Yoz Art Space

エッセイ・書・写真・水彩画などのワンダーランド
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ぼくの切抜帖 12 マルセル・プルースト「失われた時を求めて」★デッサン

2014-12-29 15:43:10 | ぼくの切抜帖

なるほど、名というものは、風変わりなデッサンをする画家だ、人間や土地の、その現実にすこしも似ていないクロッキーをわれわれにあたえるものだから、想像した世界ではなく可視の世界をまえにしたとき、われわれはしばしばおどろきのあまり、一種の茫然自失に陥る(といっても、可視の世界が真の世界なのではない、われわれの感覚といったところで、想像にくらべてとくにすぐれた模写の能力をもっているわけではなく、現実からとらえることのできるデッサンは、結局近似的なデッサンであって、そのようなデッサンは、すくなくとも、目に見た世界が想像した世界とちがっているのとおなじ程度に、目に見た世界から食いちがっているのである)。

★マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第2巻」p203 井上究一郎訳・ちくま文庫




とすれば、「真の世界」はどこにあるのだろうか、という問題はさておき、確かに土地の名しか知らずにそこを訪れたときの「茫然自失」にはどこか覚えがあるような気がします。「え? こんなトコだったの?」っていう、アレです。


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ぼくの切抜帖 11 トルストイ「文読む月日」★書物

2014-12-25 17:01:47 | ぼくの切抜帖

 選ばれた小さな文庫のなかに、いかに巨大な富が存在しうることだろう。数千年にわたる世界のあらゆる文明国のなかから選ばれた、最も聡明にして尊き人々の世界が、その研鑽とその叡智の所産を、文庫のなかでいとも整然とわれわれに展示してくれているからである。それらの人々自体は姿も見えず、近づきがたい存在であり、またもしわれわれが彼らの弧独を破り、彼らの営為を妨害するならば、彼らはそれを堪えがたいと思うであろうし、あるいは社会的諸条件が彼らとの交流を不可能ならしめる場合もあるであろう。しかしながら、そこには彼らが己れの最上の友にさえも示さなかった思想が世紀を隔てた第三者のわれわれに、明瞭な言葉で述べられている。まことにわれわれは、人生における最大の精神的恩恵を書物に負うているのである。(エマスン)

トルストイ「文読む月日(上)」(「一月一日」の項)ちくま文庫・北御門二郎訳)



 トルストイの「文読む月日」は、トルストイ版「ぼくの切抜帖」とも言える本。ちくま文庫で3冊。宗教的・道徳的な色彩が非常に強いので、それほど広く読まれていないのかもしれませんが、言葉の宝庫です。ここから更に「切り抜く」のも、何か変ですが、それでも、ときどき、切り抜いてみます。

 確かに「書物」から、すべては始まるのです。ここでの「書物」は、いわゆる「古典」を指していますが、もっと広く考えれば、すべての「言葉」に、われわれは「精神的恩恵」を負っているのではないでしょうか。

 


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ぼくの切抜帖 10 マルセル・プルースト「失われた時を求めて」★事故

2014-12-20 15:26:55 | ぼくの切抜帖

 ときどき彼は、朝から晩まで外出している彼女が、街のなかや道路で、ふとした事故に会って、なんの苦しみもなく死んだらと望むことがあった。そして、彼女がぶじに帰ってくると、人間のからだが、ひどく柔軟であり、強靭であって、周囲に起こるすべての危険(ひそかに事故死をねがって危険を計算してみるようになって以来、危険は数かぎりなくあることにスワンは気づくのであった)そんな危険を、たえず食いとめ、未然にふせぐことができ、そんなふうにして、人々にたいして毎日ほとんどさしさわりなく、その虚偽の行為と快楽の追求にふけらせていることに、彼は感心するのであった。

★マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第1巻」p598 井上究一郎訳・ちくま文庫


 



自分を振り回す恋人の死をふと願うスワンが、ふとこんなことを思う。

確かに、ぼくらは、「数限りなくある危険」を、自然とたくみに避けて生きていられる。不思議なことです。



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ぼくの切抜帖 9 マルセル・プルースト「失われた時を求めて」★ケルト人の信仰

2014-12-15 10:10:23 | ぼくの切抜帖

 私はケルト人の信仰をいかにももっともだと思う、それによると、われわれが亡くした人々の魂は、何か下等物、獣とか植物とか無生物とかのなかに囚われていて、われわれがその木のそばを通りかかったり、そうした魂がとじこめられている物を手に入れたりする日、けっして多くの人々には到来することのないそのような日にめぐりあうまでは、われわれにとってはなるほど失われたものである。ところがそんな日がくると、亡くなった人々の魂はふるえ、われわれを呼ぶ、そしてわれわれがその声をききわけると、たちまち呪縛は解かれる。われわれによって解放された魂は、死にうちかったのであって、ふたたび帰ってきてわれわれとともに生きるのである。
 われわれの過去もまたそのようなものである。過去を喚起しようとつとめるのは空しい労力であり、われわれの理知のあらゆる努力はむだである。過去は理知の領域のそと、そのカのおよばないところで、何か思いがけない物質のなかに(そんな物質があたえてくれるであろう感覚のなかに)かくされている。その物質に、われわれが死ぬよりまえに出会うか、または出会わないかは、偶然によるのである。

★マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第1巻」p73 井上究一郎訳・ちくま文庫



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ぼくの切抜帖 8 マルセル・プルースト「失われた時を求めて」★ジルベルト

2014-12-11 15:31:46 | ぼくの切抜帖

そんなふうに、私のそばを、ジルベルトというその名が通りすぎた、一瞬まえまでは、彼女は不確定な映像にすぎなかったのに、たったいま、そのような名によって、一つの人格があたえられたのだ、いわば護符のようにさずけられた名であり、この護符はおそらくはいつか私に彼女を再会させてくれるだろう。そんなふうに、その名が通りすぎた、ジャスミンや、においアラセイトウの上で発せられ、みどりのホースの撒水口からとびだす水滴のように、鋭く、つめたく、そしてその名は、それが横ぎった──と同時に、他から切りはなしている──清浄な空気の圏内を、彼女の生活の神秘でうるおし、そこを虹色に染めながら、彼女と暮らし彼女と旅する幸福な人たちに、彼女をさし示し、そうした幸福な人たちと彼女との親密さ、私がはいれないであろう彼女の生活の未知のものにたいする、私にとってはいかにも苦しい、彼らの親密さの、エッセンスともいうべきものを、ばら色のさんざしの下の、私の肩の高さのところに、発散させているのであった。

★マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第1巻」p238 井上究一郎訳・ちくま文庫

 



初めて名前を知ったときというのは、こんな感じなのかもしれません。それにしても、美しい表現です。フランス語が読めないことがもどかしい。



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