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一日一書 1585 寂然法門百首 15

2020-02-12 20:53:25 | 一日一書

栴檀香風

 

吹く風に花橘や匂ふらん昔おぼゆるけふの風かな
 

半紙

 

【題出典】『法華経』

【題意】 栴檀香風 (栴檀の香風)

栴檀の香ばしい風。

 

【歌の通釈】

吹く風に橘の花(栴檀)が香っているのだろうか。昔(日月灯明仏が法華経を説いた昔)が思い出される今日の庭(霊鷲山)だよ。

【考】

『法華経』序品において、文殊は日月灯明仏の瑞相を思い出す。これを橘の香りにより昔の人を思い出すといった『古今集』の一首の心と重ねて詠んだもの。実際に文殊は、直接に栴檀の香りによって思い出した訳ではないが、そこにも古今集と同様の心があったのだろうと思いやった。経典の場面を古歌の心によりとらえようとする意図が見られる。

 

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)


「日月灯明仏」=「仏語。過去世にあって、釈迦以前に法華経を説いた仏の名。法華経によると、同名の仏二万が相継いでこの経を説いたという。」(日本国語大辞典)

「古今集」の歌とは、いうまでもなく、「五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」のこと。橘の花の香りをかぐと、昔なじんだ恋人が袖に焚きしめていたお香の香りを思い出すよ、という意味の歌。

「瑞相」とは、「吉兆」「めでたい兆し」のこと。栴檀の香りはその「瑞相」です。その香りの中でありがたい法華経が説かれるからです。
古今集の歌は、橘の花の香りを嗅いで、昔の恋人を思い出すという恋の歌ですが、この寂然の歌では、恋の歌から信仰の歌へと深まっています。人生とはどういうものか、どう生きればいいのかという教えは、人間にとって、恋以上に心躍らせるものでしょう。
ぼくも、中学生のころの、聖書との出会いを思い出します。


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日本近代文学の森へ (144) 志賀直哉『暗夜行路』 31 「答える事のいやな問い」 「前篇第一  七」 その5

2020-02-11 10:22:58 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (144) 志賀直哉『暗夜行路』 31 「答える事のいやな問い」 「前篇第一  七」 その5

2020.2.11


 

 「老妓」と緒方の会話が続く。


 緒方は話の運びからは全然、突然に、
 「今、蕗子(ふきこ)、いるかい?」といった。
 老妓はふッといいつまった。ちょっと表情が変った。緒方の方も何気なく見せているが一種緊張した顔つきをしていた。謙作はこの間話に出た芸者の事だろうと思った。
 「旅行してます」老妓は漸く答えた。その調子は傍で聞いても如何にも嘘らしかった。
 それでも緒方は、
 「何処へ?」と訊いた。
 女はまた答えにつまった。
 「塩原じゃあないかと思うの」そして老妓は不自然に話を外らし、塩原や日光辺の紅葉がまだ早いとか晩いとかいう事に持って行った。緒方はそれきり、忘れたように蕗子という女の事はいわなかったが、謙作はその老妓が一卜かどの苦労人らしい高慢な顔をしながら、緒方の軽く訊く言葉に一々ドギマギした様子を何となく滑稽に感じた。


 ここで出て来る蕗子という芸者は、緒方のお気に入りだが、別の金持ちの男とも昵懇になっている。その蕗子のことを持ち出されて、「一卜かどの苦労人」らしい老妓が、うまく応対できなくてドギマギする様子を、少ない言葉で実に見事に描きだしている。

 「老妓はふッといいつまった。」と、まず老妓の「沈黙」のさまを描く。書かれてはいないが、当然、その老妓の口元が目に浮かぶ。次に「ちょっと表情が変った。」とその表情をさっと描き出す。どう変わったのかは具体的には書かない。その短い文が二つ続いて後に、「緒方の方も何気なく見せているが一種緊張した顔つきをしていた。」と、今度は緒方の表情を描くことで、二人の間の緊張関係を際立たせる。そして、最後に謙作の推測を書き込むことで、緊張したシーンがカチッと「ズームアウト」する。見事なものだ。

 「一卜かどの苦労人」らしい老妓なら、こんな場面には何度も遭遇しているだろうに、それでもドギマギしてしまう。その滑稽さは、人間そのものの滑稽さでもある。

 そうこうしているうちに、「千代子」という芸者がきた。


 食事の済む頃に漸く千代子という芸者が来た。前からいる老妓とは反対に大きな立派な女だった。ちょっと小稲の型で総てがずっと豊かで美しかった。そして何よりもその眼ざしに人の心を不思議に静かにさす美しさと力がこもっていた。謙作は特にその眼に惹きつけられた。

 


 この頃の謙作は、とにかく目の前に現れる女に次から次へと惹きつけられる。手当たり次第といったところだ。そういう自分への反省がこう語られる。


 暫くして二人はその家を出た。品川の東海寺へ行く緒方とは彼は赤坂見附の下で別れた。それから彼は見附を上って、的(あて)もなく日比谷の方ヘ一人歩いて行ったが、その時、彼の胸を往来するものは、今見た美しい千代子の事ではなくて、かえって今までそれほど思わなかった清賓亭のお加代の事が切(しき)りに想われた。「ちょっとでもいいから君を呼んでくれというので」といった緒方の言葉を彼は幾度となく心に繰返した。
 登喜子といい、電車で見た若い細君といい、今日の千代子といい、彼は近頃ほとんど会う女ごとに惹きつけられている。そして今は中でも、そんな事をいったというお加代に惹きつけられている。
 「全体、自分は何を要求しているのだろう?」
 こう思わず思って、彼ははっとした。これは自分でも答える事のいやな、しかし答える事の出来る問いだったからである。

 


「答える事のいやな、しかし答える事の出来る問い」なんてずいぶんと回りくどい言い方だけど、まあ、とにかく女性との肉体関係を「要求」しているわけだ。しかしその本能的な「要求」を、謙作は、どうしても認めたくないのだ。

 ところで、ここに出て来る「東海寺」というのは、北品川に現存している寺で、徳川家光が創建し、沢庵が開山に迎えられたという由緒ある禅寺で、その旧境内にある「東海寺大山墓地」には、賀茂真淵やら、板垣退助やら、島倉千代子やらの墓があるという。こんど行ってみよう。

 

 

 


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一日一書 1584 砂山・北原白秋

2020-02-08 16:25:15 | 一日一書

 

北原白秋

 

砂山

 

半紙

 

 

暮れりゃ 砂山

汐鳴りばかり

すずめちりぢり また風荒れる

みんなちりぢり もう誰も見えぬ

 

 

これは「2番」ですが

この何ともいえない寂寥感は、類を見ません。

「みんなちりぢり もう誰も見えぬ」は

老人が読むと、まさに胸迫るものがありますね。

 

 

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ (143) 志賀直哉『暗夜行路』 30  「老妓」 「前篇第一  七」 その4

2020-02-02 12:10:22 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (143) 志賀直哉『暗夜行路』 30  「老妓」 「前篇第一  七」 その4

2020.2.2


 

「西緑」で遊んでいるうちに、自分が「下らない人間」に成り下がったように感じた謙作だったが、その翌日、夕方にやってきた緒方がこんなことを言った。

 

「それはそうと一昨日はとうとう帰らなかったのかい」と緒方がいった。
 「どうして?」
 「お加代という人がちょっとでもいいから君を呼んでくれというので、十時過ぎに俥を迎えに寄越したが、聴かないかい?」
 謙作は顔を赤くした。お加代が如何(どう)いう気持でそんな事をいったか?  それとも誰も時々そういう調子を見せるのか? そういう事が彼にはさっぱり見当がつかなかった。
 彼は初めて会った時、既にお加代には多少惹きつけられた。ただその何となく荒っぽい粗雑な感じは、一方では好き、他方では厭に思っていた。それは深入りした場合きっと不愉快なものになるという予感からも来ていた。第一今の自分の手には余る女という感じから、興味は持てたが、それ以上には何とも考えていなかった。その上に、お加代にとってのその日の自身を思うと、プラスでもマイナスでもないただ路傍の人に過ぎなかったと思い込んでいただけに今緒方からそれを聴くと変に甘い気持が胸を往来し始めた。
 しかし彼はそれを出来るだけ隠そうとした。
 彼はしかし一方でちょっと不愉快を感じた。何故お栄でも女中でもそれを自分にいわないか。毎日単調な日暮しをしているお栄にとって、俥を持たして迎えに寄越すという事でも、或る一事件になり得ない事ではない。勿論これはいい忘れをしているのではなぃ。故意に黙っているのだ。女中にまで口留してあるのだと思った。

 


 「一昨日」は、「西緑」で謙作は緒方と遊んでいたのだが、緒方はトランプに嫌気がさして先に帰ってしまった。謙作は帰らずにそこに残り翌日に家に帰ったのだが、夕方になるとまた「西緑」へ出かけ、そこで「下らない人間」になったもんだと思ったわけで、その夜帰宅した。その翌日、緒方がやってきて、こんなことを言ったのだ。どうも時間の進行がゆるやかである。

 緒方は、お加代が謙作に気があるようなことを言ったわけだが、謙作もお加代のことが気になっていたので、その話は満更でもなかったわけだ。

 ただ、お加代は「手に余る」女だと謙作は感じていた。この女とかかわるとヤバいなあと思ったわけだが、それはかえって謙作の気持ちをそそることでもあり、しかし、そんな「ヤバい女」が朴念仁の謙作に好意を持つとも思えないから、「お加代にとってのその日の自身を思うと、プラスでもマイナスでもないただ路傍の人に過ぎなかったと思い込んでいた」のだ。この「思い込んでいた」というのは、「思い込もうとしていた」というほうが正確かもしれない。

 そのお加代が「ちょっとでもいいから」謙作を呼んでくれと緒方に言ったということを聞いた謙作は、そりゃ、悪い気はしない。つまり「変に甘い気持が胸を往来し始めた」のである。けれどもその気持ちを謙作は「出来るだけ隠そうとした」。なぜだかよく分からないが、そんなことで鼻の下をのばすのは男の沽券に関わるということだろうか。どこまでもウブな謙作である。

 ちょっといい気分になった謙作だが、その一方で「不愉快」も感じる。でました! 「不愉快」。お栄はどうしてそれを自分に言わないのか。お栄には、そんな些細なことでも十分に「一事件」で、それは謙作のためにならないと考えて女中にまで口止めして、お加代との仲をさこうとしたのではないか、と謙作は邪推する。被害妄想である。そしてその被害妄想は、お加代に傾いていく自分に一種の罪悪感を感じているからこそだろう。

 緒方と謙作は、外へ出て、「山王下の料理屋」へいく。

 

 きちんとした《なり》の女中が床の活花を更(か)えに来た。軒近くいる二人からは遠かったので、女中は床の前に坐って仔細らしくその位置を、眺めては直し、眺めては直ししていた。
 「とにかく、例の婆さんを呼んでくれないか」と緒方は女中に声をかけた。「それから千代子かしら……」
 女中は古い方の花を廊下へ出してから、また畳へ膝をついて黙って《いいつけ》を待った。
 「じゃあ、その二人」と緒方がいうと、女中はお辞儀をして出て行った。
 間もなくその婆さんといわれた芸者が入って来た。四十以上の脊せて小柄な少し青い顔をした如何にも酒の強そうな女だった。そしてよくしゃべる女だった。

 

 「料理屋」に行っても、この連中は芸者を呼ぶ。しかも昼間だ。贅沢な話である。

 それにしても、「婆さん」と呼ばれた芸者は、「四十以上」とある。「以上」なのだから、50かもしれないし、60かもしれないけど、まあ40代だろう。それが「婆さん」である。

 

「飯を食ったら直ぐ帰るからネ。千代子の方もちょっと催促してくれ」膳を運ぶ女中に緒方はこういった。
「ねえ。それはそうとお供は何時出来るの?」とその老妓がいった。
緒方はそれに答えずに謙作の方を向いて、
「今度、この婆さんと一緒に吉原へ行く約束をしたよ。この間の話をしたら、大変讃(ほ)められたよ」といった。
「仲の町の芸者衆でお遊びになればもう本物です」老妓はこんな事をいって笑った。
緒方と老妓とは謙作の知らぬ人の噂を二人でしていた。老妓はよくしゃべった。そしてその間々に時々甲高い真鍮を叩くような笑い声を入れた。それが変に人の気持を苛立たせた。


 地の文でも「老妓」である。そうか、40過ぎると「老妓」なのか。そういえば岡本かの子の「老妓抄」って小説があるが、この「老妓」って60ぐらいだろうと漠然と思っていたが、もっと若いのかもしれない。調べなくちゃ。(読んでみたが、年齢は分からなかった。でも40代ではなさそうだ。たぶん60以上。)

 それにしても、「飯を食ったら直ぐ帰る」のに、なんで芸者を二人も呼ぶのか。呼べばそれなりの金がかかるのに、なんてこと言うのは野暮なんだろうけど。

 ところで先日、さる会議の後、まだ30代の気鋭の国文学者二人と飲んだとき、「いやあ、『暗夜行路』は面白いなあ。」と言ったら、「そうかなあ。昔読みましたけど、面白くなかったなあ。」と一蹴されてしまった。「若いときにざっと読んだだけでしょ。それじゃあ面白くないよ。ゆっくり読めば面白いよ。」って言ったけど、まあ、こんなにゆっくり読むなんて、若い人にはできないだろうなあ。たとえできたとしても、「得るもの」があるかどうかおぼつかない。

 そもそもあんたには「得るもの」があるのか、って彼らなら聞きたいだろう。その答は、「ある」としかいいようがない。もっとも、それは、これからの人生に「役立つ」ものではない。というか、「得るもの」はこれからの時間の中に「ある」のではなく、ただいまこの時に「ある」。志賀直哉が残した言葉に、いちいち、ああでもないこうでもないと想像を巡らしながら時間を過ごす。その想像の中に、様々な人間達が生まれては消え、消えては生まれる。その想像のうちに、志賀直哉という人間の心のひだがおぼろげながら見える。それだけで、十分に「得ている」のである。

 

 


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