Yoz Art Space

エッセイ・書・写真・水彩画などのワンダーランド
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ぼくの切抜帖 7 マルセル・プルースト「失われた時を求めて」★意識

2014-12-11 15:26:41 | ぼくの切抜帖

それに私の思考もまた一つのかくれた秣(まぐさ)小屋のようなもので、その奥にはいっていると、そとのようすをうかがうためにそうしているのであっても、私には深くもぐりこんでいるような気がしたのではなかったか? 私が外部にある一つの対象を見ていたとき、それを見ているという意識が、私とそれとのあいだに残って、うすい精神のふちで対象をかがり、そんなふちにさまたげられて、私は対象の実質に直接にふれることがどうしてもできなかった、その実質は、私がそれに接触しないうちにいわば蒸発したのであって、たとえばぬれたある物体に近づけられた白熱の物体は、つねに蒸発帯に先行されているために、湿気にふれないのと同様である。

★マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第1巻」p139 井上究一郎訳・ちくま文庫




「対象の実質に直接にふれる」ことの困難さ。

断片を引用しても、なんのこっちゃということになると思いますが、これはあくまで、ぼく自身のためのメモですので、ご容赦ください。


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ぼくの切抜帖 6 マルセル・プルースト「失われた時を求めて」★蠅の音楽

2014-12-11 15:26:27 | ぼくの切抜帖

それからまた、そとのすばらしい光の感覚は、私の目のまえで、小さな楽団を組んで、夏の室内楽のようなものを演奏している蝿たちによってしかつたえられないこともあった、この蝿の音楽は、人間がうたう音楽の一節──好季節に偶然きいたのが、つぎにきくときにその好季節を思いださせる──のように光の感覚を呼びおこすのではなくて、もっと必然的な一つの絆で夏にむすびついていて、快晴の日々から生まれ、そうした日々とともにしかふたたび生まれることはなく、そうした日々の本質の少量をふくんでいるのであって、われわれの記憶に単に夏の映像を呼びさますだけではなく、夏が帰ってきたことを、夏が実際に目のまえにあって、あたりをとりまき、直接に近づきうることを確証するものなのである。

★マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第1巻」p138 井上究一郎訳・ちくま文庫

 
 
「そうした日々の本質を少量ふくんでいる」が、非常に大事なことを言っているように思われます。



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ぼくの切抜帖 5 マルセル・プルースト「失われた時を求めて」★アスパラガス

2014-12-09 19:38:33 | ぼくの切抜帖

私は立ちどまって、調理台の上に、下働の女中がむいたばかりのグリーン・ピースが、何かのゲーム用のみどりの玉のように、数をそろえてならべられているのを見た、しかし私がうっとりしたのはアスパラガスのまえに立ったときで、それらは、ウルトラマリンとピンクに染められ、穂先はモーヴと空色とにこまかく点描され、根元のところにきて──苗床の土の色にまだよごれてはいるが──地上のものならぬ虹色の光彩によるうすれたぼかしになっていた。そうした天上の色彩のニュアンスは、たわむれに野菜に変身していた美しい女人たちの姿をあらわにしているように私には思われたが、そんな美女たちは、そのおいしそうな、ひきしまった肉体の変装を通して、生まれたばかりのあかつきの色や、さっと刷きつけられた虹の色や、消えてゆく青い暮色のなかに、貴重な本質をのぞかせているのであって、そのような本質は、私がアスパラガスをたべた夕食のあとにつづく夜にはいっても、まだ私のなかに認められ、そこに出てくる変身の美女たちは、シェイクスピアの夢幻劇のように詩的であると同時に野卑なファルスを演じながら、私のしびんを香水びんに変えてしまうのであった。

★マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第1巻」p203 井上究一郎訳・ちくま文庫




 アスパラガスを、こんな風に描くことのできる人なんて、他に知らない。

 色の描写は、上質の水彩画のようだ。でも、それが「美女」へと変身していく様は、まさに「言葉」でなければできない魔術だ。



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ぼくの切抜帖 4 マルセル・プルースト「失われた時を求めて」★朗読

2014-12-05 09:52:17 | ぼくの切抜帖

 母は忠実な読手ではなかったかもしれないが、彼女が真の感情の格調を見出したような作品についていえば、その敬意をこめた、気どらない解釈、その美しい、やさしい声調のために、すばらしい読手であった。実生活で、彼女の情感や感嘆をそのようにそそるものが、人間であって、芸術作品ではない場合でも、彼女がいかにつつましく、その声、その身ぶり、その言葉遣から、たとえばかつて子供を失った母親の胸を痛めるような陽気さとか、老人にその高齢を考えさせるような誕生日や記念日のききかたとか、若い学者に味気なく思わせるような世帯話とかを、遠ざけようとしているかを見ると、胸を打たれるものがあった。

 彼女がジョルジュ・サンドの散文を読むときも同様であって、その散文はつねに善良さ、道徳的卓越をあらわし、そうしたものをママは人生で何よりもすぐれたものと見なすように祖母から教えられていたのであったが──私が母に、書物のなかではそうしたものをおなじように何よりもすぐれたものと見なすわけにはいかないと教えることになったのは、ずいぶんあとになってからでしかなかったが──そうしたジョルジュ・サンドの散文を読むとき、母は、やってくる力強い波を受けいれずにせきとめるようなどんな偏狭さも、どんな気取も、すべて自分の声から除きさるように注意しながら、彼女の声のために書かれたように思われる文章、いわば彼女の感受性の音域に全部はいってしまう文章に、それが要求する自然な愛情のすべて、ゆたかなやさしさのすべてを傾けるのであった。彼女はそうした文章が必要とする調子にうまくその文章を乗せるために、その文章に先だって存在しその文章を作者の内部でととのえたが書かれた語には示されていない作者の心の格調といったものを見つけだすのであった、そうした格調のおかげで、彼女は読んでゆく途中に出てくる動詞の時制のどんな生硬さをもやわらげ、半過去と定過去には、善良さのなかにある甘美さ、愛情のなかにある憂愁をあたえ、おわろうとする文章をはじまろうとする文章のほうにみちびき、さまざまな音節の進度をあるときは早め、あるときはゆるめ、それらの音の長短が異なるにもかかわらず、それらを斉一な律動のなかに入れ、じつにありふれた散文に、感情のこもった、持続的な一種の生命を吹きこむのであった。

★マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第1巻」p70 井上究一郎訳・ちくま文庫


 



 「わたし」が母に本を読んでもらう場面。「読み聞かせ」ということがよく言われるが、ここではそういうレベルを超えている。「朗読」(あるいは「音読」)というものが、ヨーロッパ(あるいはフランス)ではいかに深い伝統に根づいたものなのかが深く納得される。





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ぼくの切抜帖 3 荒川洋治「忘れられる過去」★読書を失わないこと

2014-12-03 17:25:08 | ぼくの切抜帖

 生徒中学や高校の国語の先生だって、(「失われた時を求めて」を)おそらく読み切った人はそんなにいないと思うが、実は、生徒のなかにこれを読み切ってしまう人が学校に一人くらいはいるものである。

 高校のとき、よく図書館でそういう人を見かけた。たいていは女の子で、ともかくたいへんな量を読んでいくのである。「失われた時を求めて」は読むわ「ジャン・クリストフ」は読むわ「魔の山」は読むわ。「夜明け前」は読むわ。そしてけろっとしているのだ。えらい人だと思うけれど、こういう人は学校を出たら突然読書と無縁になり読書そのものから「卒業」してしまうことが多い。むしろ、あれも読まない、これも読まないという人のほうが、そのあとも気になるので「晴れない」気持ちをかかえながら、読書の世界にへばりついていき、おとなになっても書物とつながっていくのだ。そういう例は多い。

 読書は一時のものではない。いつまでもつづくところに、よさがある。「読まない」ことをつづけることにも意味があるのだ。読書を「失わない」ことがたいせつである。

★荒川洋治「忘れられる過去」みすず書房・2003/朝日文庫・2011


 



 ここを読むと、すごく救われる気持ちになる。ぼくも、荒川が本文で書いているとおり、プルーストの「失われた時を求めて」は、何度も通読を志して読んできたのだが、「第一巻の最初の九〇頁あたりまでは何回も行き来するが、そこから先へ行かない。」のだ。言ってみれば「須磨源氏」のようなものなのだろうか。

 何でもかんでも読んでしまって「けろっとしている」人をぼくも知っている。男だけど。小学校の同級生だったが、高校生になって久しぶりに会ったとき、当時中央公論社からでていた「世界の名著」(たぶん80巻ぐらいあったんじゃないかな)を「全部読んだ」と言ったのだ。そして荒川が言うように「けろっとしている」のだった。あれは、ほんとにびっくりした。彼はその後医者になったようだが、それ以来一度も会っていない。彼は今、読書しているだろうか。

 かれのことは、まあ、どうでもよい。ぼくが「晴れない」気持ちを抱えていることは確かで、「読書」を失っていないことも、確かである。

 荒川洋治は、ぼくと同い年の詩人。この人の書くものが、いちばん、ぼくにはぴったりくる。珍しく「朝日文庫」に入ったので、是非ご一読を。



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