うちの近所の公園にも、毎日2時間ぐらい猫にエサをやっているおじさんがいて、絶対にブログなんてやらないようなタイプだから、べつに何も発信してはいないんだけど、でも、公園でネコにエサをやってるんだから、こういう人がいるんだってことは、人に見えている。「無駄」の流れで、その人たちを連想したから、「猫助けは無駄」だってことになっちゃうかもしれないけど、でも、やっぱり無駄って言えば無駄だよね。いまのこの社会の価値観では。「無駄」って言われるのは、この社会ではむしろ誇らしいことだよ。そして、その延長線上に、国境なき医師団とかがある──って言うと、「猫助けは無駄」と思っている人に向かっての説得力はあるかもしれないけど、猫のために時間を使っている人たちはそう言われて嬉しいか、と言うと、ちょっと疑問なんだよなあ……。
ぼくもその片隅に位置する人間なわけだけど、そういう大袈裟な〈正義〉みたいなのと別なことをしたいと思っているんじゃないかと思う。〈正義〉だと、それをしない人に向かって強制力を持つし、もともと関心がない人から賞賛されたりするでしょう?
そういうのは違うんだよなあ。周囲何メートルくらいの狭いところで軽い褒められ方をされて、大きなところでは呆れられる、っていうくらいの方がいい感じがする。
やっぱり、「無駄」って言っちゃうほうが清々しい。
★保坂和志「考える練習」大和書房 2013
久しぶりに保坂和志の本を読んだら、共感するところが多かった。「周囲何メートルくらいの狭いところで軽い褒められ方をされて、大きなところでは呆れられる」っていうのは、最澄の「一隅を照らす」と、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を現代的にミックスした感じかな。いいな、この「この感じ」。
それと、「もともと関心がない人から賞賛されたりする」ってことも、あ、そうかって思った。
「ぼくの切抜帖」というシリーズを始めます。過去には、「言葉の標本箱」というシリーズをやっていたことがあります。これは、その続きといったところ。自分で覚えておきたいため、というのが一番の目的です。