如蓮華在水
水の面(おも)にいづる蓮(はちす)の色はみなこの世のほかのものとこそみれ
半紙
【題出典】『法華経』
【題意】 如蓮華在水
(菩薩が世間の俗事に染まらないことは)蓮華が泥水の上に咲いているようなものだ。
【歌の通釈】
濁った水面に咲く花の色(地から湧き出る菩薩)はみな、この世の他のものと見えるよ。
【考】
煩悩に染まらない地湧の菩薩の出現を、泥水の上に咲く崇高な「蓮」の開花によって詠んだ。「蓮葉の濁りにしまぬ心もて何かは露を玉とあざむく」(古今集・夏・一六五・遍昭)は、この法華経題の箇所をふまえて詠んだもの。
(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)
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泥水の上に咲く信じられないほど清楚な蓮の花を一度でも見た者は、やはり驚きを禁じ得ないでしょう。ここに、「蓮」と「泥・水」との対比が生まれ、さまざまな比喩を生み出すわけです。
「地湧の菩薩」というのは、上掲書によれば、「『法華経』湧出品で、娑婆世界の下の虚空から出現した無数の菩薩のこと。」という。ここで「虚空」というのは、おそらく「虚空無為のこと。三無為または六無為の一つ。無為とは因縁によって造られたものでない、生滅変化とかかわらない常住絶対なものであるから、さまざまな障碍しょうげを離れた、この障碍のないところにあらわれた真如(永遠普遍の真実)を虚空無為という。」(仏教語大辞典)を指すのでしょう。難しいですが、少なくとも猥雑な「この世」とは隔絶した純粋な世界とでもいうべきものでしょう。そこから湧き出た「菩薩」とは「もと釈尊の前生における呼称。大乗仏教が興って以後、修行の末、未来に仏になるときまった者の意に用いるようになったもの。」(仏教語大辞典)ということになりますが、ここに出て来る「地湧の菩薩」というのは、昔からの釈迦の弟子のようです。
どこまでいっても、分からないことだらけなのは、「法華経」をちゃんとぼくが読んでいないからで、まあ、ここでは、泥水の上に咲く蓮の花は、この世のものじゃない、という意味だけをとっておきます。
キリスト教の方でも、特にカトリックでは「聖母の無原罪」という教義があります。聖母マリアは、常人とはちがって、原罪がないという考え方で、これもある意味、「地湧の菩薩」に似ているところがあります。
神聖極まるものは、この世の汚れから自由であり、隔絶している、という考え方は、この世の汚れがそれほどまでに深刻なものだという認識を背景にしているのではないでしょうか。汚れないのない存在に対したときの、己の絶望。その絶望ゆえにこそ、「あこがれ」は生まれ、「信仰」も生ずる。
泥水の中からスッと空中に直立して、大きな清楚な花を咲かせる蓮の花のイメージは、しかし、「汚れ」と「崇高」の隔絶よりも、もっと神秘的な「融合」を示唆しているともいえるのではないでしょうか。
人間ならぬ神そのものである「イエス」は、「子」として、「人間」から生まれたのでした。とすれば、聖母マリアは、「人間」でも、「神」でもない、独特な存在であり、この蓮の花のイメージでいえば、「泥水」ならぬ「水」ということになるのかもしれません。そんな勝手な想像を逞しくしていると、また不思議な気分になってきます。