にして古趣に富んだものとして世に知られ、たんに、「まつり」と言えばこの「葵祭り」を指していたともいわれている。毎年5月15日(かつては陰暦4月の中の酉の日)に行われている。
延暦13年(794年)、桓武天皇は、10年間住んでいた長岡京を捨て慌しく平安京へ遷都するが、その詔に「葛野(かどの)の大宮の地は山川も麗しく、……」とあるように、景勝の地に長安・洛陽を範とする中国的な都城を再現した。この平安京も平城京のときの「四禽が図に叶い、三山が鎮(しずめ)を作し、亀筮(きぜい。亀卜【きぼく】」に同じ)が並び従う」(以下参考に記載の「四神相応」参照)ことを重要な理由として造都されているのと同様に行なおうとしたはずだ。
平安京の造営で加茂氏(鴨氏)、秦氏、八坂氏(八坂造。八坂神社参照)、土師氏などの先住民によって治められていた「やましろの国」は、様相を一変する。当初は、ただ住むための器を用意しただけであったが、9世紀から10世紀にかけて都市住民の手によって住みこなされてゆき、10世紀を過ぎる頃から,京域外の一条大路以北が徐々に開発され、都市域が北へと拡大していった結果、今の上京区の区域(以下参考に記載の「GoogleMap上賀茂神社 下鴨神社 上京区」参照)が、人々の生活の上で纏まりのある生活空間へと発展していった。市民生活の発展に伴い、都市空間としてのとりわけ道の機能も目覚しく変化する。そして、神社の祭礼も盛んになり、賀茂神社の賀茂祭では、その行路である一条大路に『年中行事絵巻』に見られるような祭見物のための貴族用の桟敷屋ばかりか、都市民用の町家という特有の都市的施設をも生み出した。
都市生活の舞台と化した都は、地方の人々の関心を集め『今昔物語集』巻二十七の17話「東人、川原院ニ宿リテ妻ヲ取ラルル語」には、榮爵(五位の位)を買おうとした夫と共に妻が「かかる序でに京をも見ん」とし、たまたま泊まった河原院において鬼に取り殺された女の話が出ている(以下参考に記載の「「京都大学電子図書館」の中にある『今昔物語』を参照」が、賀茂神社の賀茂祭などが、、京の町を今日のような観光都市へと発展させた功績は大きいようだ(以下参考に記載の「平安京の創建」、「京都の伝統民家と町家」参照)。
賀茂祭の始まりが、五穀豊穣を祈って馬には鈴をかけ、人は猪頭をかぶって駆競(かけくらべ)をしたことから、当時は勇壮で荒っぽい祭りであり、その荒々しさを見るために近隣近郷から多くの人馬が集まる有名な祭礼であったようだが、平安時代も嵯峨天皇の時代になると、賀茂祭は、三大勅祭となり、石清水八幡宮の岩清水祭が『南祭』と呼ばれるのに対して、賀茂祭は『北祭』と呼ばれるようになり、官祭として一層、著名になり、この頃から、賀茂祭は雅びやかな祭りに変化していき、多くの人が美服、美車で参加し、都大路を賀茂神社にむけて行列するようになり、その後も、この行列は、一層、華美さを増していった。
現代の祭りでは、一般市民から選ばれた未婚女性の斎王代を主役に葵の花を飾った平安後期の装束での行列が有名であるが、祭りの主役はあくまで勅使代なのである。
賀茂斎院制度の起源は、平城上皇が弟嵯峨天皇と対立して、平安京から平城京へ都を戻そうとした際、嵯峨天皇は王城鎮守の神とされた賀茂大神に対し、我が方に利あらば皇女を「阿礼少女(あれおとめ、賀茂神社の神迎えの儀式に奉仕する女性の意)」として捧げると祈願をかけた。そして弘仁元年(810年)薬子の変で嵯峨天皇側が勝利した後、誓いどおりに娘の有智子内親王斎王としたのが賀茂斎院の始まりであり、斎王はここで仏事や不浄を避ける清浄な生活を送りながら、賀茂神社や本院での祭祀に奉仕したという。斎王の最も重要な役割は4月第二酉の日の賀茂祭であり、かつての賀茂祭では、斎王はあらかじめ御禊(ごけい)の後、紫野斎院から出発した行列は、一条大路を東進し、下鴨神社、上賀茂神社での神事を経て、上社の神館で一泊し、翌日御薗橋を渡り雲林院の前を通り斎院に戻っていた。この時の斎院の華麗な行列はとりわけ人気が高く、光源氏は勅使の一人として参加しているが、紫式部も『源氏物語』葵の巻で名高い車争いの舞台として描いている(以下参考に記載の「源氏物語の世界」源氏物語の世界再編集版09 葵(大島本)「第一章 六条御息所の物語 御禊見物の車争いの物」を参照)。
また、吉田兼好(兼好法師)は「徒然草 第百三十七段 花は盛りに」のなかで、賀茂祭(かものまつり/かもまつり)の際の見物人について、「押し合いへしあいしながら、ひとことも見逃すまいと、見つめている」と記しているが、自然をあるがままに、客観的に見ることができないような人たちが、下鴨神社の葵祭を見物している現場の様子を痛烈に風刺しているのが面白い。(以下、参考に記載の「徒然草 (吉田兼好著・吾妻利秋訳)」百三十七 花は盛りに参照)。
清少納言も『枕草子』で祭見物の様子を書き留めているというが、これがどこに書いているのかよく分からないので紹介できないが、興味のある人は以下参考にある「枕草子(堺本)」又、「原文『枕草子』全巻」でも参考にされると良い。以下参考に記載の「京都大学電子図書館」の中にある京都大学文学部所蔵 『年中行事絵巻』の9巻あたりに見られるのが、賀茂祭の様子を描いたものであろう、行列を見物するための「桟敷」も見られるよ。
幕末から明治の家人八田知紀が家集『しのぶぐさ』の中で、「まつりの日」と題して、以下の歌を詠んでいる。
「卯の花の白がさねして神山のみあれ見に行く今日にもあるかな」(しのぶぐさ一)
「神山」(こうやま)は、賀茂神社の背後の山。「みあれ」は賀茂神社で葵祭に際して行われる神事(前儀「御阿礼(みあれ)神事」)で、通釈は、「卯の花のように真白な白襲(しらがさね)を着て、賀茂祭を見に行く今日であるよ。」といったところらしいが、この当時でもまだ、気楽な祭見物ではなく、「白がさね」を着て出掛けることに神事への敬虔な思いがあらわれているという(以下参考に記載の「八田知紀 千人万首」参照)。
応仁の乱やその後の戦争など様々な理由で中絶や再興、規模の変革などの紆余曲折を経て現在の形になったのが昭和31年(1956)だという。この時に鎌倉時代から久しく途絶えていた「斎王の女人列」の斎王を代わりの「斎王代」としてたて、「斎王代女人列」という形で復活し、今もその形を忠実に執行されている(以下参考に記載の京都散策・催事(神事)祭りの「斎王代女人列」参照)
京都は桂川鴨川に挟まれており、北の神山の麓には賀茂氏の氏神を祀る賀茂神社が、南には、賀茂氏と関係の深い秦氏の社である松尾大社伏見稲荷大社があり、これら3社は、「やましろの国」で最も創建年代の古い神社となっている。いづれの氏も渡来民であり、平安京遷都のパトロン的存在であった。
「葵祭り」で、神霊の依代としての季節の草花「葵」と「桂」を、祭壇に列する人々が身につけているが、この賀茂祭のように松尾大社と稲荷大社も桂と葵を飾りに使う。どちらも、鴨川と桂川・・・つまり、川と関係するが、この両川と両氏、そして、祭りを通して京都の歴史を振り返ってみるのも面白い。
神社の起源や祭り・行事等については、以下参考に記載の、又、それぞれの神社等のホームページを見られると良い。
(画像は、葵祭りの牛車。2009年4月13日朝日新聞掲載記事より)
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2009-05-15 | 行事
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参考:
葵祭 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%B5%E7%A5%AD
【下鴨神社】公式サイト
http://www.shimogamo-jinja.or.jp/
【上賀茂神社】公式サイト
http://www.kamigamojinja.jp/
京都市観光協会(公式サイト)
http://www.kyokanko.or.jp/
フィールド・ミュージアム京都
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/_index.html
源氏物語(現代語訳)の部屋
http://www.geocities.jp/yassakasyota/genjis.html
源氏物語の世界 
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/index.html
訓読万葉集
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/manyo_k.html
京都通(京都観光・京都検定・京都の神社)百科事典
http://www.kyototsuu.jp/index.html
四神相応 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E7%9B%B8%E5%BF%9C
GoogleMap上賀茂神社 下鴨神社 上京区
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%E5%9C%B0%E5%9B%B3%E3%80%80%E4%B8%8A%E4%BA%AC%E5%8C%BA&lr=&um=1&ie=UTF-8&split=0&gl=jp&ei=47gKSt3NEYyBkQXox9ykCw&sa=X&oi=geocode_result&ct=image&resnum=1
京都の伝統民家と町家(京都市文化観光資源保護財団)
http://www.kyobunka.or.jp/tradition/part_two/index.html
平安京の創建(京都市情報館・上京区役所)
http://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012381.html
京都大学電子図書館
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/index.html
徒然草 (吉田兼好著・吾妻利秋訳)
http://www.tsurezuregusa.com/
原文『枕草子』全巻
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosousi_zen.html
枕草子(堺本)
http://www.geocities.co.jp/hgonzaemon/makurasakai.html
八田知紀 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/tomonori_h.html
京都散策・催事(神事)祭り
http://www.geocities.jp/rskykms/page004.html

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ざりがにの日

2009-05-12 | 記念日
私がこのブログを書くのにいつも参考にさせてもらっている「今日は何の日~毎日が記念日~」の5月12日の記念日の中に「ざりがにの日」というのがあった。しかし、そこには、記念日に選ばれた理由も何もかかれていなかったので、色々ネットで調べ、以下参考に記載の「MANAしんぶん」を見て、凡そのことが分かった。
この日、つまり、1927(昭和 2)年5月12日は、神奈川県の養殖業者が、アメリカ・ニューオーリンズから、食用カエルの餌用としてザリガニを持ち帰った日らしい。
1918(大正7)年5月に東京帝国大学の渡瀬庄三郎教授の手によって北アメリカ産巨大種の食用蛙(Rana catesbeiana)が食用として輸入され、その後、1920(大正9)年頃から国の指導により各地で養殖されるようになったが、この食用のカエルの飼育には渡瀬の助手をしていた河野卯三郎たちが携わったようだが、これと軌を同じくして、卯三郎の長兄河野芳之肋が、神奈川県大船(鎌倉郡小坂村岩瀬)で民間初の“鎌倉食用蛙養殖場”((現、いわせ下関こども広場)を開設したという。卯三郎もその後、兄の養蛙を手助けするようになり、鎌倉養殖場はアメリカのニューオリンズにある会社から種蛙を直接輸入し、国内はもちろんのこと、遠く北米にまでその名を知られるようになったという。その後、芳之助は商用を兼ねて、1927(昭和2)年に一度渡米をしているが、同年5月12日帰国。その時の様子を、弟の河野卯三郎が遺稿集で、以下のように述べているという。
“当時米国に居た私の愚兄(芳之助)が、日本に帰るとき生きたブルフロッグと、その餌であるアメリカザリガニを、ビヤダルに一杯持参し、大船の田園都市の近くに水田を改造して養蛙池を造り、蛙をザリガニと共に放養したところが、そのザリガニが野生になって大船一帯に繁殖したのが、アメリカザリガニが日本に渡来した始めである”・・・と。又、この池から逃げだしたザリガニが、1930(昭和5)年に岩瀬の小川で捕獲されたザリガニ”と符合するという。そして、このときの蛙とザリガニの輸入を最後として、昭和初年の経済恐慌(1927年~1930年)のさなか、鎌倉養殖場は自然閉鎖されたとのことである(詳しくは同HPEssay Notes:食用蛙とアメリカザリガニ(酒向 昇 エビ研究家)参照)。
渡瀬教授によって輸入された食用ガエルは、味ではなく、雄の鳴き声は牛の声に似て低く大きく遠くまで響き渡ることから、これを「ウシガエル」とよび、日本では食用ガエルといえばこの「ウシガエル」を指すことが多い。日本には、渡瀬教授が米国へ渡米時にカエル料理を食したことに始まる。淡白な味に感激し、これはいけると産業化を思い立ったという。帰国するや送付を以来し、1918(大正)年には17匹が到着し、東京市芝区白金の東京帝大附属伝染病研究所の池に放たれ、養殖には成功したが結局、日本人には見向きもされなかったようだが、それでも、昭和初期や戦後の一時期には、アメリカ向けの有力な貿易品となり、1949(昭和24)年には800トンを輸出、当時の金で2億5000万円の貴重な外貨を稼いだという。やがて、BHC(以下参考に記載の「EICネット[環境用語集:「BHC」]」参照)騒動などで輸出先を失った(朝日クロニクル「週刊20世紀」より。以下参考に記載の「衆議院会議録情報 第063回国会 物価問題等に関する特別委員会 第14号」又、「ウシガエル ~ ぶんぶく探検隊 ~」も参照)。思い起こせば、第二次大戦中、私が子供の頃徳島の母方の親戚に疎開していたが、近所の仲間と一緒に、池へ棒の先に紐で結わえた生きたトンボを餌にして、食用ガエルを捕りに行ったのを思い出すよ。戦時中は、結構食料にされていた。又、現役で仕事をしている頃、1~2度、食用ガエルを食べたことがあるが、淡白で食べやすく美味しかったよ。ただ、慢性的な食料不足に悩まされてきた日本が、食用として養殖された個体が逃げ出し、日本各地のみならず世界中に定着。大型かつ貪欲で、環境の変化に強い本種は在来種を捕食してしまうことが懸念され2006年外来生物法により特定外来生物に指定された。そのため現在本種の日本国内での流通はないという。世界の侵略的外来種ワースト100にも指定されている。
ザリガニは、池や川など水辺に生息する身近な動物なので、子供たちの夏の遊び相手とされており、私なども、息子がまだ小さい頃、明石城跡を整備した明石公園内の池で、息子と一緒にスルメを餌にザリガニ釣りをよくしたものだ。
日本の在来種といわれる「ニホンザリガニ」は北海道や東北北部などごく限られた地域に分布していた固有種・アメリカザリガニ科の(Cambaroides japonicus【De Haan, 1841】)であり、ザリガニの語源は、体内で生成される白色結石から仏舎利を連想して「シャリカニ」(シーボルト著、「ファウナ・ヤポニカ(日本動物誌)」で用いられているニホンザリガニの和名)となったとする説もあるが、ザリガニの後ずさり行動に由来する「ヰザリガニ(居去り蟹)」が転化してザリガニになったというのが最も有力だそうである(Wikipedia)。
しかし、このように極限られた北日本の地域で細々と生息していたため、江戸時代には、北海道もまだ未開の地であったので、ザリガニの存在など殆どの人は知らなかっただろうし、明治時代や大正時代でも、まだ、生きたザリガニを見たことのある日本人は一般にはいなかった。それが、現在、身近に見れるようになったのは、先に書いた「ウシガエル」の餌にするために輸入された「アメリカザリガニ」が逃げ出し、いつしか、日本各地で自然増殖したものが多いからだが、このほか、20世期に北米から移入されたものに、ザリガニ科のウチダザリガニ(亜種もしくは変種にタンカイザリガニ)もおり、これらの帰化種が持ち込んだ寄生虫や伝染病、河川環境の悪化などが日本古来の生態系を破壊する一因となっている。「ニホンザリガニ」は2000(平成12)年には環境省の絶滅危惧II類(VU)(環境省レッドリスト)に指定されている(以下参考に記載の「環境省生物多様性センター」のここ参照)
北米から移入された2種のうちでも特に、アメリカザリガニの分布が日本全土にを広がっているようだ。
シーボルトが西洋の薬であった“「ら蛄石(オクリカンキリとも呼ばれる)」はザリガニの胃の中にできる結石である”などと説明しても、それを聞いた門下生は、「ザリガニ」など見たこともないはず。
日本文化の中では、ザリガニなどは、マイナーな存在であり、昭和も中程の時代になってもまだ、余り食用とはされていなかったことは久生 十蘭 (ひさお じゅうらん)の『キャラコさん』(1970(【昭和45】初版)を読んでもわかる。
廃棄金山を復活させようとしている大学の研究室を出たばかりの4人の若い
科学と道連れになり、いっしょに、丹沢山の奥へ出かけ手助けしようと思った退役陸軍少将・石井長六閣下の末娘・キャラコ(あだな。本名:剛子)は、4人の為に裏山から色々なものを捕ってきて、丹沢奥の寝泊りしていた破小屋(あばらごや)の中で、力のつく食物をと、精一杯の料理を作ってあげる。その見事なご馳走をみて、驚く4人だが、特にその中の1品の料理を食べろといわれて、へどもどしながらのキャラコとの以下のような会話がある。
「いや、結構です、結構です。……いけないなんてことはない。毒薬でさえなければ、何を使ってくだすっても結構ですが、それはそうと、この蟹(かに)と海老(えび)の合の子のようなのは、いったい何者ですか」
「これはね、有名な蜊蛄(ざりがに)よ。……日本の食通がひどく珍重するんですって。あたし、日本アルプスの山のホテルでいちどいただきましたわ。となりのテーブルにフランス人がいましてね、これが皿に盛って出ると、エクルビース、エクルビース! といって夢中になってよろこんでいましたわ。フランスでも、たいへんいきなものになっているんですって。……でも、どんなふうにお料理するのか知りませんから塩うでにしましたの。……(青空文庫・キャラコさん/女の手より)。
この文章にも見られるように、ザリガニには、漢字の「蜊蛄」が使われているが、江戸時代の文献にも漢字表記では、「蜊蛄」と書かれているようだ。
しかし、当時ザリガニなど見たこともない人にとって、突然出された大きな鋏を持った海老のようなザリガニ料理を出されて肝を冷やしただろう。日本ではあまり食用とされないザリガニ料理だが、原産地の北アメリカでは食用に漁獲され地元の名物料理とされているようだし、「キャラコさん」が言っているように、フランス料理の高級食材エクルビス(ザリガニのフランス名)には、アメリカザリガニ、ウチダザリガニなどが使用されるようだ。豪州でも日常的に家庭で調理されるという。また、中華料理でも小龍蝦(xiao long xia)と呼ばれ人気の高い食材であるそうだ。日本でも外国料理店や一部の料亭などでザリガニ料理を出す場合もあり、築地場内でもザリガニを販売している店があるが、全国的には食用とは認知はされていない。
いらぬお世話だが、この小説『キャラコさん』は、日本が太平洋戦争に突入した戦局の暗雲立ち込める時代に書かれたにもかかわらず、キャラコと呼ばれる20歳前の若くて何の屈託も無い明るい女の子を主人公にした珍しい小説。以下参考に記載の青空文庫:「作家別作品リスト:作家名: 久生 十蘭」で読めるので、読まれていない方は一度読まれるとよい。
それに、今はペットブームで、海外の色んな動物など飼っている人が居るが、余り、外国の動・植物を日本国内で育てるのには個人的には賛成したくないよな~。
(画像は、アメリカザリガニ。Wikipediaより)
参考:
今日は何の日~毎日が記念日~5月12日
http://www.nnh.to/05/12.html
ザリガニ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AC%E3%83%8B
環境省生物多様性センター
http://www.biodic.go.jp/
MANAしんぶん
http://www.manabook.jp/index.html
ザリガニ図鑑・アメリカザリガニ/佐倉ザリガニ研究所
http://crayfish-study.sakura.ne.jp/pbc03.html
ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑
http://www.zukan-bouz.com/index.html
ざりがに.COM
http://www.geocities.jp/ideryusei/index.html
ザリガニ研究者のホームページ
http://www14.plala.or.jp/usio/index.html
昭和恐慌 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%81%90%E6%85%8C
EICネット[環境用語集:「BHC」]
http://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=2230
衆議院会議録情報 第063回国会 物価問題等に関する特別委員会 第14号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/063/0650/06305120650014a.html
ウシガエル ~ ぶんぶく探検隊 ~
http://www16.ocn.ne.jp/~bunbukut/ry...usigaeru.htm
長崎大学薬学部 長崎薬学史の研究~シーボルトの治療薬「十八道薬剤」
http://www.ph.nagasaki-u.ac.jp/history/research/cp1/siebold_18dou.html
作家別作品リスト:作家名: 久生 十蘭
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1224.html#sakuhin_list_1
丹沢山 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E6%B2%A2%E5%B1%B1
「キャラコさん」
http://www.jade.dti.ne.jp/~suzaku/kyarako.html