今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「パントマイムの神様」マルセル・マルソーの忌日

2009-09-22 | 人物
マルセル・マルソー(Marcel Marceau)はフランスのパントマイム・アーティストであり、人間の哀感をとらえた詩的な人物造形、優れたリズム感覚は、大道芸のパントマイムを芸術の域にまで高めたといわれ、近代パントマイムでもっとも有名な人物の1人。「パントマイムの神様」「沈黙の詩人」とも呼ばれている。
マルソーの初来日公演は1955(昭和30)年のことだそうであるが、その後、度々日本公演に来ている。冒頭の画像は、1994(平成6)年来日のときのもので、読売新聞・読売テレビ主催により9月14日~15日に大阪厚生年金会館中ホールで公演(演目 パントマイムの神様 マルセル・マルソー)されたときのチラシである。この時、マルソー71歳。もうこれが最後の日本公演だと思っていたら、その2年後にも来演(マルソー・ワンマンショー)、これこそ最後?だと思っていたら、1998(昭和63)年、新作のマイム劇「山高帽」をひッ下げて来演ししている。この後の日本公演」はよくわからない・・・。彼の演技は日本のテレビでもよく放送されたので、何度か見せてもらったが、彼のパントマイムは練り上げられ、磨きぬかれ不運に耐えて不滅の輝きを得たいわば古典といえるものだ。その完成された至芸は、何時まで経っても古さを感じさせない。それは、チャップリンの映画やディズニーのアニメと同様である。
彼の個人的な生い立ちなどは、よく知らないので、彼が亡くなったときのマスコミ報道やフリー百科事典Wikipedia』に頼るしかない。
彼は、1923年3月22日、フランス北東部のストラスブールユダヤ系の家庭に生まれ、出生名は、「Marcel Mangel(マルセル・マンジェル)だったという。しかし、16歳のときフランスが第二次世界大戦に突入し、まやかし戦争と呼ばれるにらみ合いの後、1940(昭和15)年5月にはドイツ軍のフランス侵攻が始まると、、本名マンジェルを仏風のマルソーに変え、ナチス・ドイツからの迫害を逃れ、レジスタンス(抵抗運動)に身を投じるが、彼の父はゲシュタポによって捕らえられ、1944(昭和19)年にアウシュビッツ強制収容所で亡くなるという悲劇に見舞われるが、この時、彼自身はフランス南西部に逃れたという。
しかし、このような、ナチスドイツからの迫害を逃れるために沈黙を迫られるという悲劇を味わった彼は、戦後、無意識のうちに沈黙の演劇を選択したのかもしれないという。
大戦後、彼は、サラ・ベルナール劇場の演劇学校生徒となり、現代パントマイムの草分け的存在と言われるエチエンヌ・ドクルーに師事し演劇や身体を使ったパフォーマンスを学ぶ。このとき、第二次世界大戦中、ヴィシー政権下で、製作されたフランス映画史に残る古典として知らぬ者のない名作「天井桟敷の人々」のパディスト役で世界的に有名になったジャン=ルイ・バローもまたドゥクルーの生徒だった。この映画が作られた当時、パリをはじめとするフランスはナチス・ドイツの占領下にあり、多くの監督がそんなフランスから逃げだしているとき、マルセル・カルネ監督はナチス・ドイツの非占領下であった南仏のニースの撮影所に巨大なセットを建設し、総勢2000名にも及ぶエキストラを使用して、2部構成、3時間以上にも及ぶ傑作を撮りあげた。正にフランス人の反骨魂が作り出した映画ともいえる。この映画は、一人の魅惑的、神秘的な女性を取り巻くパントマイム役者バティスト(バロー)や、シェークスピア役者のルメートル(ピエール・ブラッスール。以下参考の※Yahoo!百科事典:ブラッスール参照)等4人の男達の愛憎と嫉妬の物語である。戦前にはカット、カットで切り刻まれて上映された外国映画が、敗戦後完全版で再輸入され、続々と日本の銀幕を賑わしていた時代、1952(昭和27)年に、日本でも公開され話題になった。映画の中でバローの演じるアルルカン(道化役者)が白塗りの顔に、長い白い衣装、哀しげな目をして見せるパントマイムは見ものであった。見ていない人には是非見てみることを薦める。以下参考の※:「天井桟敷の人々」では解説と共に予告編が見れる。
映画出演後、バローが立ち上げた劇団に参加した、マルソーは、1946(昭和41)年、マイム劇「パディスト」の道化役(これはバロー自身が『天井桟敷…』で演じた役)でデビュー。この道化役で好感触を得たことを機会に、バローが映画を中心とした活動をするようになったことから独立し、翌、1947(昭和22)年、横縞シャツに花つきシルクハット姿の白塗り道化師「ビップ(Bip)」というキャラクター(冒頭画像参照)を創造した。
彼は幼い頃からハリウッドのサイレント映画黄金時代の無声映画の主人公であるチャールズ・チャップリンバスター・キートンたちを敬愛していたというが、これら無声映画の主人公たちは、音声を発しない分、顔や服装、それに身体全体使って表現するパントマイムの芸に独自のユニークなスタイル作りに腐心していた。チャップリンは山高帽に窮屈な背広それに、ブカブカのズボン。どたばた喜劇のキートンは、カンカン帽。ペチャンコに押しつぶされてもいつも無表情な彼の顔と帽子といった具合。マルソーは、「天井桟敷の人々」でバローが拵(こさ)えた全身白塗りのアルルカン「バティスト」を原形にチャップリンやキートンの帽子や演技を参考に、彼らとは似ている様でまるで違う、横縞のシャツを着込み、帽子には赤い花を飾った「ビップ(Bip)」というキャラクターを作り上げた。
「ビップ」というキャラクターを作り上げた同・1947(昭和22)年、彼自身の劇団を主宰しフランス・パリを中心にさまざまな劇場で活動するが、彼の芸を世界中の人に知ってもらうため、1955(昭和30)年にはアメリカでデビュー。ニューヨークでの大絶賛を受け以来、世界各地で公演をし、「20世紀のピエロ」と賞賛された。
彼は舞台のほか映画などにも、結構出演しているらしいが、映画のことはよく知らない。
1978(昭和53)年にはパリに自身が主宰するパリ国際無言劇学校を創設。1996(平成8)年には無言劇の振興のためのマルソー財団をアメリカ合衆国にも設立しているそうだ。
パントマイムの第一人者として半世紀以上活躍したマルソーがフランス・カオールの自宅で死去したのは2007(平成19)年9月22日の今日、84歳だった。
マルセルのパントマイム技法は世界のいろいろな人に影響を与えているが、アルバム『スリラー』(Thriller)の 記録適大ヒットで世界的な歌手となるも世界中の人から惜しまれながら今年亡くなった(2009年6月25日)、アメリカのマイケル・ジャクソンの前に歩いているように見せながら後ろに滑る「ムーンウォーク」(月面歩行)として知られる有名なダンス技法もマルソーの動きがヒントになったとも言われる。又、日本のパントマイム役者にも大きな影響を与え、マルセ太郎 (故人)も、マルソーの舞台演技に影響を受け、彼にちなんだ芸名でパントマイム芸人としての活動を始めたという。
以下では、パントマイムが2つ。ムービーは10分と長いが、それだけの面白さがある。チャップリンのような歩き方、ムーンウオーカーのヒントになったかもとを感じさせるようなダンスシーンなども見られる。彼の演技を私などがいろいろ説明するより、見られたほうが良くわかるだろう。他のも関連動画も多くあるので、懐かしい彼の華麗な芸を見てみよう。
YouTube - Marcel Marceau
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=_lF0XMCssG0
(画像は、コレクションのチラシより、1994年来日時の「大阪厚生年金会館中ホール」での公演予告チラシ)
参考
マルセル・マルソー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%BC
パントマイム、マイムのページ
http://www.officeww.com/mime/about/history.html
lMarcel Marceau (マルセル・マルソー) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/22923/
[ 早稲田大学演劇博物館現代演劇上演記録データーベース
http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakujoho/index.htm
SADAHIKOのシネマ道楽19
http://www.din.or.jp/~grapes/doraku/file19.html
※:天井桟敷の人々
http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/LesEnfants%20du%20Paradis.html
天井桟敷の人々【映画情報】ムービーネット
http://www.movienet.co.jp/movie/opus01/tenjousajiki/index.html
※Yahoo!百科事典:ブラッスール
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%AB/
サイレント映画 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%A3%B0%E6%98%A0%E7%94%BB
E-Magazine:バックナンバー
http://sv3.inacs.jp/bn/?2007090085659263010848.7777

発芽野菜の日

2009-09-20 | 記念日
日本記念日協会の9月20日の記念日をみると、「発芽野菜の日」がある。
”一般の野菜よりも数倍栄養が高く、生活習慣病の予防でも注目される発芽野菜(スプラウト)をアピールしようと、発芽野菜を手がける株式会社村上農園が制定。日付は20日をハツガと読む語呂合わせから。”だとか。
スプラウト」(sprout)とは新芽や発芽するといった意味を持ち、新芽野菜の総称として使われている。
今、スーパーなどでは、カイワレ大根やモヤシなどのほか、ブロッコリー、ラディッシュ、マスタード、クレス( Cress。アブラナ科の2種の植物の総称)、レッドキャベツなどいろいろな種類のスプラウトが売られており、スプラウトは、目新しい野菜のように思われがちだが、古くは5000年前の古代中国でマメ科のスプラウトであるモヤシが栽培されていたようで、当時より新芽が健康に良いと考えられていたことが分る。そして、18世紀後半に南太平洋などをイギリスの小型帆船エンデバーで航海したキャプテン・クック(ジェームズ・クック)も、船上で大麦のスプラウトをつくり、船乗りたちの栄養補助源としたといわれているそうだ。また、19世紀英国ビクトリア朝時代にメアリー・ジューリーという料理研究家によってマスタードやクレスのスプラウトを使った料理本が残されているという。
「ひらひらと月光降りぬ貝割り菜」 
高浜虚子に師事し、花鳥諷詠を唱えた虚子に『花鳥諷詠真骨頂漢』とまで言わしめたホトトギス派・写生派の俳人・川端 茅舎(かわばた ぼうしゃ)の句である。
「カイワレ大根」は、もともと「貝割れ大根」と書き「貝割り菜」とも言っていた。ダイコン(大根)は種をまくと直ぐに発芽する。典型的な双子葉植物で、二枚貝を開いた様に見えることからこの名が付いたのだろう。そんな、貝割り菜に月の光が降り注いでいる光景を歌ったものだろうが月の光が「ひらひら」降るなどの表現が情緒的でもあり神秘的だ。
日本が世界に誇る野菜といえば、なんと言っても大根である。世界的な通り名(英名)も、「daikon radish」、「Japanese radish」 。ダイコンは世界中で古くから作られているため、原産地は様々な説があるが、日本には弥生時代に中国から渡来したとされ、『古事記』712年の仁徳天皇の歌にダイコンが登場しており(以下参考の※:大根の白腕参照)、実際、仁徳天皇の御陵からダイコンの種子が発見されているという。気象、土質が違う地域にも土着し、自生ダイコンになったり、選抜・改良されたりして多くの品種が誕生ている。
このダイコン(大根)は、アブラナ科の野菜であり、どんな食べ方をしても、当たらない(中毒しない)事から、へたな役者のことを大根役者と言うようになったそうだが、根は、生食としてとして大根おろし、サラダに、繊切りにして刺身のけんなどに使われるほか浅漬けなどに。またおでんやブリ大根などの煮込み料理、味噌汁の具としてなど幅広く使われ、漬物(沢庵漬け、べったら漬け)や切り干し大根として保存食としても利用されている。
葉の部分もスズシロ(清白)と呼ばれ、春の七草のひとつである。現在市販されている大根は、ほとんどが葉の部分は捨てられたり、販売の際に葉を切り落とされたりしてしまっているが、葉の部分の栄養価は高くもったいない話だ。かっては炒め物にして食べたり、カブの葉同様、刻んで飯に炊き込んで菜飯などにしていた。間引きをした大根の苗は間引き菜(密植した苗を少数の苗を残して残りを抜いてしまったもの)と呼ばれ、おひたし、みそ汁の具として用いられる。発芽直後の胚軸と子葉(Yahoo辞書参照)はカイワレ大根というスプラウト食材とされる。
このカイワレ大根はすでに、平安時代の貴族たちの食膳にのぼっていたとも伝えられているが、1970年代に水耕栽培が普及するまでは寿司屋や料亭などで彩り・添え物などに使われる高級食材であった。
カイワレ大根と言えば、以前に、大阪府堺市で学校給食へのO-157汚染による食中毒事件の感染源の可能性が高いなどとの濡れ衣(報道)を着せられたことがあるが、その風評被害を打開するため、当時の厚生大臣であった菅直人が安全さをアピールする目的でカイワレを食べる姿が報道され、彼はカイワレ大臣などと言われたことがあったのを思い出す。
最近、テレビや雑誌などでこのスプラウトが話題になっているのは、成熟した野菜よりはるかに多くの栄養素(ビタミンC、ビタミンB1、B2、β-カロチン、ミネラルなど)が凝縮されており、「がん予防」 にも効果のある食品である事が判明したからのようだ。
1977(昭和52)年、今から27年前、当時のアメリカでは医療費が増大し、財政的危機にあった。当時のフォード大統領が、「こんなに医学に金をかけて、医療がこれだけ進んでいるのに、どうして病気の人が減らないんだ!」と言い始めた。そして、大統領の命を受けた、アメリカ上院栄養問題特別委員会が、2年間かけて、慢性病と食事との関係について世界的に調査し、5000ページにわたる「レポート」を完成。 それがマクガバン・レポートと言われるもので、当時の副大統領候補だった同委員会の委員長ジョージ・S・マクガバンの名前からそう呼ばれている。
このレポートでは、アメリカ人の食生活を、「諸々の慢性病は肉食中心の誤った食生活がもたらした食原病であり、薬では治らない」とし、大量の脂肪、砂糖、食塩が心臓病、がん、脳卒中など命を奪う病気に直結していることを指摘した。しかしこの報告書によって、マクガバンは医学界や畜産業界などから反発を受けて、副大統領になれなかったという。
又、この時、エドワード・ケネディー(大統領を務めたジョン・F・ケネディの弟)は、北海道や沖縄にも、また日本の10数か所(長寿村と呼ばれる地区に)、に訪問し、調査をしているという。そして「最も理想的な食事は元禄時代以前の日本人の食事である。」と報告。 その食時とは、「精白しない殻類を主食とした季節の野菜や海草や小さな魚介類であること」が明記されているそうだ(以下※:始まりは「マクガバンレポート」から参照)。
同委員会は、次にNCI(国立がん研究所)に対し、栄養(食事)とがん(癌)との関係の研究を依頼。アメリカ国立科学アカデミー(独立系の科学者団体)でも、1982(昭和57)年に「食と栄養とがん」という報告書をまとめた。報告書では、脂肪の高摂取ががんを増加させることや、野菜、果物、全粒穀物を重視した食生活ががんの罹患率を低下させることを示唆。こうした研究の成果として、1990(平成2)年、NCIは「デザイナーフーズ」計画(植物性食品によるがん予防)を発表。
この研究では、植物性食品に含まれる数万種類の化学物質のうち、約600種の化学物質にがん予防効果の可能性があると判断。そのなかで、予防に効果のある食品および食品成分のうち約40種類をピックアップしたのが「デザイナーフーズ・ピラミッド」で、ピラミッドは3つのランクに分けられ、抑制効果の高いものを頂点にピラミッド型で示されている。以下参照。
ガン治療基礎:デザイナーフーズプログラム
http://www.natural-plus.jp/siryousitu/mame/de_f.htm
ここで、プラウトを振り返ってみると、カイワレ大根は(アブラナ科)なので2群にふくれている。レッドキャベツ、ブロッコリー、クレスもアプラナ科である。一言でアブラナ科といっても、他にまだまだおなじみの食材があり、例えば、わさび、からしなどのスパイス、そしてクレソン、カブ、チンゲンサイなどの野菜もアブラナ科である。
アメリカでは、こうした機能性食品(ファンクショナルフーズ)の研究成果と、NCIや消費者教育財団・ベターヘルス農産物財団などが提唱した「1日5皿以上の野菜と果物をとろう」という「5ADay(ファイブ・ア・デイ)」運動(1991年)など、官民が共同で進めた全国的運動が発展し、その結果、国民の野菜と果物の摂取量がしだいに増加していった。
日本の厚生労働省・国民栄養調査では、1986年~2001年の間の日本人の1日あたりの野菜摂取量を見ると徐々に減少傾向であるのに対し、アメリカでは1995年の時点で国民1人あたりの野菜消費量が日本人の摂取量を上回っている(以下参考の※:「ニッスイ・マーケット&テクニカルリサーチ」2ページの図表3を参照)。
厚生労働省の「平成19年国民健康・栄養調査結果の概要について」は 、⇒ ここ を参照。
“食生活の状況について”は、
(1)朝食の欠食率を年次推移でみると、男女ともに高くなる傾向がある。
(2)野菜摂取量の平均値は290gであり、「健康日本21」の目標値である350gに達していない。また、朝食をとっている者のうち、野菜を350g以上摂取している者は約3割、朝食をとっていない者で野菜を350g以上摂取している者は2割未満に留まる。・・・という。
1979年、マクガバン・レポートが作成された時には、かっての日本の食生活が最も理想とされ、1990(平成2)年、NCIが「デザイナーフーズ」計画を発表してから、わずか10年余りの間に、アメリカ人は日本人よりも野菜の高機能性成分の恩恵を享受するようになったが、一方の日本では、美容だ健康だなどといいながら、食生活は余り、改善されていないようだね。
偉そうなことを言いながら、私も野菜の摂取は不足気味なので、今日から、しっかりと、スプラウトを食べるようにしよう~。兎に角、スプラウトの調理は、簡単なことが特徴だからね。
(画像は、プランタンで栽培されているカイワレダイコン)
参考:
スプラウト - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%88
※:始まりは「マクガバンレポート」から1(PDF)
http://www.laface.biz/file/43/makugaban.pdf#search='マクガバン・レポート'
※:ニッスイ・マーケット&テクニカルリサーチ
http://www.nissui.co.jp/academy/market/01/index.html
スプラウト野菜はがん予防になる!? - [女性の健康]All About
http://allabout.co.jp/health/womenshealth/closeup/CU20060823A/index2.htm
ジョージ・マクガヴァン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%AC%E3%83%90%E3%83%B3
ガン治療基礎:デザイナーフーズプログラム
http://www.natural-plus.jp/siryousitu/mame/de_f.htm
悪性腫瘍 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E6%80%A7%E8%85%AB%E7%98%8D
株式会社村上農園
http://www.murakamifarm.com/
ガンや慢性病をつくる食べ物
http://www.urban.ne.jp/home/kenbi/cancer.htm
慢性病と薬
http://homepage3.nifty.com/shouhakudou/mannseibyoutokusuri.htm
21世紀における国民健康づくり運動 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%A5%E5%BA%B7%E6%97%A5%E6%9C%AC21
※:栄養調査|情報のひろば|国民栄養調査
http://www.nih.go.jp/eiken/nns/kokumin/
※:厚生労働省:健康:栄養(平成15年~19年)
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kokumin-kenkou.html
川端茅舍 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E8%8C%85%E8%88%8D
※:大根の白腕
http://www.h6.dion.ne.jp/~chusan55/mukashi3/37mukashi.htm
Healthクリック
http://www.health.ne.jp/supple/index.html
サラダコスモ
http://www.saladcosmo.co.jp/company/

蘆花忌(小説家・冨蘆花の忌日)

2009-09-18 | 人物
今日・9月18日は、明治、大正期の小説家・徳冨蘆花の1927(昭和2)年の忌日。
徳冨蘆花(本名:徳富健次郎)は、1968(明治元)年、熊本県水俣の惣庄屋(そう goo辞書【惣】参照)兼代官をつとめる名家に生まれる。父の一敬は漢学者。兄に、評論家で民友社を興し、平民主義(以下参考の※:平民主義参照)を主張する月刊誌『国民之友』や『國民新聞』などを創刊したジャーナリストの徳富蘇峰(本名:猪一郎)がおり、兄弟で明治の文壇で活躍した。
同志社英学校に学びキリスト教の影響を受け、クリスチャンとして、伝道に携ったりもした。同志社時代に同志社の創立者である新島襄の義理の姪との恋愛をとがめられて、1889(明治22)年20歳のときに上京。兄蘇峰の民友社に入り記者となり、翻訳なども手掛けた。1894(明治27)年、原田藍と結婚。彼女は東京高等師範を卒業した才女で、徳富愛子という筆名で活躍していたようだ。蘆花は青年時代より秀才の兄に対する劣等感が強かったが、その兄蘇峰は、当時の代表的なジャーナリストとしての地位を築いていく。しかも、結婚した妻にも引け目を感じていた。蘆花の号となっている蘆(アシ)もススキのような花穂をつけるが、そんな花には誰も関心を寄せもしないし振り向きもしない。蘆花は兄の蘇峰が雄大な阿蘇山からそのペンネームをとっているのに対して、随筆小品集『自然と人生』の中で、「『蘆の花は見所とてもなく』と清少納言は書きぬ(以下参考の※:枕草子・六五 草の花は)。然もその見所なきを余は却って愛するなり」として、自身を見所もないと評価して「蘆花」を名乗ったそうで、姓も本来の姓であり兄の蘇峰も名乗っている「徳富」の字をわざと使わず「徳冨」(「富」ではなく「冨」)の表記にこだわっており、当時の蘆花の心は相当に屈折していたのだろう。
そんな、彼に30歳の時、転機が訪れる。転地で逗子に滞在中、大山 巌元帥の娘、信子の境涯を聞いた話しをもとに1898(明治31)年に書いた『不如帰』の大ヒットで一躍人気作家の地位を確立。つづく随筆集『自然と人生』も好評で生活も安定するようになった。自伝的長編小説の『おもひでの記』(単行本は『思い出の記』、も若い人々の間で評判を呼んだようだ(これら『自然と人生』『思い出の記』の2冊の本を私は読んでいないが、今青空文庫で校正中らしいので、そのうち読めるだろう)。
日清戦争後の三国干渉に衝撃を受け、平民主義から強硬な国権論・国家膨脹主義に転じ、次第に国家主義的傾向を強める兄の蘇峰とは不仲となり、民友社を退職後、1902(明治35)に書いた『黒潮』のなかで政界を批判したことがもとで、兄蘇峰とは絶縁状態となった。平民主義から国家主義よりに転向した兄に対抗して、蘆花は、社会主義に接近。彼は、トルストイに傾倒し、日露戦争後の1906(明治39)年にトルストイ訪問の旅に出、帰国した翌年、「美的百姓」と称して東京の郊外・千歳村粕谷(現在の世田谷区)へ転居し半農生活をしている。その生活ぶりを書き始め、それをまとめたのが『みみずのたはこと』である。
ここは、蘆花の死後、夫人より東京市に寄贈され、現在は蘆花恒春園(面積約7万平方メートル)として開放されている。
1927(昭和2)年、心臓発作で倒れ、伊香保温泉へ静養に行き、そこで、死の直前になって、蘇峰と再会、和解し、後事を託して亡くなった時、『不如帰』はなんと190版を目前にしていたという(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。
ところで、この小説『不如帰』(ほととぎす)は、1898(明治31)年から1899(明治32)にかけて兄・蘇峰が創刊した日刊新聞国民新聞に掲載されたものが、1900(明治33)年に単行本っとして出版されるやベストセラーとなったものであるが、国民新聞に掲載された『不如帰』には「ほととぎす」と読みが示してあったが、後に著者は、本作品を「ふじょき」と呼び、「第百版不如歸」の巻頭にも、そうルビが付してある。そして『不如帰』をわざわざ『小説不如帰』としているのは、実話を元にしながらも、あくまでフィクションであることを強調する意図から付けられたもののようだ。
「第百版不如歸の巻首に」には、「もうそのころは知る人は知っていたが自分にはまだ初耳の「浪子」の話である。「浪さん」が肺結核で離縁された事、「武男君」は悲しんだ事、片岡中将が怒って女(むすめ)を引き取った事、病女のために静養室を建てた事、一生の名残に「浪さん」を連れて京阪の遊(ゆう)をした事、川島家からよこした葬式の生花(しょうか)を突っ返した事、単にこれだけが話のなかの事実であった。」とある。
「浪さん」:小説上のヒロインの「麗妙 波子」は 元帥男爵大山巖陸軍大將の長女「大山信子」である。
日露戰爭に滿洲軍總司令官として日本の勝利に多大な貢献をした大山 巖は1876(明治9年)35歳で後の伯爵吉井友實の長女沢と結婚し、翌年 長女信子を得たが、沢は當時不治の病と言われた肺結核で亡くなり、信子が17歳で三島家に嫁いだ1893(明治26)年には、父巖は、津田梅子らと岩倉使節団に同行して渡米した新政府留学女学生の1人で米國で教育を受けた山川捨松(会津藩士山川重固の娘)を後妻として迎へていた(1883=明治16年)。
又、「武男君」:海軍少尉男爵川島武男は、農商務省技師子爵三島彌太郎であり後の第8代日本銀行總裁である。
当時の上流階級を舞台にした小説であり、主人公の浪子は当時不治の病だった結核のために家系の断絶を恐れる姑によって無理やり幸せな結婚生活を引き裂かれた挙げ句、実家に戻ると今度は、非情冷徹な継母によって離れに押し込まれ、寂しくはかない生涯を終える。
主人公の浪子が、「もう女には生まれてこない」と絶叫するもっとも有名なシーンは以下の通り(青空文庫「不如帰 小説」下九のニより引用)。
“日は暮れぬ。去年の夏に新たに建てられし離家の八畳には、燭台の光ほのかにさして、大いなる寝台一つ据えられたり。その雪白なるシーツの上に、目を閉じて、浪子は横たわりぬ。二年に近き病に、やせ果てし躯(み)はさらにやせて、肉という肉は落ち、骨という骨は露(あら)われ、蒼白(あおじろ)き面(おもて)のいとど透きとおりて、ただ黒髪のみ昔ながらにつやつやと照れるを、長く組みて枕上(まくら)にたらしたり。枕もとには白衣の看護婦が氷に和せし赤酒を時々筆に含まして浪子の唇を湿(うるお)しつ。こなたには今一人の看護婦とともに、目くぼみ頬落ちたる幾がうつむきて足をさすりぬ。室内しんしんとして、ただたちまち急にたちまちかすかになり行く浪子の呼吸の聞こゆるのみ。
たちまち長き息つきて、浪子は目を開き、かすかなる声を漏らしつ。
 「伯母さまは――?」
 「来ましたよ」
 言いつつしずかに入り来たりし加藤子爵夫人は、看護婦がすすむる椅子をさらに臥床(とこ)近く引き寄せつ。
 「少しはねむれましたか。――何? そうかい。では――」
 看護婦と幾を顧みつつ
 「少しの間(ま)あっちへ」
 三人(みたり)を出しやりて、伯母はなお近く椅子を寄せ、浪子の額にかかるおくれ毛をなで上げて、しげしげとその顔をながめぬ。浪子も伯母の顔をながめぬ。
 ややありて浪子は太息(といき)とともに、わなわなとふるう手をさしのべて、枕の下より一通の封ぜし書(もの)を取り出(いだ)し
 「これを――届けて――わたしがなくなったあとで」
 ほろほろとこぼす涙をぬぐいやりつつ、加藤子爵夫人は、さらに眼鏡(めがね)の下よりはふり落つる涙をぬぐいて、その書をしかとふところにおさめ、
 「届けるよ、きっとわたしが武男さんに手渡すよ」
 「それから――この指環(ゆびわ)は」
 左手(ゆんで)を伯母の膝(ひざ)にのせつ。その第四指に燦然(さんぜん)と照るは一昨年(おととし)の春、新婚の時武男が贈りしなり。去年去られし時、かの家に属するものをばことごとく送りしも、ひとりこれのみ愛(お)しみて手離すに忍びざりき。
 「これは――持(も)って――行きますよ」
 新たにわき来る涙をおさえて、加藤夫人はただうなずきたり。浪子は目を閉じぬ。ややありてまた開きつ。
 「どうしていらッしゃる――でしょう?」
 「武男さんはもう台湾(あちら)に着いて、きっといろいろこっちを思いやっていなさるでしょう。近くにさえいなされば、どうともして、ね、――そうおとうさまもおっしゃっておいでだけれども――浪さん、あんたの心尽くしはきっとわたしが――手紙も確かに届けるから」
 ほのかなる笑(えみ)は浪子の唇(くちびる)に上りしが、たちまち色なき頬のあたり紅(くれない)をさし来たり、胸は波うち、燃ゆばかり熱き涙はらはらと苦しき息をつき、
 「ああつらい! つらい! もう――もう婦人(おんな)なんぞに――生まれはしませんよ。――あああ!」
 眉(まゆ)をあつめ胸をおさえて、浪子は身をもだえつ。急に医を呼びつつ赤酒を含ませんとする加藤夫人の手にすがりて半ば起き上がり、生命(いのち)を縮むるせきとともに、肺を絞って一盞(さん)の紅血を吐きつ。※々(こんこん)として臥床(とこ)の上に倒れぬ。・・・・・。“
結核は明治前期の資本主義経済発展とともに増え続けた。国家規模で対策が本格化するのは1913(大正2)年に日本結核予防協会が発足してからである。
ロベルト・コッホ結核菌を発見した1882(明治15)年の結核死亡者は1万3808人だった。年々増え日本結核予防協会発足の1913(大正2)年は死者11万753人となっていたという(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。
結核は若き天才が倒れる病気でもあり、樋口一葉は1896(明治29)年に24歳で、石川啄木は1912(明治45)年26歳で、1902(明治35)年に35歳で亡くなった正岡子規 は結核を病み、喀血後、血を吐くまで鳴きつづけるというホトトギスに自らをなぞらえて子規(漢語でホトトギスの意)という号をもっぱら用いた。
そんな、結核の残酷さを信子を通じて浮き彫りにし、結核に、「悲劇の病」というイメージを与えるに決定的であったのが、『不如帰』であり、美貌のヒロイン浪子が武男を慕いながらも、家の体面や運命によって愛を引き裂かれ、哀れにその生涯を終える物語は、映画や新派劇などで繰返し上演された。
ところがこの小説に描かれた継母が捨松の実像と信じた読者の中には彼女に嫌悪感を抱く者が多く、誹謗中傷の言葉を連ねた匿名の投書を受け取ることすらあった。そのため、捨松は晩年までそうした風評に悩んでいたという。
実際には、信子の発病後、離縁を一方的に申し入れてきたのは夫の三島彌太郎とその母であり、悩む捨松を見るに見かねた津田梅子は三島家に乗り込んで姑に猛抗議しているという。捨松は看護婦の資格を活かし親身になって信子の看護をし、信子のためにわざわざ離れ(隔離病棟)を建てさせたのも、結核が当時は伝染病(今では結核菌により引き起こされる感染症)と捉えられていた時代、伝染病持ちである信子に気兼ねせずに自宅で落ち着いて療養に専念できるようにとの思いやりからだったようであり、捨松は巌の連れ子たちから慕われ、家庭は円満だったという。
「第百版不如歸の巻首に」の最後に、「・・で、不如帰のまずいのは自分が不才のいたすところ」・・とあるのは、そのような誤解を招いたことに対してであろうが、蘆花からこの件に関して公に謝罪があったのは、『不如帰』出版から実に19年を経た1919(大正8)年、捨松が急逝する直前のことだった。雑誌『婦人世界』で盧花は「『不如歸』の小說は姑と繼母を惡者にしなければ、人の淚をそゝることが出來ぬから誇張して書いてある」と認めた上で、捨松に対しては「お氣の毒にたえない」と遅きに失した詫びを入れている。
(画像は、『不如帰』初版本。Wikipediaより)
参考:
徳富蘆花 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%AF%8C%E8%98%86%E8%8A%B1
徳富蘆花
http://www18.ocn.ne.jp/~bell103/dooptokutomiroka.html
作家別作品リスト:徳冨 蘆花
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person280.html
作家事典:ほら貝目次
http://www.horagai.com/www/who/index.html
ふるさと寺子屋塾<No.136>
http://cyber.pref.kumamoto.jp/renmei/magazine_terakoya/Number_136.htmll
私立PDD図書館
http://pddlib.v.wol.ne.jp/biography/tokuta.htm
清少納言 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%B0%91%E7%B4%8D%E8%A8%80
文化としての結核、その歴史
http://www.tanken.com/kekkaku.html
結核予防会ホームページ
http://www.jatahq.org/
国立国会図書館デジタルアーカイブポータル
http://www.dap.ndl.go.jp/home/modules/dasearch/dirsearch.php?id=oai%3Akindai.ndl.go.jp%3A41011257-00000&cc=09_01_04&keyword=&and_or=AND
※:平民主義
http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q214L200.HTM
※:枕草子
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/koten/makurano.htm

国産なす消費拡大の日

2009-09-17 | 記念日
日本記念日協会で9月17日の記念日を見ると 「国産なす消費拡大の日」というのがあった。その説明には”冬春なす主産県協議会が2004(平成16)年2月9日に制定したもの。4月17日の「なすび記念日」の17日を、毎月なすの消費を増やす日にしようという”ことで設けたらしい。 最近は、このような企業や団体の広告のための記念日がやたらと多くなったが、私は、ブログのネタとして戴き、今日はナスについて書こう。
「ナス」はナス目・ナス科の植物 (双子葉植物合弁花類)で、トマト、トウガラシ、ジャガイモ、タバコなどと同じ仲間。「ナス」の学名は「Solanum melongena L.(ソラナム・メロンゲーナ)」。この学名は植物分類を確立したカール・フォン・リンネ(Carl von Linné)が付けたもので、リンネは植物の分類の基礎が花のおしべめしべにあると確信したというが、ナス科の植物の特徴は花の構造にあり、先ずはオシベ・メシベが1つの花の中にある両性花で1枚の花びら(花冠)が5つに裂けていること、オシベが花冠につくことなどの特徴があるようだ(以下参考の※:「ナス科の花の写真」参照)。
ナスの原産地は、インドの西ベンガル州の州都であるカルカッタからマドラス(現:チェンナイ)に向かってそびえる東ガード山脈あたりと考えられているようだ。この地域での「ナス」は、亜熱帯の暑い気候とモンスーンの雨の多い6月から9月に生育しており、「ナス」の持っている高温と湿度の高い条件で生育して多くの肥料を必要とするという性質は、この生まれ故郷の環境によるもので、現在、日本で栽培されているナスもこの性質が受け継がれているのだそうだ。
学名の「Solanum」とはナス属という意味で、語源となったラテン語のSolamen(ソラナム)には、「鎮静」という意味があるようだが、これは、なす属の植物には鎮痛作用を持つものがあることかららしい。又、「melongena」には、「ウリがなる」という意味がある。
中国の古書「斉民要術」(405~556)にはナスの栽培、採種のことなどが書かれており、また「本草拾遺」(713)には、「隋煬帝改茄日 崑崙紫瓜」という記事があり、多くの品種が記載されていることから、後魏(こうぎ=北魏)時代(4世紀~5世紀ごろ)以前にチベットから崑崙(こんろん)山脈を経て中国に伝わったと考えられているようだ。
古くは「崑崙紫瓜」とか、「落蘇(らくそ)」などと言われていたようだが、江戸時代の博物事典ともなっていた中国・明朝の李時珍による薬学書『本草綱目』の図巻には「ナス」は、菜部 蓏菜類の中に「」として記載されているが、一般には茄子と書かれおり、別名を「茄瓜」、「矮瓜」ともいい、古い名称では「酪酥」とも呼ばれていたようだが、これはナスの味がチーズ類()に似ていたからつけられたものだという。
ヨーロッパではかつて白い卵形のナスが観賞用になっていたことから「ナス」の英語名では「egg plant」と名づけられたようだ。現在使われている「茄」「茄子」の2通りの漢字は中国では「チェズ」と発音されるようだが、それは、英語圏の「Say!cheese(チーズ)」の影響だとか。この中国語の漢字「茄子」が日本でもそのまま使われている。
日本へは、中国から渡来し、すでに奈良時代には栽培されていたといい、日本での最古の記録としては、東大寺正倉院文書に「天平勝宝2年(西暦750年)6月21日藍園茄子を進上したり」とあり、『倭名類聚鈔』(923~930)には「奈須比(ナスビ)」という名前を見ることができ、関西で「ナスビ」と言っているのはここから来ているのだろうが、これが正しい和名で、関東などで単に「ナス」というのは後の女房言葉「おなす」の「お」をとった簡略名か、漢名「茄子」を日本読みしたものであろうが、一般には簡略名だといわれている。
又、『延喜式』(928)の耕種園圃の部には、ナスの栽培のことや、ナスの漬物加工のことなども載っているというからすでに、この当時から日本でも「なす」は欠かせない野菜となっていたようだ。
野菜にはがあるが、近年では品種改良・作型の改良(ハウス栽培など)・輸入野菜の増加などによって、旬以外の時期でも市場に年間を通して供給されるようになり、「なす」も1年中、食品スーパーの店頭を飾るようになった。しかし、露地物の「茄子」の旬は、夏~秋(7月 10月)。俳句の季語では晩夏だ。「冬春なす」に対して「夏秋なす」と言われるものだが、その中でも、これからの秋に出回る「秋なす」が、皮が薄く、実もしまっており種が少なく、一番美味しいと言われている。
「ナス」の諺(ことわざ)で有名なものに、「秋なすは嫁に食わすな」・・・がある。
この諺は、鎌倉時代後期の私撰和歌集『夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)』の「秋なすび醅(わささ=新酒)の粕(かす)につきまぜてよめにはくれじ棚に置くとも」から出たもので、秋ナスは味がよいので嫁には食べさせるなという意味で、嫁を憎む姑の心境を示しているという説がある。しかし、『広辞苑』第三版、「あきなすび」の項)には、「よめにはくれじ」の「よめ」とは「嫁が君(ネズミのこと)」の略であり、即ち「鼠に食わすな」ということであって、後世、姑に対する嫁と解して、秋茄子は「身体を冷やすから」あるいは、「種子が少なくて子種がないと困るから」大事な嫁に食わすな、また、逆に、「種子が多くて妊みやすいから」あるいは、先に挙げた「こんなにうまいものだから」憎い嫁に食わすな、などの諸解を生じたとある。しかし「嫁が君」は正月三が日に出てくるネズミを忌んで言う言葉(以下参考の※嫁が君参照)であり、「鼠に食わすな」は季節が合わずやや疑問がある。
江戸時代の貝原益軒によって書かれた『養生訓』に、「茄子は性が寒冷で多食すれば腹痛下痢をおこし、婦人は子宮を傷める」とある事などから、嫁の体を案じた言葉だという説などもあり、私はこの解釈で使われたと思いたいものだ。(以下参考の※:原文『養生訓』全巻、※:【養生訓の話・飲食等参照)。
又、同書にはも「茄子、本草等の書に、生なるは毒あり、食ふべからず。」とあるように、茄子はそのまま食べるのは良くないが、適當の調理法を行へば、使う用途は非常に幅が広く、煮て良し焼いて良し炒めて良し。さらに漬物良しの食材である。
「なにもなすびの香のもの」・・・とは、特別のごちそうはないが、茄子の漬物くらいは用意してあるので気軽にきてほしい。という意味で、人を接待する時の諺。
明治期の文豪島崎藤村は、1872(明治5)年2月17日(新暦3月25日)、信州・馬籠村 (長野県木曽郡山口村神坂馬籠越境合併により、 2005年2月12日岐阜県中津川市馬籠となった。)に四男として生れた。生家は代々、本陣庄屋問屋をつとめる名家で、あり、彼の晩年の大作で、「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで知られる歴史小説『夜明け前』は、米国ペリー来航の1853年(嘉永5年)前後から1886年(明治19年)までの幕末明治維新の激動期を舞台に、父をモデルとした主人公青山半蔵をめぐる人間群像を描き出している。
そんな馬籠宿を大名、旗本、幕府役人をはじめ多くの旅の人が宿泊しあるいは旅の途中で小休止したりしているが、この小説には、兎に角いろいろな食べ物が登場する。そんな中に茄子の新漬が登場する。青空文庫『夜明け前』 第一部上の第一章の一からその部分を少し見てみよう。
馬籠の宿で、伏見屋と言って、造り酒屋をしている金兵衛は本陣の当主吉左衛門を夕食に誘う場面。以下本文より・・。
“「いや、お帰り早々、いろいろお骨折りで。まあ、おかげでお継立(つぎた)ても済みました。今夜は御苦労呼びというほどでもありませんが、お玉のやつにしたくさせて置きます。あとでおいでを願いましょう。そのかわり、吉左衛門さん、ごちそうは何もありませんよ。」
酒のさかな。胡瓜(きゅうり)もみに青紫蘇(あおじそ)。枝豆。到来物の畳(たた)みいわし。それに茄子(なす)の新漬(しんづ)け。飯の時にとろろ汁(じる)。すべてお玉の手料理の物で、金兵衛は夕飯に吉左衛門を招いた。店座敷も暑苦しいからと、二階を明けひろげて、お玉はそこへ二人(ふたり)の席を設けた。山家風(やまがふう)な風呂(ふろ)の用意もお玉の心づくしであった。招かれて行った吉左衛門は、一風呂よばれたあとのさっぱりとした心持ちで、広い炉ばたの片すみから二階への箱梯子(はこばしご)を登った。黒光りのするほどよく拭(ふ)き込んであるその箱梯子も伏見屋らしいものだ。西向きの二階の部屋(へや)には、金兵衛が先代の遺物と見えて、美濃派の俳人らの寄せ書きが灰汁抜(あくぬ)けのした表装にして壁に掛けてある。八人のものが集まって馬籠風景の八つの眺(なが)めを思い思いの句と画の中に取り入れたものである。この俳味のある掛け物の前に行って立つことも、吉左衛門をよろこばせた。夕飯。お玉は膳(ぜん)を運んで来た。ほんの有り合わせの手料理ながら、青みのある新しい野菜で膳の上を涼しく見せてある。やがて酒もはじまった。
吉左衛門さん、何もありませんが召し上がってくださいな。」とお玉が言った。“
吉左衛門のご苦労に応えての金兵衛の夕食への誘いである。ごちそうというより山や畑でとれた素朴なものばかり。木曽の山中では貴重な海のものとして出てくる畳いわしは、静岡などで獲れたカタクチイワシを加工したものであろうが少しあぶってつまみにすると酒に良く合う。接待する客人への環境面での細かい配慮がされている。お玉の夕食の膳は簡素ではあるが、旬の新しい素材を使ったものであり、当時の仲間内でのおもてなしとしては精一杯のことをしているのだろう。私も、現役時代は仕事で良く信州へ行ったものだが、このような山地では、山で採れた野菜が一番美味しい。それを食べるのが楽しみであったくらいである。
茄子の美味しい時期、ナスの紫色の皮の色素に含まれる「ナスニン」(アントシアン系色素)と言うポリフェノールの一種が含まれているそうで、この物質は、体に有害な活性酸素を抑える作用があり、動脈硬化など生活習慣病を防ぐ働きがあるそうだ。色々な調理法があるが、ナスニンは水に溶けやすいので煮物や味噌汁など汁も食べられる料理が効果的らしい。私もせっせと、秋茄子の味噌汁などを食べるようにしよう。
(画像は、ある食品スーパーの農産売り場のナス)
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国産なす消費拡大の日:参考

2009-09-17 | 記念日
参考:
ナス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%99%E3%81%B3
ナス - Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%8A%E3%82%B9/
瀬高なす物語-「なすの話」
http://www.hakata-nasu.com/siryou/index.html
カール・フォン・リンネ-Wikipedia
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季語・茄子
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島崎藤村 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%B4%8E%E8%97%A4%E6%9D%91
作家別作品リスト:No.158島崎 藤村
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person158.html#sakuhin_list_1
Goodだね!博多なす
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斉民要術 - Wikipedia
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ナスについて〜食品の栄養(野菜)〜「栄養管理&食品」
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野菜ものしり博士 - 「なす」(タキイ種苗)
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※:本草綱目:菜部 蓏菜類(長野電波技術研究所附属図書館)
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本草綱目 – Wikipedia
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日本記念日協会
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レシピ!秋茄子
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和名類聚抄 - Wikipedia
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養生訓 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E7%94%9F%E8%A8%93
※嫁が君
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※:原文『養生訓』全巻
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/youjoukun_zen.html
※:【養生訓の話・飲食(下)】
http://ww7.tiki.ne.jp/~onshin/yozyo4.htm
※:ナス科の花の写真
http://hhana.biz/kensakun.php?how=ka&id=76
※:茄(中国語を和訳)
http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,eCR-CJ,bT,hT,uaHR0cDovL2Vqb3VybmFsLm5yaWNtLmVkdS50dy9ucmljbTIvcGFnZXMvc2hvdy5waHA/cXJ5X2R0bmJyPTI5JnFyeV9kc25icj0zMjI=,qlang=ja|for=0|sp=-5|fs=100%|fb=0|fi=0|fc=FF0000|db=T|eid=CR-EJ,