真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ノモンハン事件 帰還捕虜の処遇

2008年03月22日 | 国際・政治

 18000人もの戦死者を出したといわれるノモンハンの戦闘は、1939年9月15日にモスクワで停戦協定が成立し、翌16日に戦闘が中止された。そして、停戦後捕虜の交換が行われたが、問題はその帰還捕虜の処遇である。聞き書きある憲兵の記録」朝日新聞山形支局(朝日文庫)より抜粋する。

ノモンハン事件と日本人捕虜----------------------
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 もっとも、『日本憲兵正史』には、「停戦協定後……第一回の捕虜交換は9月17日に、日本側から97名、ソ連側から88名を出して交換した。また、昭和15年4月27日には、日本側から2名を返し、ソ連側から204名を受領している」とある。
 捕虜だった日本兵の大半は負傷していたため、吉林省新站陸軍病院などに入院したが、満州里からの輸送の間に、憲兵が、列車に乗り込んだ。チチハル憲兵隊からもそのために派遣された。土屋は行かなかったが、派遣された目的は、「捕虜だった兵たちの言動を見張れ」ということだった。「赤い国、ソ連の捕虜だったのだから、赤化教育を受けたに違いない。スパイにでも仕立てられたのがいたら摘発しろ」という含みだった。お国のためと、力量的には無謀ともいえるノモンハン事件の戦場で倒れ、ようやく戻った兵たちを迎えたのは、こうした仕打ちだった。
 「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過禍の汚名を残すことなかれ」という戦陣訓は、ノモンハン事件より二年後の昭和16年(1941年)一月のの示達だから、この当時は、この考え方にしばられることはなかったのではないか。だが、敵前逃亡については死刑などの厳罰を科していたが、投降罪や俘虜罪はなかった。だが、当時の土屋も「捕虜になったらおしまい」と思っていたように、軍内の空気は「戦陣訓」を先取りしたものに近かった。だから、帰還捕虜は冷酷な扱いを受けた。
 入院先のベッド周辺にまで憲兵が衛生兵の腕章をして入り込んでいた、という記録もある。それに、病院内で略式軍法会議が行われ、帰還捕虜は、一週間の重営倉などの刑罰を受けた。その上、何とか帰国できても、ロシアの捕虜だった男として、特高刑事の再三の訪問を受けねばならない兵もいた、という。
 しかし、将校たちは、さらに悲惨だった。彼らは、病院では個室に入院していたが、個室での略式軍法会議の後、ほとんどがピストルで自殺している。土屋は、捕虜だった将校には、自決をすすめ、ピストルをベッドの下に入れた、という話を聞いている。

 『一億人の昭和史』毎日新聞社編(毎日新聞社)には、ノモンハン事件当時、野戦重砲第一連隊 本部付の兵長で、帰還捕虜だった人が「航空少佐らもみな刑法を受け、憲兵から『貴様など、すでに本にまで出て、立派な戦死者だ』と責められ、自殺せよとの命令で、病院で短銃自殺を遂げた」と書いている。この人自身、好んで捕虜になったのではない。部隊が進退きわまって、同僚と互いにノドを突き合って倒れていたのを捕らえられたのだ、という。
 刑事がまとわりつこうが、帰郷できたのは幸運だったかもしれない。土屋は「これは聞いた話」と、伝聞を強調しながら、こんな話をした。それは消えた帰還捕虜の話だ。将校の大半は病院で自決させられたが、問題は兵たちだ。二回、三回目に戻された合わせて700人近い兵について、土屋はハルビンの南、背陰河までは列車で送られてきたと聞いた。だが、その後の彼らの消息はまったく聞かない。どこへ行ってしまったのか。当時、だれもが「まさか」と思いながら、首をひねった、という。全員が無事帰郷できていれば、もちろん、それにこしたことはない。しかし、土屋は、大半が”わが精鋭がその威武に……”と歌われた関東軍の恥、とばかりに何らかの処分をされたのではないか、と今も疑っている。
 そして声を潜めた。もう一つ伝聞がある。ソ連兵の捕虜についてだ。戦況から、日本兵側が圧倒的に多いのは理解できるが、交換されたソ連兵の捕虜が少な過ぎる。「石井細菌部隊の地下に、間違いなくソ連兵らしい捕虜がいっぱい入っているのを見た」ときいた。それで、少なかったのか、と土屋が納得したのは、上山市に帰った後である。この話をしてくれたのは、石井四郎部隊に所属し、後に南方に転戦、帰国した知り合いの元日本兵だ。

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 捕虜の人数については、諸説あるようなのだが、「ノモンハンの夏」半藤一利(文春文庫)には、戦死、戦傷、戦病、生死不明や帰還捕虜について、下記のように書かれている。
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 これら連隊長クラスの悲劇をみれば、大隊長、中隊長、小隊長そして下士官・兵のおびただしい犠牲については改めて書くまでもないであろう。いかに救いようのない死闘があったか、これまで、明らかにされている第六軍軍医部調整の資料では、第二次ノモンハン事件にかんして、出動人員58925人、うち戦死7720人、戦傷8664人、戦病2363人、生死不明1021人、計19768人となっている。正しくは、第一次事件の損耗、安岡支隊および航空部隊の損耗、満州国軍の損耗もこれに加えなければならない。さらにいえば帰還後の捕虜となったものの処分も。

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 昭和41年10月12日、靖国神社でノモンハン事変戦没者の慰霊祭が行われたとき、翌日の新聞は戦没者を18000人と報道している。
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 ソ連軍の死傷者も、最近の秘密指定解除によって、惨たる数字が公開されている。戦死6831人、行方不明1143人、戦傷15251人、戦病701人、これに外蒙軍の戦傷者を加えると、全損耗は24492人となるという。圧倒的な戦力をもちながらソ蒙軍はこれだけの犠牲をださねばならなかった。
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 そして、上記生死不明の1021人や帰還捕虜について、下記の説明がある。
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 ノモンハン事件の損耗については、もうひとつ重要なことに、日本兵の捕虜の問題がある。生死不明の1021人(うち将校19人)という数字のうしろにこれが秘められている。捕虜交換で帰ってきた146名を差し引くと、八百余人が行方不明となる。すべて捕虜というわけにはいかないが、かなり多数の捕虜がいたとみられよう。のちのソ連側の発表は567人ということであるが、これもかならずしも正確とはいえないようである。

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 帰ってきた捕虜の処分について当時、新京憲兵隊公主嶺分隊所属であった林次郎憲兵上等兵の、凄惨というべき証言がある。
「(停戦して)半月も過ぎたころ、関東軍司令部から将校を長とする特設軍法会議が乗りこんできて、非公開で、主に将校が裁判に付された。午前10時から午後4時ごろまでで終わった。その場に居あわせた憲兵の話では、裁判官は終了後、将校には拳銃を与え、何もいわずにさっと引き揚げたという。/その直後、憲兵といえども将校室に近寄ることを禁ずとの命令が出、間もなくケン銃の発射音がひびいた。自決だった」(『ノモンハンの死闘』)

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 将校については、どの証言も内容が似ているが、その他の将兵の帰還捕虜はいったいどうなったのであろうか。数もはっきりせず証言そのものがほとんどない。「赤化教育を受け、スパイに仕立てられているのではないか」と疑われていた帰還捕虜が、もし無罪放免ということであれば、何らかのかたちで憲兵や特高にマークされていたはずであり、様々な証言があって当然である。放置できない謎であると思う。知っている人がいるのであれば教えてほしいとも思う。

                http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/
             全文と各項目へリンクした一覧表があります。

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4 コメント

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ノモンハンで発生した下士官兵の捕虜に関しては、... (山猫男爵)
2008-09-12 16:36:21
ノモンハンで発生した下士官兵の捕虜に関しては、不起訴となったことで捕虜としての汚名はなくなったこと、人事不省となって捕虜となった者は功績を賞賛されるべきことなどを記した軍の文書が残っています。
http://navy.ap.teacup.com/yamanekocave/319.html
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日本でノモンハン事変は、モンゴルではハルハ河戦... (ミュウタント)
2008-11-07 02:25:37
日本でノモンハン事変は、モンゴルではハルハ河戦争と言っています。
日本軍はなぜこんな辺鄙なところでソビエトと争ったのかわからないような土地です。虎の子の戦車を相当失いました。
守備陣地を勝手に放棄したと各大隊長は自決させられています。
 
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当時、軍官僚が政権を乗っ取た時期。先制攻撃して... (Unknown)
2014-07-06 08:38:21
当時、軍官僚が政権を乗っ取た時期。先制攻撃して負けたのでは厳重な口封じが必要。

威張りくさりの絶頂での弱体露呈。
そんな事実が知られては国運に陰りが射し始めたと印象付けるようなもの。
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? 様 (Unknown)
2014-07-06 09:52:11
? 様


>当時、軍官僚が政権を乗っ取た時期。先制攻撃して負けたのでは厳重な口封じが必要。

威張りくさりの絶頂での弱体露呈。
そんな事実が知られては国運に陰りが射し始めたと印象付けるようなもの。

との主張は、当時の日本軍には口封じの必要性があったので、当然の処置である、とお考えなのでしょうか?
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