日本近代文学の森へ (108) 徳田秋声『新所帯』 28 「その晩」のこと
2019.5.14
いやはや小説の読解というのはむずかしい。センター試験なんかでも、小説の問題というのは、どれが正解かよく分からないものが多くて苦労する。
この秋声の小説も、これだけゆっくりじっくり読んできたのに、実はちっとも読み取れていないことが分かった。
先日、このシリーズを熱心に読んでくれている古い友人から、「わざとちょっとだけ間をおいて、ばらばらに家に入っていく、って夜の場面」だけど、家に入ったあとの夜、新吉とお国は肉体関係をもったんじゃないの? そこをきちんと書くべきじゃないの? というようなメールをもらった。
あ、あそこかあ、と、とっさに思って、確かに、あそこは気になったけど、触れずにすっとばしたなあと思って、あわててその箇所を読み直してみた。ここである。
「それならせめて初七日にでもいらして下されば……。」とお作は目に涙を一杯溜めて怨んだ。「それにあなたは、お国さんのことと言うと、家のことはうっちゃっても……。」と口の中でブツブツ言った。
これが新吉の耳には際立って鋭く響く。むろんお国は今でも宅へ入り浸っている。一度二度喧嘩して逐(お)い出したこともあるが、初めの時はこっちが宥(なだ)めて連れて帰り、二度目の時は、女の方から黙って帰って来た。連れて来たその晩には、京橋で一緒に天麩羅屋へ入って、飯を食って、電車で帰った。表町の角まで来ると、自分は一町ほど先へ歩いて、明るい自分の店へ別々に入った。何の意味もなかったが、ただそうしなければ気が済まぬように思った。それからのお国は、以前よりは素直であった。自分も初めて女というものの、暖かいある物につつまれているように感じた。
新吉が、初めてお作を見舞いに訪れた場面で、お作がお国に焼き餅をやくところだ。お作に痛いところを突かれて、新吉はお国とのこれまでを回想するわけだが、友人が「わざとちょっとだけ間をおいて、ばらばらに家に入っていく」というのは、「表町の角まで来ると、自分は一町ほど先へ歩いて、明るい自分の店へ別々に入った。」というところだ。
このあたりは、秋声にしては珍しく分かりにくい叙述で、「初めの時」は、新吉が宥めて「連れ帰った」。「二度目の時」は、「女の方から黙って帰って来た。」──となると、天麩羅屋で飯を食って、電車で帰ってきた晩というのは「連れて来たその晩」つまりは「初めの時」ということになる。ややこしい。
で、喧嘩して追い出した「初めの時」には、新吉が連れ戻しに行き、天麩羅屋で飯を食い、電車で帰り、家に近くまでくるとわざと時間をずらして店に入ったというわけである。その時の新吉の気持ちは「何の意味もなかったが、ただそうしなければ気が済まぬように思った。」とある。「そうしなければ気がすまない」のは、一緒に店に入ったのでは、まるで夫婦きどりじゃないかと番頭などに思われると気遣ったというよりは、なんとなく女房のお作に申し訳ないような気がしたということだろう。つまりは、ここですでに、「後ろめたい」ということになる。
まあ、女房のいない家、しかもその女房が流産して里で苦しんでいるのに、お国がべったり家にいることを容認していること自体「後ろめたい」ことのはずだが、それにもまして、喧嘩して追い出したお国を、自分からわざわざ迎えにいって、その上、天麩羅まで一緒に食って、家に連れて帰ってきたというのは、それはいったい何のため? って考えれば、もう答は一つしかないわけだ。
だから、小説の読み巧者なら、いちもにもなく、ああ、ここは、そういうことなのね、って気づくはずだ。でも、ぼくみたいな人生についても小説についてもウブなヤツは、気づかないで素通りしちゃう。
余談になるが、かつて現場にいたころ、センター試験の小説が全問不正解となった理系の天才児がいた。あまりのことに、どうして? って聞いたら、登場人物の男女が恋愛関係にあることに気づかなかったというのだ。なんでだよ、恋人同士にきまってるじゃん、って言ったら、だって、年が20も離れてるんですよ! 親子かと思いました、って言うので、お前、愛があれば年の差なんて、って言葉知らないのか! って叱るように言ったけど、今さらながら、そんなふうに言えた義理じゃなかったわけで、猛省している。
さて、そういう状況から、ふたりがその晩「できた」ことは間違いなさそうだが、それではその後の描写はどうなっているか。「ただそうしなければ気が済まぬように思った。」の直後は、なんの描写もなく、いきなり「それからのお国は、以前よりは素直であった。」とある。『源氏物語』以来の「大省略」の伝統である。
「それからのお国」という言い方は、「肉体関係を持ってからのお国」と言い換えれば分かりやすい。そう言い換えずに、そのままにしておくと、なにがなんだかぜんぜんつながらない。別々に家に入らなければ気が済まないような気がして家に入ったその晩、はじめてお国と肉体関係を持って以来、お国は素直になった。ということならスッキリと理解できるわけである。
ただ、通常は、わざわざ言い換えなくても、そんなことは先刻承知ということで、読み進めることになるわけで、それができることが、小説の読み巧者たる資格なのだ。
お国が「素直になった」と同時に、新吉も「自分も初めて女というものの、暖かいある物につつまれているように感じた。」というのだが、このなんかもってまわった言い方も、肉体交渉を持った女性との温かい関係性のことを言っているとしか考えられないわけである。この晩、新吉とお国は肉体関係を持った。そのことへの「後ろめたさ」があればこそ、引用冒頭近くの部分の、「これが新吉の耳には際立って鋭く響く。」が生きてくるのだ。
しかし、先日ここを読んだときに、「うん?」って思って、何だろうねえこれ? って思ったまま、深く考えずに終わってしまった。そこを、友人に指摘されたわけで、あらためて、小説読解の難しさを痛感した次第である。