日本近代文学の森へ (106) 徳田秋声『新所帯』 26 映画みたいだね
2019.5.4
お作が快癒して、家に帰ってくることが、何だかいやな気のする新吉だったが、お作は十日後に家に帰ってきた。
新吉と別れてから、十日目にお作は嫂に連れられて、表町へ帰って来た。ちょうどそれが朝の十時ごろで、三月と言っても、まだ余寒のきびしい、七、八日ごろのことであった。腕車(くるま)が町の入口へ入って来ると、お作は何とはなし気が詰るような思いであった。町の様子は出て行った時そのままで、寂れた床屋の前を通る時には、そこの肥った禿頭の親方が、細い目を瞠(みは)って、自分の姿を物珍らしそうに眺めた。蕎麦屋も荒物屋も、向うの塩煎餅屋の店頭(みせさき)に孫を膝に載せて坐っている耳の遠い爺さんの姿も、何となくなつかしかった。
腕車を降りると、お作はちょいと嫂を振り顧って躊躇した。
「姉さん……。」と顔を赧(あか)らめて、嫂から先へ入らせた。
日付けは必ずしも必要ないのに、きちんと記されている。「別れてから十日目」「朝の十時ごろ」「三月」「七、八日ごろ」と数字が列挙されている。「朝の十時ごろ」と正確に特定しないのはいいとして、「七、八日ごろ」とあいまいにするのはなぜだろう。ここでちょっとピントをずらすことで、これがドキュメンタリーではなくて小説だという感じがよく出ているような気もするが。
人力車が町の入口から入ったあたりから、視点がお作に移る。つまりカメラがお作の目になるわけで、「床屋のハゲた親父」「蕎麦屋」「荒物屋」「煎餅屋の耳の遠い爺さん」などが、画面をゆっくり流れる。実に映画的だ。
人力車をお作が降りる場面では、カメラは普通の位置(客観的視点)に戻り、「ちょいと嫂を振り顧って躊躇した。」と書く。顔を赤くして自分は兄嫁の後から入るお作の描写が、彼女の気持ちを痛いほど伝える。
店には増蔵が一人いるきりで、新吉の姿が見えなかった。奥へ通ると、水口の方で、蓮葉(はすは)なような口を利いている女の声がする。相手は魚屋の若い衆らしい。干物のおいしいのを持って来て欲しいとか、この間の鮭(しゃけ)は不味(まず)かったとか、そういうようなことを言っている。お前さんとこの親方は威勢がいいばかりで、肴は一向新しくないとか、刺身の作り方が拙(まず)くてしようがないとかいう小言もあった。
お作は嫂と一緒に、お客にでも来たように、火鉢を一尺も離れて、キチンと坐って聞いていた。
「それじゃね、晩にお刺身を一人前……いいかえ。」と言って、お国は台所の棚へ何やら収(しま)い込んでから、茶の室(ま)へ入って来た。軟かものの羽織を引っ被(か)けて、丸髷に桃色の手絡(てがら)をかけていた。生え際がクッキリしていて、お作も美しい女だと思った。
お作が奥へ入ると、こんどは、お作の「耳」が聞いた音(声)の描写になる。音だから、カメラとは言えないし、「視点」というのも変だから「聴点」とでもいうしかないが、実に見事なテクニックである。
しかも、話しているのはお国に決まっているのに、「蓮葉なような口を利いている女の声がする」と、あえてぼかす。それがリアルだ。魚屋の若い衆を相手に、ポンポンと歯切れのいい言葉を発するお国は魅力的で、お作の心はひるむばかりだ。
まるでお客のようにかしこまって座っているところへ、魚屋に指図をして、何かをしまう音がして、茶の間に入ってくるお国。小津映画をみるおもいがする。
そのお国が美しい。その「美しさ」をお作の目から描く。
お国は、キチンと手を膝に突いている二人の姿を見ると、
「オヤ。」とびっくりしたような風をして、
「何てえんでしょう、私ちっとも知りませんでしたよ。それでも、もうそんなに快(よ)くおなんなすって。汽車に乗ってもいいんですか。」と火鉢の前に座を占めて、鉄瓶を持ちあげて、火を直した。
「え、もう……。」とお作は淋しい笑顔を挙げて、「まだ十分というわけには行きませんけれど……。」と嫂の方を向いて、「姉さん、この方が小野さんのお内儀(かみ)さん……。」
「さようでございますか。」と姉が挨拶しようとすると、お国はジロジロその様子を眺めて、少し横の方へ出て、洒々(しゃあしゃあ)した風で挨拶した。そうして菓子を出したり、茶をいれたりした。
「あなたも流産なすったんですってね。私一度お見舞いに上ろうと思いながら……何(なん)しろ手が足りないんでしょう。」
お作は嫂と顔を見合わしてうつむいた。
「暮だって、お正月だって、私一人きりですもの。それに新さんと来たら、なかなかむずかしいんですからね……。マアこれでやっと安心です。人様の家を預かる気苦労というものはなかなか大抵じゃありませんね。」
「真実(ほんとう)にね。」とお作は赤い顔をして、気の毒そうに言った。「どうも永々済みませんでした。」
お作はしばらくすると、着物を着替えて、それから台所へ出た。お国は、取っておいた鯵(あじ)に、塩を少しばかり撒(ふ)って、鉄灸(てっきゅう)で焼いてくれとか、漬物は下の方から出してくれとか、火鉢の側から指図がましく声かけた。お作は勝手なれぬ、人の家にいるような心持で、ドギマギしながら、昼飯(ひる)の支度にかかった。
お作と兄嫁に対するお国。そのやりとりは、精密な銅版画のように、くっきりと描かれる。このままシナリオとして映画が撮れそうだ。
「火鉢の前に座を占めて、鉄瓶を持ちあげて、火を直」すお国。こういう役、誰がやったらいいかなあ。昔なら、淡島千景かなあ、今なら誰だろう、いないなあ、なんて想像するのも楽しい。
姉の挨拶もまたずに、「さようでございますか」とシャアシャアとした挨拶をするお国。「ジロジロ眺める」その目つきが、またリアル。やっぱり淡島千景で見たい。
そうなるとお作は誰がいい? ってことになるけど、美人じゃないとなるとなかなか難しい。昔の女優はみんな美人だからなあ。美人女優にやらせて、それが美人じゃないように見えたら、スゴイことだけど。
まあ、それはさておき、せっかく自分の家に帰ってきたというのに、まるで女中のようにお国にこき使われるお作の哀れさというものが身にしみる。
「鉄灸」というのは、「火の上にかけ渡して魚などをあぶるのに用いる、細い鉄の棒。また、細い鉄線を格子状に編んだもの。」(デジタル大辞泉)今で言う「焼き網」のこと。