松代大本営地下壕工事における”人権を無視した朝鮮人労務者酷使”を象徴するような話が、敗戦後の彼らの帰国と関連して報告されている。”暴動”や”仕返し”の恐れなどである。「図録 松代大本営 幻の大本営の秘密を探る」和田登編著(郷土出版社)からの一部抜粋である。
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五、 日本敗戦と朝鮮人の帰国
舞鶴山(現気象庁地震観測所のあるところ)のイ号地下壕の壁面には、今も黒々とはっきり、 だれが書いたものやら、
敗戦日
八月十五日
と、書き記されたものが残っている。朝鮮人労務者達にとっては解放された日である。日本人とこれらの人々の立場は逆転した。
その前の8月13日に、長野空襲があり、朝鮮人達は、星のマークのついた艦載機グラマンが上空を低く飛び、長野市街に突っ込んでいくのを目撃し、騒ぎ立て、日本人達がとりしまるのに懸命になったという話もある。その時点で、すでに解放の真近い(ママ)ことを多くの労務者は悟ったに違いない。
工事関係者の幹部は、解放を機に、これらの人々が暴動を起こすことを恐れて、長野憲兵隊や長野師管区に相談に行った事実もある。また、現場監督の上層部で任に当たっていたある者は、これらの人々の復讐を恐れて、一時北海道に逃げて行っていた。
工事関係の上に立っていた人々は、このように朝鮮人対策に最も苦慮する結果となった。そこで、平穏を保つために、特に強制連行組については、帰国の手配を急いだ。
東部軍は、敗戦によって事実上解散したため、主にこれらの人々の帰国は建設会社にまかせた。西松組、鹿島組はそれを受けて帰国処理をする。西松組の矢野亨(当時同会社の理事)は、職員を新潟、下関、博多などへやって、ヤミ船まで手配し、ひとり当たり支度金を250円渡したと、『昭和史の天皇』で述べている。が、一方その事実を否定している同会社の元副隊長(事実上の監督)の証言もある。ヤミ船を手配したり、250円支給したことはなく、ひとり当たり旅費として5円を渡したというのである(朴慶植氏聞き取り)。
帰国せず残留した者の話では、お金は1銭ももらわなかったという話まである。 とにかく、証言が大変食い違っていることは、帰国問題に限らず、これまでに述べた労働状態についてもいえることであるが、それだけに大本営工事はその計画の初めからして泥縄式のところがあり、秘密工事という内容もあって、あらゆることが判然としない。組織と組織の横の連絡も誠に不徹底。最近聞くところによれば、長野市安茂里には、陸軍に負けじと、海軍が500人ばかりを動員して地下壕を掘っていたという。
また京都は京都で東山区に府庁の地下移転と天皇退避所を造る計画を極秘に進めていたことが、9年前に明るみにされたけれど、これと”マツシロ”との関係はどうなっていたのか。理解に苦しむような、まさに戦争末期の混乱が象徴されるような話が余りにも多く、それはそのもも戦後処理まで続いていく。
話が横道にそれたが、強制連行組は出来るだけ早く帰す方針で、特別残留を希望する者を除き、ほとんどが敗戦の年の11月ごろから翌年2月頃までの間に帰国した。
”マツシロ”帰国問題に関しては、この敗戦直後のものと、1955年(昭和30年)代から60年代にかけてのものと二波があった。
というのは、自主渡航組を中心として、象山のイ地区飯場に相当数が、家族を伴なったりして終結(ママ)、残留していて、それが日朝協会や日本赤十字などによる帰国運動は高揚するにつれ、帰国に踏み切る者が多数出てきたためである。イ地区つまり清野の飯場には、数十戸、百人ぐらいは残っていた模様である。
残留者の生活は困窮を極めていた。
以下は、評論家の寺尾五郎氏と、元帰国協力会長野県支部事務局長小林杜人氏(故人)が清野の飯場に入っての聞き取り記事である。1959年(昭和34年)5月25日付「在日朝鮮人帰国協力会ニュース」
「やがて終戦となった。朝鮮に帰った者、他処かへ流れていった者、そしてどこへ行くすべもなかった者がそのままここに住みついた。しかし、田畑も、仕事もなかった。やむなくドブロク作りをやって何回か手入れもされた。今残るのは19戸82名。全く絶望的な生活をしている。その住居はバラックとさえ呼べるものではない。瓦はおろか、トタン屋根さえない。戸もない。壁もない。木と紙だけの小屋だ。この一帯は、千曲川の遊水地域みたいな低地である。小雨が降ってドロンコ。ちょっと降り続けば腰まで出水。とても人間の住むところではない。
9戸、54名が生活保護を受けている。何の仕事にもありつけないので今年の春、5月の節句のカシワ餅を包む葉、それを採りに行った。1貫目で25円だが、それを総出でとった。ところがそれだけ収入があるとみなされて、生活保護を打ち切られたり、減額されたりしてしまった。『一体、われわれは働いた方がよいのですか、働かない方がよいのですか』と訴える朴さんの眼ざしは悲痛だ。
こういう状態だから、ほとんど全員が帰国を希望している。」
ここには、戦時下の重労働からは解放されたが、ゆるやかな餓死に追いつめられている姿があった。したがって、残留してなんとか日本で生活を切りぬけようと思っていたものの、一刻も早く日本を脱出したいと願ったのは当然であった。
やがて、日朝協会や日本赤十字社などの事業により、”マツシロ”を離れることになる。
ところで、これらの人々が帰国した時期は、すでに祖国は朝鮮戦争によって分断されており、政治的な理由から、帰国先は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)であった。南から来たものが多かったのにかかわらずである。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・」は、文の省略を示します。
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五、 日本敗戦と朝鮮人の帰国
舞鶴山(現気象庁地震観測所のあるところ)のイ号地下壕の壁面には、今も黒々とはっきり、 だれが書いたものやら、
敗戦日
八月十五日
と、書き記されたものが残っている。朝鮮人労務者達にとっては解放された日である。日本人とこれらの人々の立場は逆転した。
その前の8月13日に、長野空襲があり、朝鮮人達は、星のマークのついた艦載機グラマンが上空を低く飛び、長野市街に突っ込んでいくのを目撃し、騒ぎ立て、日本人達がとりしまるのに懸命になったという話もある。その時点で、すでに解放の真近い(ママ)ことを多くの労務者は悟ったに違いない。
工事関係者の幹部は、解放を機に、これらの人々が暴動を起こすことを恐れて、長野憲兵隊や長野師管区に相談に行った事実もある。また、現場監督の上層部で任に当たっていたある者は、これらの人々の復讐を恐れて、一時北海道に逃げて行っていた。
工事関係の上に立っていた人々は、このように朝鮮人対策に最も苦慮する結果となった。そこで、平穏を保つために、特に強制連行組については、帰国の手配を急いだ。
東部軍は、敗戦によって事実上解散したため、主にこれらの人々の帰国は建設会社にまかせた。西松組、鹿島組はそれを受けて帰国処理をする。西松組の矢野亨(当時同会社の理事)は、職員を新潟、下関、博多などへやって、ヤミ船まで手配し、ひとり当たり支度金を250円渡したと、『昭和史の天皇』で述べている。が、一方その事実を否定している同会社の元副隊長(事実上の監督)の証言もある。ヤミ船を手配したり、250円支給したことはなく、ひとり当たり旅費として5円を渡したというのである(朴慶植氏聞き取り)。
帰国せず残留した者の話では、お金は1銭ももらわなかったという話まである。 とにかく、証言が大変食い違っていることは、帰国問題に限らず、これまでに述べた労働状態についてもいえることであるが、それだけに大本営工事はその計画の初めからして泥縄式のところがあり、秘密工事という内容もあって、あらゆることが判然としない。組織と組織の横の連絡も誠に不徹底。最近聞くところによれば、長野市安茂里には、陸軍に負けじと、海軍が500人ばかりを動員して地下壕を掘っていたという。
また京都は京都で東山区に府庁の地下移転と天皇退避所を造る計画を極秘に進めていたことが、9年前に明るみにされたけれど、これと”マツシロ”との関係はどうなっていたのか。理解に苦しむような、まさに戦争末期の混乱が象徴されるような話が余りにも多く、それはそのもも戦後処理まで続いていく。
話が横道にそれたが、強制連行組は出来るだけ早く帰す方針で、特別残留を希望する者を除き、ほとんどが敗戦の年の11月ごろから翌年2月頃までの間に帰国した。
”マツシロ”帰国問題に関しては、この敗戦直後のものと、1955年(昭和30年)代から60年代にかけてのものと二波があった。
というのは、自主渡航組を中心として、象山のイ地区飯場に相当数が、家族を伴なったりして終結(ママ)、残留していて、それが日朝協会や日本赤十字などによる帰国運動は高揚するにつれ、帰国に踏み切る者が多数出てきたためである。イ地区つまり清野の飯場には、数十戸、百人ぐらいは残っていた模様である。
残留者の生活は困窮を極めていた。
以下は、評論家の寺尾五郎氏と、元帰国協力会長野県支部事務局長小林杜人氏(故人)が清野の飯場に入っての聞き取り記事である。1959年(昭和34年)5月25日付「在日朝鮮人帰国協力会ニュース」
「やがて終戦となった。朝鮮に帰った者、他処かへ流れていった者、そしてどこへ行くすべもなかった者がそのままここに住みついた。しかし、田畑も、仕事もなかった。やむなくドブロク作りをやって何回か手入れもされた。今残るのは19戸82名。全く絶望的な生活をしている。その住居はバラックとさえ呼べるものではない。瓦はおろか、トタン屋根さえない。戸もない。壁もない。木と紙だけの小屋だ。この一帯は、千曲川の遊水地域みたいな低地である。小雨が降ってドロンコ。ちょっと降り続けば腰まで出水。とても人間の住むところではない。
9戸、54名が生活保護を受けている。何の仕事にもありつけないので今年の春、5月の節句のカシワ餅を包む葉、それを採りに行った。1貫目で25円だが、それを総出でとった。ところがそれだけ収入があるとみなされて、生活保護を打ち切られたり、減額されたりしてしまった。『一体、われわれは働いた方がよいのですか、働かない方がよいのですか』と訴える朴さんの眼ざしは悲痛だ。
こういう状態だから、ほとんど全員が帰国を希望している。」
ここには、戦時下の重労働からは解放されたが、ゆるやかな餓死に追いつめられている姿があった。したがって、残留してなんとか日本で生活を切りぬけようと思っていたものの、一刻も早く日本を脱出したいと願ったのは当然であった。
やがて、日朝協会や日本赤十字社などの事業により、”マツシロ”を離れることになる。
ところで、これらの人々が帰国した時期は、すでに祖国は朝鮮戦争によって分断されており、政治的な理由から、帰国先は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)であった。南から来たものが多かったのにかかわらずである。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
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青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・」は、文の省略を示します。
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