木洩れ日抄 54 「夢よりもはかなき世のなか」の思いがけない講演会
柏木由夫退職記念講演@大妻女子大学 2019.3.9
2019.3.12
思いがけないことというものはあるものである。
去年の暮れのことだったか、正確なことは覚えていないのだが、大学時代の畏友柏木由夫が、ぼくもこんど最終講義みたいなのをすることにしたんだけど、出席してもらえるだろうかと言ってきた。
「ぼくも」と彼が言った背景には、今から4年前に、同じく大学時代の畏友嶋中道則が、東京学芸大で最終講義を行い、その際に、ぼくと柏木が招かれて出席したということがある。
その時、ぼくはそもそも大学教授の「最終講義」というものがいかなるものであるかを全く知らず、嶋中が、ぼくみたいな大学とはとっくに縁が切れている人間にまで声をかけてくるということは、よっぽど人が集まらないに違いない。「最終講義」なんて言っても、集まったのが10人ぐらいじゃ洒落にならないもんなあ。それじゃかわいそうだから、オレみたいな者でも、「枯れ木も山もにぎわい」ということで声をかけてきたのだろうから出席せねばなるまい、なんて思っていたら、そのころまだ現役の大学教授だった柏木も、あんまり「最終講義」というものに関心がなかったようで、心境はぼくとあまり違わなかったらしく、学芸大に二人で向かう途中でも、いったい何人ぐらい集まるのかあと心配しながらバスに揺られていたのだった。
ところが、着いてみると、会場にはぼくらの予想を遙かに超える人たちがぞくぞくと詰めかけており、これじゃあ「枯れ木」の出番なんかなかったなあと安心もし、またびっくりもしたのだった。
嶋中の最終講義も無事終わり、その感想みたいなエッセイを書いてブログにアップしたのだったが、その中に、柏木がどうして最終講義にあまり関心がなかったかというと、彼の勤めている大妻女子大学の日本文学科では、最終講義をしない、という伝統のようなものがあったからだったということを書いた。
大妻女子大学の定年は70歳ということで、柏木はぼくと嶋中より1つ年上だから、この3月で定年退職となるということは聞いていた。しかしその柏木が、最終講義を行う伝統がない(あるいは、最終講義なんてするもんじゃないという伝統がある)大妻女子大学の日本文学科で、こともあろうに最終講義をやるというのだ。だから、思いがけなかった。
いったいどうしたの? やらないんじゃないの? って聞いたところ、どうやら事の発端は、ぼくのブログのエッセイらしいというのだ。これがまた思いがけなかった。
なんでも、彼の教え子の女性(まあ、女子大なので女性しかいないわけだが)が、何かの折に(詳しく聞いたのに忘れてしまいました)、柏木の経歴とかその他の情報を得ようとして「柏木由夫」で検索したのだそうだ。そうしたら、なんと、ぼくのブログの中のエッセイ『仰げば尊し』(関連エッセイ「『源氏物語読書会』のことなど」もどうぞ。)がヒットしたというのだ。そこに書いてあった、
柏木は、大学教授なのだから、いくら学芸大とは無縁だからといって、ぼくと同じレベルで驚くのはオカシイと思うのだが、大妻の日本文学科では、そもそも「最終講義」という習慣がないのだそうだ。彼が言うには、たとえやったとしても、人なんか集まらないよ。学芸大の卒業生や教員も多いだろうから、卒業生とのつながりも強いんだね、大妻の場合は、卒業したらそれっきりが多いからねえ、とのことだった。
という記述に、教え子の女性たちは、それじゃ私たちがやりましょう! ってことになったというのが発端だというのだ。これはまたなんという思いがけないことであろうか。いやはや大変な時代になったものである。
で、昨日その柏木教授の「最終講義」があった。前もって立派な案内状が送られてきて、そのあまりの立派さに驚いた嶋中とぼくは、ビビりながら大妻女子大学へと向かったのだが、事前の柏木の言葉からは想像もできない華やかな会場で、集まった卒業生の数も遙かにぼくらの予想を超えていた。最初彼から聞いた、「7、8人ぐらいで図書室の片隅でやるぐらいだ」というのから、「いやどうも30人ぐらいは来るかもしれない」を経て、実際には80人を越える人たちで「図書室の片隅」(最初は狭い部屋を予定していたらしが、人数が増えていったので、広い部屋に変更されたらしい)は埋め尽くされた。
日本文学科の「伝統」に配慮してか、「最終講義」とは銘打たずに、「退職記念講演」として、「王朝の恋歌 『和泉式部日記』の和歌 再考」という演題だった。
『和泉式部日記』かあ、と感慨深いものがあった。柏木も講演の冒頭にしゃべっていたとおり、ぼくらが大学1年のとき、担任だったのが、中古文学の碩学鈴木一雄先生だったのだが、その鈴木先生の授業がこの『和泉式部日記』だったのだ。ところがそのほんの最初の部分を読んだだけで、あっという間に大学は未曾有の「大学紛争」時代に突入し、鈴木先生の授業も2、3回受けただけで頓挫してしまったのだった。
けれども、その『和泉式部日記』の冒頭部、「夢よりもはかなき世のなかを嘆きわびつつ明かし暮らすほどに、四月十余日にもなりぬれば、木のした暗がりもてゆく。」という部分のプリントを目にし、読んだとき、不覚にも涙ぐみそうになった。
あの鈴木先生の授業のあと、この『和泉式部日記』の冒頭部は、数回読んだだけで、その後はまったく読んでいない。それにもかかわらず、ぼくにはこの言葉が限りない懐かしさを伴って心の中に響いているのを感じたのだ。あの時のあの時間が、活き活きと蘇ってきたような気分だった。
せっかく大学に入ったのに、入学して2ヶ月もしないうちに「ロックアウト」という事態となり、それから先のまったく見えない状況であがいてきたぼくらには、それぞれが言うに言えない苦労をしてきた。ぼくはさっさと大学を後にして、高校の現場でそれなりの修羅場をくぐったが、それでも結構気楽な人生を送ってきた。しかし、嶋中にしろ、柏木にしろ、初志貫徹して学問の道を最後まで捨てずに生きてきた。それがどれほどの忍耐と努力を要したかぼくには想像できない。そしてその忍耐と努力が、こうした形できちんと豊かな実を結んでいるのだ。そのことが、あの暗い絶望的な時代と幾重にも重なって脳裏をよぎる。
思えば「夢よりもはかなき人生」としかいいようがないほど、ぼくらはあっという間に年をとってしまったけれど、この古典の言葉は、あの頃と同じ響きで、そしてまた一層味わいを深めた響きでぼくらに迫ってくる。それほど、古典というものは、言葉というものは力を持っている。そのことを、柏木の「最終講義」は教えてくれたように思う。嶋中がそうであったように、柏木もまたぼくにとっては大切な師だったのだ。
講義の後の懇親会では、柏木の教え子たちが、次々と心のこもった挨拶をしたが、そのどれもが彼の誠実な教師生活を証するものだった。ぼくは頼まれた写真を懸命に撮りながら、彼の心底嬉しそうな顔をしみじみとした思いで眺めていた。
懇親会の後、市ヶ谷の居酒屋で、遅くまで3人そろって至福の時間を過ごしたことはいうまでもない。こんなに思いがけない嬉しい会を企画してくださった柏木の教え子の皆さんには、心からの感謝を伝えたい。
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源氏物語読書会。山本の自宅にて。1969年。三脚使って撮影。
源氏物語読書会。山本の自宅にて。1969年。
嶋中道則君20歳の誕生祝い。1969年。やはり山本の自宅にて。