真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

日本軍による非戦闘員の殺害

2019年10月14日 | 国際・政治

 1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」と同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」が採択されました。同条約は、交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などを細かく規定していますが、これによって、戦争中といえども軍服を着ておらず武器を携帯していない敵国一般市民(非戦闘員)を殺傷することが禁じられました。また、敵兵であっても、兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷することも禁じられました。

 しかしながら、日本軍は、その後あちこちの戦地で非戦闘員である一般住民を殺しました。保護されるべき捕虜も殺しました。それが問題視されるようになったのは、「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」や同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」を無視した日本軍の作戦に対する中国の”三光作戦(「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす」)”なる呼称による批判が展開されたからではないかと思います。そして、見逃せないのが、三光作戦のような日本軍の攻撃は、日中戦争に限ったことではないということです。
 ここでは、イヴァノフカ事件と呼ばれる住民殺害の事実を「シベリア出兵 革命と干渉1917─1922」原暉之(筑摩書房)から抜粋しましたが、下記のような証言があるのです。

”…… 間モナク日本兵ト「コサック」兵トガ現ワレ枯草ヲ軒下ニ積ミ石油ヲ注ギ放火シ初メタ 女子供ハ恐レ戦キ泣キ叫ンダ 彼等ノ或ル者ハ一時気絶シ発狂シタ 男子ハ多ク殺サレ或ハ捕ヘラレ或者等ハ一列ニ列ベラレテ一斉射撃ノ下ニ斃レタ 絶命ゼザルモノ等ハ一々銃剣テ刺シ殺サレタ 最モ惨酷ナノハ廿五名ノ村民ガ一棟ノ物置小屋ニ押シ込メラレ外カラ火ヲ放タレテ生キナガラ焼ケ死ンダ事デアル 殺サレタ者ガ当村ニ籍ノアル者ノミデ二百十六名、籍ノ無イ者モ多数殺サレタ 焼ケタ家ガ百三十戸、穀物農具家財ノ焼失無数デアル……”
 
 そして、こうした殲滅作戦を展開する理由として、歩兵第十二旅団長山田四郎少将が、当地において

第一、日本軍及ビ露人ニ敵対スル過激派軍ハ付近各所ニ散在セルガ日本軍ニテハ彼等ガ時ニハ我ガ兵ヲ傷ケ時ニハ良民ヲ装ヒ変幻常ナキヲ以テ其実質ヲ判別スルニ由ナキニ依リ今後村落中ノ人民ニシテ猥リニ日露軍兵ニ敵対スルモノアルトキハ日露軍ハ容赦ナク該村人民ノ過激派軍ニ加担スルモノト認メ其村落ヲ焼棄スベシ〔以下略〕

 と主張していることを見逃すことができません。良民(村民)を装って攻撃してくる敵兵(パルチザン)がいるので、”村落ヲ焼棄”し、皆殺しにするなどということは、当時においても許さることではなかったはずです。
 でも日本軍は、日清戦争における旅順攻略戦の際の「旅順虐殺事」件以来、「南京大虐殺事件」至るまで、上記と同じような理由で、こうした作戦をくり返したことを忘れてはならないと思います。

 戦後の日本は、皇国史観に基づく軍国主義と侵略戦争を否定し、再出発したかに見えました。私の父母は、戦争がもたらす惨禍や理不尽、人権無視や人命軽視を実感し、戦争は最悪である、絶対にやってはいけないと、事あるごとにくり返し言っておりました。そして、戦争を放棄し、平和国家として歩む日本を喜んでいたように思います。そうした思いは、戦争を体験した世代の多くの日本人に共通だったのではないかと思います。

 にもかかわらず、不都合な事実はなかったことにし、日本の戦争を正当化する人たちによって、徐々に日本の戦前回帰が進められ、とうとう北方領土について「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」などと質問したり、「戦争しないとどうしようもなくないですか」というようなことをいう国会議員が出てくるまでになってしまいました。

 だからこそ、今、あまり知られていない日本の戦争の暗部も、しっかり学ぶことが大事ではないかと思います。そして、植民地支配や戦争の過ちを認め、日本国憲法の精神に基づく政治によって、近隣諸国の信頼を取り戻したいと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       19 パルチザン戦争

「焼打ちして殲滅すべし」
 1918年秋、州都ブラゴヴェシチェンスク(武市)、アムール鉄道の沿線と要地ゼーヤを占領した日本軍は、引き続き、アムール州内各地で「過激派残党」の討伐作戦を展開した。「過激派」が出没しているという通報があるとそのつど出動した。「情況不穏ニシテ人民中官憲ノ命ニ従ハサルモノ多ク」というだけで、討伐隊を派遣し掃蕩を行う理由は立派に成立した。
 武市より東方36キロにあるイヴァノフカ村出身のパルチザン指導者ベズロードヌイフの回想によれば、反革命勢力は都市でこそ権力を組織しえたが、農村には通達を送ってくるだけで、所によって実施されたリ、されなかったりという状況であった。十月革命のち他村に先駆けて村ソビエトを結成し、ガーモフの反乱に際しては武市の赤衛隊に志願兵を送り出したこのイヴァノフカはまさに典型的な「官憲ノ命ニ従ハサル」村の一つであって、 隠匿武器の供出命令を拒否し、ゼムストヴォ(地方自治機関)設置の説明に来た役人は野次り倒されてしまった。
 ゼムストヴォ設置問題で頑強な拒否の姿勢をみせるこの村に対して、アタマン・ガーモフは武力で決着をつけることにし、日本軍に応援を頼んだ。村はやく400の日本軍部隊とカザーク三中隊によって包囲され、しらみつぶしの捜索と武器押収、逮捕と銃殺、笞刑が実施された。白衛軍と日本軍の蛮行は住民を憤激させた。その中で革命派の地下組織は農民のあいだに根をおろしていった。
 アムール州農民の最初の本格的な蜂起はマザノヴァ村で起きた。ソ連の歴史家カルペンコは次のように書いている。

 1919年1月7日か8日マザノヴァ村の農民は日本軍現地守備隊の暴力に耐えかねて武器をとり、ソハチノの本部に救援を求めて代表を送った。本部は近隣諸村の農民(1000人以上)を動員した。1月10日、蜂起民はマザノヴァに到着するや、日本軍を襲撃した。戦闘は終日続き、蜂起民の勝利に終わった。彼らは公共の建物に赤旗を掲げ、ソビエト権力が復活したことを宣言した。……1月10日、スヴォボードヌイからその地の守備隊長マエダ大尉の率いる日本軍討伐隊がゼーヤ河沿いに上がってきた。道中日本軍は手当たり次第に村々を焼き、無防備の農民を銃殺した。1月11日正午頃、日本軍は蜂起民が明け渡したマザノヴォを占領した。1月13日の未明、すでに蜂起民は引き払っており、村民は和平代表団を送ったにもかかわらず、マエダの部隊はソハチノ村を襲撃した。日本軍は代表団と女子供を含む逃げ遅れた全村民を銃殺し、村を徹底的に焼き尽くした。

 スヴォボードヌイというのはアレクセーエフスクの別名。皇帝ニコライ二世の長子、皇太子アレクセイに因む旧名に代わり、革命後「自由な町」を意味するこの名で呼ばれるようになった。アムール鉄道がゼーヤ河と交差する要地にあり、日本軍はここに歩兵第四十七連隊本部・大隊本部と歩兵二中隊を配置していた。マザノヴォはここよりゼーヤ河上流、セレムジャ河との合流点に位置し、やはり要地ということで、日本軍はアレクセーエフスクの第一中隊のうち一小隊を分遣していた。
 この日本軍守備隊は1月10日に襲撃をうけ、気温零下42度という悪条件のもとで長時間にわたる応戦ののちに弾薬尽きて退却した。この戦闘で日本側は戦死6、負傷7、行方不明4、凍傷患者34を出し、守備隊の軍需品全部を喪失するという大損害を蒙った。救援のため、前田多仲大尉の指揮する第一中隊が同村に派遣された。この部隊は右の引用文にあるように、マザノヴォを掃蕩したのちソハチノを襲撃したが、ソハチノでの無慈悲な復讐の事実は「同地ニハ我守備隊ヨリノ掠奪品ヲ隠匿シアリシヲ以テ懲膺ノ為過激派ニ関係セシ同村ノ民家ヲ焼夷セリ」と『出兵史』も認める通りである。
 討伐行動における現地日本軍の露骨に抑圧的な姿勢は、陸軍中央部すら眉をひそめたほどで、福田雅太郎参謀次長は1月28日、浦潮派遣軍参謀長に宛てて「万一前記ノ趣旨未タ徹底セスシテ徒ニ死傷者ヲ出シ或ハ一方誤リテ日、露両国間ノ感情ヲ害スルカ如キコトアリテハ誠ニ遺憾ナリ」と行き過ぎを戒める訓電を発している。
日本軍憲兵隊は「密偵ノ使用、住民殊ニ父母妻子ヲ殺害セラレテ怨恨深キモノノ利用」を通じて情報を収するなど、「過激派有力者ノ捜査ニ腐心」した。とりわけ、地下に潜行中の武市ソビエト議長兼アムール州人民委員会議長ムーヒンに対しては「小倉師団と旭川師団とが、競争的に、懸賞的につかまへてやろふと、いきり立っていた」といわれる。
 ムーヒンは秘かに村々を回って同志を糾合しつつあった。はじめ地下の諸組織はバラバラで統一を欠いていたが、12月から1月にかけて州内のあちこちで開かれた活動家会議を経る中で、ゼーヤ河以西(第一地区)と以東(第二地区)の地区割り、地区本部の結成と統一的活動計画の討議が進んだ。マザノヴォの事件以後、指導部は農民の自然発生的決起を抑えることにつとめた。1月26日にクラスヌイ・ヤールで開かれた活動家会議でも、即時に蜂起するか、勢力の総結集まで待機するかの問題をめぐって議論が沸騰し、農民代議員の圧倒的多数は即時蜂起を主張した。
 討論がいまやたけなわというとき、ヴォスクレセーノフカ付近で待ち伏せていたパルチザンが日本軍の部隊を撃破した、との情報が入り、即時蜂起論者は小躍りして喜んだ。慎重論に立っていたム-ヒンも、蜂起の指導を引き受けることを決意した。ボロダフキン、ベズロードヌイフらから成るアムール州革命本部が選出された。ムーヒンは武市に潜入した。武市でも蜂起の目標は一昼夜でも市を占領して武器庫と銀行を制するにあったという。

 パルチザンの装備といえば、クリミア戦争当時のも含むあらゆる国の銃が混じり、弾は一人に100発もあれば恵まれた方だったという。第二地区のパルチザン部隊は2月4日のヴィノグラーツカヤでの戦闘ののち、イヴァノフカに結集して武市の蜂起を待ち受けた。しかし、蜂起の準備工作は進捗せず、武市からの合図はなかった。
 イヴァノフカの部隊は近隣の蜂起農民を集めて13個中隊、6000人にふくれあがったが、こうした部隊の膨張と武器弾薬の不足は入念な作戦行動を困難にさせ、この理由からも、労働者の決起に呼応して州都に突入するという当初の構想は実現不可能になった。武器と食糧の確保は不可欠であり、他方日本軍の討伐はこの地区に集中的に実施されたので、部隊はアレクセーエフスク市の日本軍守備隊に対する襲撃と武器・糧食の奪取を計画して同市に向かった。しかし結局この計画も断念され、ゼーヤ河を越えて第一地区の部隊に合流することになった。
 この動きを察知した討伐部隊はパルチザンを追い詰めようとして、逆に地形を熟知するパルチザンによって袋の鼠となった。2月25日から26日にかけてアルクセーエフスクの西北方、アムール鉄道ユフタ駅付近の戦闘においてである。この戦闘でまず田中勝輔少佐の率いる歩兵七十二連隊第三大隊が「最後の一卒に至るまで全員悉く戦死」、救援に向かった野砲兵第十二連隊第五中隊と歩兵七十二連隊第十一中隊の一小隊も衆寡敵せず、「歩兵の負傷兵卒五名を除き他は悉く枕を並べて戦死」、野砲二門を奪われた。合わせて日本側の戦死者数は280名にのぼった。
 ユフタでの大敗北は日本軍に深刻な衝撃を与えた。この直後にユフタ村に入った松尾勝造二等兵は2月27日の日記に以下のように書いたが、これをみても衝撃の度合いが窺える。
 
 朝食の用意をしながら昨日に於ての戦死傷者等、その他のことをあれこれのひとに聞いた。……田中支隊全滅、野砲隊32名のうち2名生き残ったほか30名は戦死等であった。それに次いで野砲二門、弾車も敵に取られた由。……この砲を取られた兵が全滅したことは、日清、日露、青島の戦にも未だかつて例を見ない、一大珍事だそうな。このユフタの敗戦は日本始まって以来の大恥辱とせねばならぬ。敵はいつも日本を山の間に誘い入れ、尖兵や斥候を通してをいて日本軍に安心油断させておき、本隊を叩きつける作戦である。敵ながらそのやり方はうまいものである。何時も味方はこの手に陥って不覚を取りつつあるのが残念で仕方がない。将校じゃ、隊長じゃと言ふのがあまりに対敵観念の薄いのに呆れ果てる。そして敵に手向ひもし得ずして全滅するとは何事ぞ。

 不名誉な敗北の汚名を雪ぐため、第十二師団長大井成元中将は、「師団全力ヲ以テスル大討伐」をなすに決し、今度はゼーヤ河の東方に移動したパルチザンに対し大規模な追撃戦を展開する。かくして3月3日のバーヴロフカ、ポチカレヴォ付近の戦闘は激戦となった。両地での日本側の戦死者は51人にのぼった。ベズロードヌイフによれば、バーヴロフカの戦闘では日本軍から奪った機関銃がよく働き、ユフタ付近で奪った野砲も「次々と日本側に砲弾を送り込んだ」という。「彼らが蒙った大損害と蜂起民がみせた強い抵抗はおそらく日本軍に重々しい印象を残した」。その翌日、武市に駐在する平塚晴俊副領事は書いている。

 過激派軍ハ有力ナル首領ノ統一アル指揮ノ下ニ行動シ相当ノ武器ヲ所持シテ堂々戦闘行為ヲ敢テスルヲ見レバ彼等ハ決シテ支那馬賊ノ類セル無頼漢ノ集団所謂烏合ソ衆トモ思ハレズ

 兵士たちは、敵は「独墺俘虜ト之レニ加勢スル者」(『兵士の心得』)だと吹き込まれてきた。もともと戦争の意味がまったく曖昧で、戦意が低下しがちなだけに、たかが烏合の衆と軽視していた敵軍によって戦友の無惨な戦死があい次いでいる様をまのあたりにした兵士たちは、異常なまでに敵愾心を掻き立てられ、捨て鉢の報復者集団になっていった。しかも休養不足と想像を絶する厳寒の中、連日連夜の悪戦苦闘はただでさえ殺気立っていた兵士をいっそう神経過敏にさせた。ニ月初頭から三月半ばにかけてアムール州内各地守備隊を視察した第十二師団参謀の河村砲兵大尉は、「要地ニ残置シ守備ニ任セル微弱ナル守備隊ニ於テハ終始露人側ノ通報ニ依リ附近諸村落ニ於ケル敵情ノ為メ脅迫セラレ連日連夜至厳ナル警戒勤務ニ服シ疲労困憊シテ神経過敏ニ陥レリ」と報告している。

 侵略戦争にあっては、このように神経過敏に陥り、理性の抑制がきかない状態での敵愾心の亢進は、厳格な統制手段が講じられない限り、一般民衆に対してまで闇雲の殺戮に走る傾向をもつ。
 軍幹部はそれを防止するよう然るべき抑制措置をとったであろうか。たしかに「農民ト過激派トヲ分離セシムルノ策ヲ講スルヲ要ス」(河村大尉報告書)という見方もあった。しかし本来「暴徒」と「良民」が分離不可能である点に困難があるのであり、こういっただけでは机上の空論である。かくて「村落焼棄」を実施して構わぬとの方針が打ち出された。二月中旬の頃、歩兵第十二師団山田四郎少将は「師団長ノ司令ニ基キ」大要次のようなビラを武市付近に散布させた。

 第一、日本軍及ビ露人ニ敵対スル過激派軍ハ付近各所ニ散在セルガ日本軍ニテハ彼等ガ時ニハ我ガ兵ヲ傷ケ時ニハ良民ヲ装ヒ変幻常ナキヲ以テ其実質ヲ判別スルニ由ナキニ依リ今後村落中ノ人民ニシテ猥リニ日露軍兵ニ敵対スルモノアルトキハ日露軍ハ容赦ナク該村人民ノ過激派軍ニ加担スルモノト認メ其村落ヲ焼棄スベシ〔以下略〕

 さらに、ユフタとバーヴロフカ、ボチカレヴォの戦闘をはさんで、山田少将は改めて強硬な「村落
焼棄」方針を告示する。この方針は浦潮派遣軍政務部長松平恒雄の内田外相宛て電報から内容を窺い知ることができる。すなわち松平の3月6日づけ「第158号」には、「当地新聞ハ山田少将ノ告示文トシテ大要別電159号ノ如キ記事ヲ報道シタルニ……」とあり「別電159号」には、次のように記されているのである。  

 最近州内各地ニ於テ過激派赤衛団ハ現地政府及日本軍ニ対シ州民ヲ扇動シ向背常ナク我軍隊ニシテ其何レガ過激派ニシテ何レガ非過激派ナルカ識別ニ苦マシメ秩序回復ヲ不可能ナラシメツゝアルガ斯クノ如キ状態ハ到底之ヲ容スベカラザルモノト認メ全黒竜州人ニ対シ左ノ通リ告示ス 
 一、 各村落ニ於テ過激派赤衛団ヲ発見シタル時ハ広狭ト人口ノ多寡ニ拘ラズ之ヲ焼打シテ殲滅スベシ〔以下略〕
 浦潮派遣軍参謀長は、この第一項が文字通りに実施されれば「諸種ノ問題ヲ惹起スルニ至ルベク又永久ニ庶民ノ怨ヲ買フガ如キ結果ニ陥ルナキヤヲ惧ル」旨、第十二師団参謀長に電諭した。これに対する第十二師団からの回電には次のようにある。
 家屋焼却等ハ戦闘上避クヘカラサルモノ「チェクノフカ」及「パーロフカ」等十数軒ニ止マリ農民ハ案外ニ小数ナルニ驚キアラント思ハル 良民ヲ虐殺スル等ハ絶体ニ無ク強姦等ハ勿論ナリ
 この回電においても、「家屋焼却」の事実ははっきり肯定されている。
 
 ソ連の歴史家アムール州内で1919年3月に焼き打ちを蒙った村落として、クルーグラヤ、ラズリフカ、チェルノフスカヤ、クラースヌイ・ヤール、パーヴロフカ、アンドレーエフカ、ヴァシリエフカ、イヴァノフカの各村落、ロジェストヴェンスカヤ郷のすべての村を挙げている。
 これらのうち最も大規模かつ残虐な被害を蒙ったものとして知られるのがイヴァノフカである。同村の掃蕩の直後、山田旅団長は宣言を発して、同村が「黒竜州ニ於テ過激派ノ跋扈シタル其ノ当初ヨリ既ニ彼等ノ有力ナル巣窟」であり、ガーモフの反乱に際しては「其ノ住民中男子ハ殆ント赤衛軍ニ参加」したと理由を挙げて焼打ちを正当化した。日本軍はイヴァノフカを眼の仇にしていたのである。
 ところで、この事件のほぼ半年後、浦潮派遣軍政務部は民間人の佐藤熊男と沢野秀雄、それに通訳官と従卒の計四名の調査団をアムール州に特派し、事件を調査させている。この調査団の経緯は不明だが、彼らによって「黒竜州『イワーノフカ』『タムホーフカ』村紀行」と題する報告書が残されている。。もとより「過激派ノ為メニ田中大隊全滅ノ悲惨ヲ見タル九州男子ノ憤怒ヨリシテ此ノ大活劇ゝヲ演ジタトシテ見レバ焼イタ方ニモ無理ハ無サソウデアル」と、弁護論に立った報告書ではあるが、村長はじめ村民からの聴き取りを含む点で貴重な史料である。村民は調査団に次のように語った。やや長文だが、この部分は引用を必要とする。

 本村ガ日本軍ニ包囲サレタノハ三月二十二日午前十時デアル 其日村民ハ平和ニ家業ヲ仕テ居タ 初メ西北方ニ銃声ガ聞ヘ次デ砲弾ガ村ヘ落チ初メタ 凡ソ二時間程度ノ間ニ約二百発ノ砲弾が飛来シテ五、六軒ノ農家が焼ケタ 村民ハ驚キ恐レテ四方ニ逃亡スルモアリ地下室ニ隠ルゝモアッタ 間モナク日本兵ト「コサック」兵トガ現ワレ枯草ヲ軒下ニ積ミ石油ヲ注ギ放火シ初メタ 女子供ハ恐レ戦キ泣キ叫ンダ 彼等ノ或ル者ハ一時気絶シ発狂シタ 男子ハ多ク殺サレ或ハ捕ヘラレ或者等ハ一列ニ列ベラレテ一斉射撃ノ下ニ斃レタ 絶命ゼザルモノ等ハ一々銃剣テ刺シ殺サレタ 最モ惨酷ナノハ廿五名ノ村民ガ一棟ノ物置小屋ニ押シ込メラレ外カラ火ヲ放タレテ生キナガラ焼ケ死ンダ事デアル 殺サレタ者ガ当村ニ籍ノアル者ノミデ二百十六名、籍ノ無イ者モ多数殺サレタ 焼ケタ家ガ百三十戸、穀物農具家財ノ焼失無数デアル 此ノ損害総計七百五十万留(ルーブル)ニ達シテ居ル 孤児ガ約五百名老人ノミ生キ残ッテ扶養者ノ無イ者ガ八戸其他現在生活ニ窮シテ居ル家族ハ多数デアル
 
 翌年ニ月、アムール州にソビエト権力が回復されると、武市の新聞『アムールスカヤ・プラウダ』の編集者、ジュコフスキー=ジュークは内戦期の犠牲者について情報の提供を呼びかけ『赤いゴルゴダ』と題する殉教者列伝を出版した。全国に知られたといわれるこの本には、他の多くの犠牲者と並んで、一歳半の女児を含む二百九十一人の氏名がイヴァノフカの焼討ちの犠牲者として記載されている。
 アムール州とりわけザゼーヤ(ゼーヤ以東)地区は極東ロシアの穀倉として知られた。中でもイヴァノフカは「人口8000カラアル」屈指の大村で、随所にみられる「米国式の農具」に象徴されるように「富ニ於テモ亦州内其比ヲ見ナイ位ノ村」であった。日本軍はこの豊かな村の全村民を敵に回した。「殺サレタ者ノ内ニハ過激派デ無イ者ガ多ク焼カレタ家ハ過激派ノ家デハナイ 寧ロ反過激派トモ称スベキ資産家許リ」だったと「紀行」の筆者は記している。「此ノ事アッテ以来村民ノ大部分ハ極度ニ日本軍ヲ恨ンダ ソシテ自然過激派ニ変ズルモノモ少ナクナカッタ」──日本軍の所業の当然の帰結である。別の記述によれば、掃蕩を受けたのち、イヴァノフカ村民はドロゴシェフスキーのパルチザン軍に十三個中隊を編成したという。
 イヴァノフカの掃蕩について、山田旅団長は「根抵的懲戒ノ実ヲ示ス」ものとしてその意義を宣言するとともに、「赤衛軍ニ援助ヲ与ヘ若ハ日本軍ニ敵対セントスル村落ハ尽ク『イヴァノフカ』ト同一運命ニ遭遇スヘキヲ覚悟スヘシ」と威嚇を繰り返した。

 一方、武市では蜂起計画を実現しないまま、3月7日─8日にボリシェビキ党地下組織の66名の工作者が一斉検挙に遭った。ムーヒンも8日の朝に逮捕されたが、それは「予テ日本軍ニ秘密探偵トシテ雇レタシト称シ居タル露婦人ノ案内ニ依リ日本軍憲兵及露軍事探偵協同シテ探査ニ従事」した結果の逮捕であった。日本軍はこのロシア婦人と探偵に懸賞金1万3000ルーブリを与えた。
 ムーヒンは9日の軍事法廷で死刑を宣告されたが、「泰然自若、其態度感心スヘキモノアリ」と日本軍の報告は記している。このあと、同夜監獄に護送の途中、ムーヒンは白衛軍将校によって射殺され、非業の死を遂げた。日本軍が白色テロに自ら手を下した事例も記録に残されている。3月26日、武市監獄に収監中の政治犯17名を連行し、そのうち15名を勝手に処刑してしまったというものである。
 武市特務機関の作成になる「アムール州附近過激派主要人物名簿」が旧陸海軍記録の中に見出されるが、ブラック・リストもまた、白色テロルへの日本軍の加担を窺わせる史料である。大正7年6月25日調、とあり、前年の9月の反革命政権成立以後6月24日までに、(1)処刑されたもの19名(ムーヒンほか、ドロゴシェフスキーも含まれる)、(2)収監中の者19名、(3)放免された者7名(「右ノ外過激派下級幹部約500名捕縛セリ」の但し書がある)、(4)「捕縛ヲ要スル」者83名の氏名がリスト・アップされている。そして、「捕縛ヲ要スル」者のうち、クラスノシチョーコフら数名には〇印がつけられ、「最モ速ニ行フヲ要スルモノトス」の注記がある。この頃、クラスノシチョーコフは本名秘匿のままイルクーツクの監獄に収監されていたのであるが。
 平塚副領事の4月10日づけ報告に「過激派残兵其後我軍ノ厳重ナル討伐ノ為メ如何トモスルコト能ハス」とあるように、アムール州のパルチザン運動は「師団全力ヲ以テスル大討伐」の結果、表面上は下火になったかにみえた。実際には、運動の指導部はパーヴロフカの戦闘以後、その教訓からより効果的な戦術に転換すること、蜂起隊をひとまず解散し、日本軍から奪った砲は捨て、軽装備少人数のグループをタイガに後退させて機を待つことを決定したのである。
 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「日韓請求権協定」の問題 | トップ | 尼港事件の真実 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

国際・政治」カテゴリの最新記事