良寛
世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる
半紙
良寛
世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる
半紙
日本近代文学の森へ (97) 徳田秋声『新所帯』 17 水際立つ筆致
2019.3.3
新吉とお作の婚礼と、その後の結婚生活を、ただ淡々と描いてきたこの小説に、初めて事件らしい事件が起きた。
ある朝、小野の女房が新吉を訪ねてきたのである。この下りは、まるで上質な日本映画を見るようで、その筆の冴えにはただただ感嘆するばかりだ。「事件」の概要、小野の生活の内実、そして、お国という女が、実に見事に手際よく描かれる。いろいろな小説を読んできたが、これほど見事な文章はそう滅多にはなかった気がする。
ある朝新吉が、帳場で帳面を調べていると、店先へ淡色(うすいろ)の吾妻コートを着た銀杏返しの女が一人、腕車(くるま)でやって来た。それが小野の内儀さんのお国であった。
お国は下町風の扮装(つくり)をしていた。物のよくないお召の小袖に、桔梗がかった色気の羽織を着て、意気な下駄をはいていた。女は小作りで、清(すず)しいながら目容(めつき)は少し変だが、色の白い、ふッくらとした愛嬌のある顔である。
「御免下さい。」と蓮葉(はすは)のような、無邪気なような声で言って、スッと入って来た。そこに腰かけて、得意先の帳面を繰っていた小僧は、周章(あわ)てて片隅へ避(よ)けた。新吉は筆を耳に挟んだまま、軽く挨拶した。
「新さん、マア大変なことが出来ちゃったんです。」女は菓子折の包みをそこに置くと、ショールを脱(と)って、コートの前を外した。頬が寒い風に逢って来たので紅味(あかみ)を差して、湿(うる)みを持った目が美しく輝いた。が、どことなく恐怖を帯びている。唇の色も淡(うす)く、紊(ほつ)れ毛もそそけていた。
「どうしたんです。」新吉は不安らしくその顔を瞶(みつ)めたが、じきに視線を外(そら)して、「マアお上んなさい。こんな汚いところで、坐るところもありゃしません。それに嚊(かか)はいませんし、ずっと、男世帯で、気味が悪いですけれど、マア奥へお通んなさい。」
「いいえ、どう致しまして……。」女はにっこり笑って、そっちこっち店を見廻した。
「真実(ほんとう)に景気のよさそうな店ですこと。心持のいいほど品物が入っているわ。」
「いいえ、場所が場所だから、てんでお話になりゃしません。」
新吉は奥へ行って、蒲団を長火鉢の前へ敷きなどして、「サアどうぞ……。」と声かけた。
「お忙(せわ)しいところ、どうも済みませんね。」とお国はコートを脱いで、奥へ通ると、「どうもしばらく……。」と更(あらた)まって、お辞儀をして、ジロジロ四下(あたり)を見廻した。
「随分きちんとしていますわね。それに何から何まで揃って、小野なんざとても敵(かな)やしません。」と包みの中から菓子を出して、片隅へ推しやると、低声(こごえ)で何やら言っていた。
新吉は困ったような顔をして、「そうですかい。」と頭を掻きながら、お辞儀をした。
「商人も店の一つも持つようでなくちゃ駄目ね。堅い商売してるほど確かなことはありゃしないんですからね。」
新吉は微温(ぬる)い茶を汲んで出しながら、「私(あたし)なんざ駄目です。小野君のように、体に楽をしていて金を儲(も)ける伎倆(はたらき)はねえんだから。」
「でもメキメキ仕揚げるじゃありませんか。前に伺った時と店の様子がすっかり変ったわ。小野なんざアヤフヤで駄目です。」と言って、女は落胆(がっかり)したように口を噤(つぐ)んだ。顔の紅味がいつか褪(ひ)いて蒼くなっていた。
お国はしばらくすると、きまり悪そうに、昨日の朝、小野が拘引されたという、不意の出来事を話し出した。その前の晩に、夫婦で不動の縁日に行って、あちこち歩いて、買物をしたり、蕎麦を食べたりして、疲れて遅く帰って来たことから、翌日(あした)朝夙(はや)く、寝込みに踏み込まれて、ろくろく顔を洗う間もなく引っ張られて行った始末を詳しく話した。小野はむっくり起き上ると、「拘引されるような覚えはない。行けば解るだろう。」と着物を着替えて、紙入れや時計など持って、刑事に従(つ)いて出た。
「なあに何かの間違いだろう。すぐ帰って来るから心配するなよ。」とオロオロするお国をたしなめるように言ったが、出る時は何だか厭な顔色をしていた。それきり何の音沙汰(おとさた)もない。昨夜(ゆうべ)は一ト晩中寝ないで待ったが、今朝になっても帰されて来ぬところを見ると、今日もどうやら異(あや)しい。何か悪いことでもして未決へでも投(ぶ)ち込まれているのではなかろうか。刑事の口吻(くちぶり)では、オイそれと言って出て来られそうな様子も見えなかったが……。
「一体どうしたんでしょう。」とお国は、新吉の顔に不安らしい目を据えた。
「サア……。」と言って新吉は口も利かず考え込んだ。
お国の目は一層深い不安の色を帯びて来た。「小野という男は、どういう人間なんでしょうか。」
「どんなって、つまりあれッきりの人間だがね……。」とまた考え込む。
「すると何かの間違いでしょうか。間違いなら嫌疑とか何とかそう言って連れて行きそうなもんじゃありませんかね。」とお国は馴れ馴れしげに火鉢に頬杖をついた。
「解んねえな。」と新吉も溜息を吐(つ)いた。「だが、今日は帰って来ますよ。心配することはねえ。」
「でも、あの人の田舎の裁判所から、こっちへ言って来たんだそうですよ。刑事がそう言っていましたもの。」とお国は一層深く傷口に触るような調子で、附け加えた。
「だから、私何だか変だと思うの。田舎で何か悪いことをしてるんじゃないかと思って。」と猜疑深(うたぐりぶか)い目を見据えた。
「田舎のことア私(あっし)にゃ解んねえが、マアどっちにしても、今日は何とか様子が解るだろう。」
新吉の頭脳(あたま)には、小野がこのごろの生活(くらし)の贅沢なことがじきに浮んで来た。きっと危いことをしていたに違いないということも頷かれた。「だから言わねえこッちゃない。」と独りでそう思った。
お国は十二時ごろまで話し込んでいた。話のうちに新吉は二度も三度も店へ起(た)った。お国は新吉の知らない、小野の生活向(くらしむ)きのコマコマした秘密話などして、しきりに小野の挙動や、金儲けの手段が疑わしいというような口吻(こうふん)を洩らしていた。
この出だしからしてすごい。
ある朝新吉が、帳場で帳面を調べていると、店先へ淡色(うすいろ)の吾妻コートを着た銀杏返しの女が一人、腕車(くるま)でやって来た。それが小野の内儀さんのお国であった。
これで全部はっきりと分かる。一言も無駄な言葉がない。「ある朝」という時間設定。「帳場」という場所の設定。「帳面を調べている」という新吉の行動の説明。「店先へ」という場所の移動。「淡色(うすいろ)の吾妻コートを着た銀杏返しの女」という女の描写。これで「お国」の「人となり」まで分かってしまう。
「銀杏返し」という髪型は、「江戸末期から明治・大正時代にかけて、女性の間で流行した日本髪の一種。最初は銀杏髷(まげ)から変化した髪形で、これを結った年齢はだいたい元服(16歳)から20代までであった。まず前髪、鬢(びん)、髱(たぼ)をとったあとの毛を集めて根とし、これを二分して左右に低い髷をつくってから元結で締めたものである。島田髷よりも大げさでないのが喜ばれて、町娘や内儀の間に用いられた。明治20年代に西洋式の束髪がはやるようになると、下町の水商売の女性などの間に人気をよんで大正まで流行した。」(日本大百科全書)とあるように、どこかお水っぽい髪型。「吾妻コート」というのは当時流行のコートだ。そのお国が、「腕車=人力車」で店先に乗り付けたのである。「それが小野の内儀さんのお国であった。」とビシッと決める。このまま映画のワンカットだ。
次に、お国の描写。水彩画でさっと描いたようにキレのいい表現で、お国の魅力を生き生きと伝える。
お国は下町風の扮装(つくり)をしていた。物のよくないお召の小袖に、桔梗がかった色気の羽織を着て、意気な下駄をはいていた。女は小作りで、清(すず)しいながら目容(めつき)は少し変だが、色の白い、ふッくらとした愛嬌のある顔である。
「下町風の扮装」で、決して金持ちの奥方ではない。「お召しの小袖」も、ものはよくない。羽織も上物じゃないのだろう。けれど、下駄は「意気」だ。「小作り」な体。顔は、ちょっと目つきが変だが「清しい」し、「色白」で「ふっくらした」「愛敬のある」顔。
この女が、ちょっと「蓮葉のような、無邪気なような声」で、「御免下さい。」という。「蓮葉」とは「女性の態度・動作が下品で軽はずみなこと。」の意だが、いわゆる「はすっぱ」っていうヤツで、それでいて「無邪気なよう」というのだから、とても「素人」とは思えない。
「スッと入って来た。」もいい。この身軽さは、お作の鈍重さと対照的だ。
前回の引用部で、新吉は「どうせ素人じゃあるめえ。莫迦(ばか)に意気な風だぜ、と言って、芸者にしちゃどこか渋皮の剥けねえところもあるし……。」と評していたが、まさにそのとおりのお国だ。新吉もちゃんと見ているわけだね。
更に、お国の描写は続く。
「新さん、マア大変なことが出来ちゃったんです。」女は菓子折の包みをそこに置くと、ショールを脱(と)って、コートの前を外した。頬が寒い風に逢って来たので紅味(あかみ)を差して、湿(うる)みを持った目が美しく輝いた。が、どことなく恐怖を帯びている。唇の色も淡(うす)く、紊(ほつ)れ毛もそそけていた。
うっとりするなあ。「菓子折の包みを置く」「ショールを脱ぐ」「コートの前を外す」と動作によどみない。そこにお国の普段の生活のさまがみてとれる。なんてことない普段の所作に、人柄とか生活が滲み出るわけだ。「頬が寒い風に逢って来たので紅味(あかみ)を差して、湿(うる)みを持った目が美しく輝いた。」など、水際だった筆致。漱石なんかは、こういう描写ができたのだろうか。確かめてみたいものだ。
新吉は小野を羨ましがっていたが、お国からみると、新吉のほうがちゃんとした商売をしているように見える。新吉は小さいながら店を構えているが、どうやら小野は口先ひとつの商売らしい。どうも、そんな危ない商売の中で、警察に目を付けられたといったところだろう。
これまで、小野がどんな商売をしていたのかさっぱり分からなかったのだが、ここで、お国の言葉を通してその大体の有様が分かる。こうした書き方も達者なものだ。
さて、この後、どのような展開が待っているのか。ちょっとワクワクするよね。