真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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朝鮮人徴用工 問題は解決済みか

2019年09月03日 | 国際・政治


 日韓関係悪化の発端は、2018年10月30日、戦時中に朝鮮人が徴用工として日本側に強制労働させられた問題について、韓国の最高裁(韓国大法院)が、新日鉄住金の上告を退け、訴えを起こしていた韓国人4人に対して、1人当たり1000万円、合計4千万円を支払う判決を下したことがきっかけだったように思います。

 この判決に対して、河野外務大臣は直後に「常識で考えられない判決」であるとして、「日韓関係に影響が生じる可能性」に言及しました。また、安倍総理は「今回の判決は国際法に照らしてありえない判断だ。日本政府としてき然と対応していく」と発言しています。こうした発言から、韓国が大打撃を受けると予想される日本の輸出規制が、判決に対する報復の意味を持つことは容易に察せられることだと思います。

 この徴用工問題も、いわゆる「従軍慰安婦問題」同様、日韓請求権協定に絡む問題です。日韓関係の悪化は、一般国民の望むことではないにもかかわらず、それぞれのメディアの政府寄り報道などに影響されて、しだいに両国一般国民に反韓や反日の感情が広がり深まっているのではないかと気がかりです。

 このような外国との対立で、いつも考えさせられるのは、やはり日本の歴史認識の問題です。日本では、かつて戦争を進めた政治家や官僚、軍人が、戦後政治にも大きな影響力を持ち続けました。それは、軍人恩給の復活や靖国神社の問題に象徴されると思います。軍人恩給については、GHQが「惨憺たる窮境をもたらした最大の責任者たる軍国主義者が…極めて特権的な取扱いを受けるが如き制度は廃止されなければならない」として、廃止させたものです。GHQの指摘は正しいと思います。その軍人恩給を、日本が主権を回復するとすぐに復活させたということは、戦後の日本の政治が、戦前・戦中の考え方を引き継いでいるあらわれだと思います。毎年多くの政治家がA級戦犯を祀った靖国神社に参拝するのも、戦前・戦中の考え方を引き継いでいるあらわれだと思います。
 A級戦犯は、東京裁判における連合国の判決によるものであり、戦争を進めた日本の政治家や官僚、軍人は、その判決の考え方を受け入れてはいなかったのだと思います。それは、戦後の外国との条約締結や戦後補償のあり方にもあらわれているのではないかと思います。
 
 日韓基本条約締結時、多くの戦争被害者に対する公式謝罪や国家補償の話はなかったのではないでしょうか。だから私は、経済協力を柱とする条約や日韓請求権協定で政治家同士が決着を図ったために、多くの問題が残されたままになったのではないかと思います。
 韓国の国民に対するきちんとした謝罪がなく、強制連行された徴用工や日本軍「慰安婦」などの被害者に対する配慮もなされなかったことが、今に続いているのではないかと思うのです。
 それは、当時の日本政府の責任や日本軍の責任を認めると、A級戦犯以外に、当時政府や軍の要職にあった人たち、さらには東京裁判で責任を問われることのなかった天皇にまで戦争責任が及ぶことから、公式謝罪や法的賠償を認めず、一貫して個人的謝罪や見舞金で解決しようという姿勢に徹してきた結果ではないかと思います。

 「海に消えた被爆徴用工 鎮魂の海峡」深川宗俊(明石書店)を読めば、朝鮮人徴用工の問題が、日韓請求権協定によって解決済みであると言えるような簡単な問題ではないことがよくわかります。戦時中、多くの朝鮮人徴用工が日本のあちこちにいたと思いますが、同書によると、三菱重工業広島機械製作所の朝鮮人徴用工は有無を言わせず日本に連行され、家族と引き裂かれ、過酷な労働を強いられ、差別され続けたうえに、被爆し、帰国する船の沈没によって、一人も故国の土を踏むことができなかったといいます。

 そうした過去を振り返ることなく、「常識で考えられない判決」であるとか「き然と対応していく」などと言っていては、関係の改善はのぞめないと思います。だから、「海に消えた被爆徴用工 鎮魂の海峡」深川宗俊(明石書店)から、いくつかの項目を抜粋しました。
 特に、日本の敗戦が伝えられると、日韓併合によって日本人であることを強制された朝鮮人である徴用工たちが、「マンセー、マンセー」と叫び、なかには「勝った勝った」と泣きじゃくるものもあったといいます。徴用工が味わった悔しさ、苦しさ、悲しさについて、いろいろ考えさせられます。
 著者の深川宗俊氏は、三菱重工業広島機械製作所で、朝鮮人徴用工の指導員として入社し、8月6日、徴用工ともに被爆しています。戦後は、徴用を解除され帰国したはずの、指導下にあった徴用工231人とその家族5人を含む246人が、帰り着かぬという問い合わせを受け、その足どりを追って、あちこち旅をくり返し、苦労されています。その著書から、特に徴用工の実態や思いにかかわる部分を抜粋しました。
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                    第一章 「原爆の日」からの旅立ち

                     2 「白紙」一枚の強制連行         

 戦時秘匿名「ヒロ八五〇一工場」
 1944年の五月から十月にわたって、当時開所まもない三菱重工業広島機械製作所(広島市観音新町)および広島造船所(江波町)に、約2800人の朝鮮人徴用工が送りこまれてきた。いずれも二十二歳の年齢徴用で、その出身地域は京畿道を中心に朝鮮南部全域にわたっていた。この年齢徴用は、二十二歳になると自動的に徴用が義務づけられたもので、徴兵と同じような強制力をもっおり、当時、召集令状「赤紙」にたいし、徴用令書は「白紙」と呼ばれ、恐れられていたものである。
 1942年6月、ミッドウェー沖海戦後、日本軍の敗色が濃くなっていく中で、軍部の武器、艦船等の生産督励がきびしくなっていったが、三菱重工新工場(広島機械・広島工業港第五区。広島造船所・同第四区)も、60万坪(198万平方メートル)にのぼる埋立地の完了が待てず、埋立作業と工場建設が並行して行わなければならなかった。44年3月15日、両工場は一部工場の操業開始によってやっと開所にこぎつけたが、広島機械は984名、広島造船は1100名という少ない従業員数だったので、これらの本工に加えて、徴用工、動員学徒、女子挺身隊、強制連行の朝鮮人徴用工の大量受受け入れが準備された。半年後の十月には両工場の従業員は合わせて、1万人を突破していたという記録は、その間の事情を物語る。
 45年4月1日、両工場にたいして、第二回目の行政査察の結果が示され、それまでの海軍艦船本部商船班所管の作業から特攻兵器と航空機の機械生産の作業へ転換せよ、という命令が下された。呉市広の第十一空廠から図面をもらい、ネ二十型ジェット戦闘機(小型肉弾用飛行機)エンジン、特殊潜航艇等の生産をせよという命令である。
 4月に入ってからは、機密保持のために全国の工場が「戦時秘匿名」を使用することになった。「ヒロ八五〇一工場・広島機械」「ヒロ八一〇一工場・広島造船」などがそれで、正門にあった社名表札などすべてが書きかえられた。徴用工等の郵便物も戦時秘匿名で届いていた。
 私が「ヒロ八五〇一工場」に入社したのは45年7月、「総務部訓育課半島応徴士指導員」として、朝鮮人徴用工の宿泊する三菱西寮に勤務した。

 強制連行された人びとの生活
 徴用令書による強制連行によって、1944年、広島機械は、第一次700人、(五月と推定)第二次700人(8月20日)を受け入れ、西寮に収容(一部東寮)。広島造船はほぼ同数を第一次7月、第二次10月、北寮に収容した。
 「不法建築でもなんでもかまわん、三年間もてばよい」(『広島造船二十年史』)というのが、工場建設を急いだ海軍の言い分であった。そのため、工場の西側、海際には埋立て中途で放棄したままの、サンド・パイプが大きな口をあけて横たわっているありさま。砂地に点在する掩蓋織式防空壕、トーチカ等、新工場というよりも、むしろ荒涼たる風景として目に映った。
 朝鮮から強制連行された青年たちは、中隊、小隊、班編成をとり、十畳12人の割りで木造簡易建築(兵舎型二階建)の寮に収容された。日課は、起床、点呼、一日の食券給付、朝食、小隊ごとの工場出勤である。
 寮から工場正門まで、南観音(広島機械の所在地)は10分、江波(広島造船の所在地)は30分かかった。一日の労働を終えて帰寮後は夕食、入浴、自由時間、消灯就寝といったものだが、二十二歳の若ものにとって、襲ってくる空腹感はおさえようがなかった。
 それに徴用工の半数近くが結婚しており、生後間もない子どもや妻や、母との間を引き裂かれて連行されたものも少なくなかった。なるほど部屋も畳もふとんも新品である。本国での生活とくらべれば、あるいは少しは良かったかも知れないが、そのことで彼らの心が、いささかでもいやされることはなかった。それぞれの胸にさまざまの思いを秘めながら、彼らは一年の契約期間の終了を念じつつ、もくもくともっこをかつぎ、材料を運搬した。

 徴用工の不満
 1945年7月下旬、私は赴任して間もないある日、受け持ちである第一中隊の各室班長を二階の一室に集めた。同世代同士で素直に話し合ってみたいと思ったからだ。量の部屋は一年ばかりですっかりあばらやにかわっていた。畳はすりきれたまま、ふとんは綿がごろごろしていてさんざんなありさま、向こうが透けて見えるドンゴロスの作業衣が釘に吊るされている。男くさいというより、汗と垢ですえた異臭であった。みんなパンツひとつといういでたち。私はステテコを股のつけねまでまくりあげてりんご箱に腰をかけた。目に見えて虱がとびまわる。とても一匹ずつとっておさまるという数ではないのだから、足にくいついたところでとりおさえるのだ。
 まず寮生活の身近のところから彼らの不満をたずねた。日本人とくらべて給料が安いこと、給食が少ないことはだれにも共通していた。休日、あるいは夜勤明けで町へ出ると、警官や憲兵につかまり、ふろ焚きや、廊下の拭き掃除などさんざんっぱら使われたあげく、日が暮れてやっと放免というケースも多くあった。
 給食といっても、どんぶり飯、そのうえ大豆等の雑穀がまざっている。米や麦のない日もあった。汁など、食堂におそく行くと、一片の具もなく、のぞきこむ人間の顔がそこに浮いている。これでは力を出せということ自体が無理な話で、ひもじくて眠れぬものは、夜更けてから残飯をあさった。
 広島機械、広島造船とも逃亡者が続出し、その穴うめのために、労務、訓育課等で、随時、人集めに朝鮮に出かけていた。私は西寮事務所で準世帯米穀通帳を預かり、物資の受・配給をしていた。広島機械の朝鮮人徴用工の通帳記載の数字は、当時1200人であったが、徴用工の実数は400人余に減少していた。一年たたぬ間に約三分の一以下になったわけである。


                      3 原爆が落とされた日
 1945年8月6日
 8月6日朝、前夜日曜当直をした私は、いつになく早く目をさました。午前六時の点呼をすませ、午前七時出勤の徴用工たちと食堂で朝食をすませた。食事といっても大豆が半分以上。腹の調子の悪いときは、どんぶり茶碗にお茶をかける。そうすると大豆が底に沈むので、上の方の米をすくってたべられるのだ。それにしても、きびしい生活の知恵であった。
 じりじりと灼けつくような真夏の日射しが、砂地の照りかえしにまぶしい。徴用工の一隊を工場に送り出したあとの、ひっそりとした寮内外を一巡した私は、事務所に入った。少しして、指導員の盧聖玉(ノソンオク)君(二十五歳・日本名=吉川秀雄)が出勤してきた。彼は広島現地の徴用で、日本語も良くできることから中隊長(指導員)に任命されており、福島町から通勤していた。当直日誌を書き終えた私は、ふたことみこと彼と話し、自室のドアをひいた。その瞬間、眼の前にまっ赤な火柱が立ったような光の交錯、つづいて背後から轟然と爆風が襲ってきた。私は無意識のうちにうつぶせになっていた。ガラスの破片、天井板、壁の荒土と土埃の中で、死ぬかも知れない、いや生きられる、という意識が錯綜した。盧聖玉が私の名を叫んだ。
 いずれも一瞬のできごとであった。とにかく外に出た私は盧聖玉を呼んだが、どこにいったのか答えがない。後頭部のガラス傷にマーキュロで手当をした私は、ゲートルをつけ、防災頭巾をかむった。至近弾だとばかり思っていたが、いままで晴れていた空も地上の視界も、夕暮れのように薄暗く、異様な静けさが不気味でもあった。そのうち市内のあちらこちらから火煙が立ちはじめた。爆弾投下は三菱だけではなかった、と思いながら、寮内外をみてまわった。
 中庭に出してあったふとんがくすぶっていたのを靴で踏み消して、表門に戻ってくると、小隊長の金君がまっさおな顔をしてふるえている。右手首の静脈をガラスで切ったらしく、血が噴いていた。一応止血をして、須山指導員に他の負傷者ニ、三人といっしょに三菱構内病院へ連れて行くようにたのんだ。海軍の下士官が何かわからぬことを大きな声で口ばしりながら走っていった。私に何か言ったようでもあった。
 機械工場の正門に行って、工場内の被害状況を聞いたがよくわからないという。そのうち訓育課庶務から人がきて、「いま、市役所と軍隊に連絡して、炊き出しと救援を頼んでいるから大丈夫だ」といってきた。広島全市が、一瞬のうちに潰滅したことを知るすべもなかったが、やがてときがたつにつれて、たれ下がった皮膚をばたつかせながら、都心から三菱方面へ逃げてくる半裸の人びとの群れがつづくに及んで、被害がただごとでないことが、私にもわかってきた。午前十時過ぎであったろうか、大粒の黒い雨が降り、私の白いシャツに斑点をつけて通りすぎた。
「油をまいたぞーッ」だれかが叫んだ。
 その日の夜から、徴用工たちの多くは寮に帰らなかった。広島の町から逃げたもののほかは、構内の防空壕で寝た。私たちと食堂の残留者は、裏の畑に杭を打って蚊帳を吊った。街を焼く火勢は夜になるといっそう激しくなっているように見えた。その夜、市役所に勤めている妹、旭兵器に学徒動員に出ていた妹など、肉親のことが気がかりでよく眠れなかった。ときおり人を焼く臭いが風にのってきた。

                      4 朝鮮解放と「別れ」
 日本の敗戦と朝鮮の解放
 8月15日、何やら重大な放送があるということであったが、あまり関心はなかった。時がたつにつれて天皇の敗戦宣言であることがわかった。ポツダム宣言の受諾による無条件降伏は、カイロ宣言にいう「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し軈(ヤガ)て朝鮮を自由かつ独立のものたらしむる──」は、日本の朝鮮統治の終わりを告げ、朝鮮の解放と独立を意味した。
 いちばんよろこんだのは朝鮮人徴用工である。どこでどう聞いたのか、つぎつぎと寮に帰ってきた彼らは、寮の広場に円陣をつくり歌い踊った。数人の徴用工が寮の板塀をはぎとって火をつけた。血の気の多いS指導員が頭ごなしに注意したため、徴用工の一人が火のついた木ぎれでSをなぐった。怒ったS指導員は事務室にあった古い機銃を持ち出さそうとしたが、弾丸があろうはずがない。国際問題になるぞ…という徳光氏の注意でSも引きさがった。徴用工たちの「マンセー、マンセー」の喚声が、寮庭にこだました。夜になって広場の蜂火は、部屋にもちこまれた。空かんや茶碗をたたいていた。「勝った勝った」と泣きじゃくる孟鏞模(日本名=江原)の顔が、私の心をふかく刺した。
 祖国の解放と帰国のよろこびは堰を切って落としたようであった。徴用工の鬱積した感情が、一気にふきあげたのである。
 
 正午のポツダム宣言受諾の放送後開かれた広島県特高主任会議は、
「一、市民の動静につき署員一体となり協力すること。ニ、軍隊、在郷軍人、右翼、左翼、内鮮関係の動向を査察すること。三、朝鮮独立運動の警戒」など八項目の治安対策を決定するとともに、八月十六日の長官会議では、「極秘」として、「一、イ、軍需生産態勢ノ切替…民需、民生ノ安定、民心涵養、隠密裡切替/軍需ヲ民需ニ移ス…経路ヲ不明瞭ナラシメ置クコト」(『広島原爆戦災誌』・竹内喜三郎)などが話し合われた。この竹内メモは広島県の戦後処理、朝鮮人対策の一端を物語っている。
 三菱広島の両工場の学徒約3000人は、敗戦の日をもって学校復帰になった。両工場の朝鮮人徴用工約2800人は、逃亡などで当時約900人に減っていた。在籍数は八月二十五日をもって徴用解除となった後も日を追って減少していった。今後広島には75年間は住めない、という新聞報道は、彼らの離寮をいっそううながすことになった。
 三菱広島の両工場は徴用解除となった徴用工たちを本国に送り届ける責任を果たそうとはしなかった。あたかも自然にいなくなるのを期待しているかのようであった。九月はじめ、近く帰国のための人員輸送が開始されるという情報が入った。厚生省、内務省は広島県にたいして「釜山まではかならず事業主側から引率者がつきそってゆくべきこと」などを三菱に指示していた。

 出発の前夜
 広島の焦土に焼け跡のトタンや焼木を囲っては、バラックが建ち始はじめた。だが原爆症で死んでゆく人びとの絶えない日々、夜になると、陰火のような炎が二すじ、三すじと立ちのぼる。それはヒロシマの死者を焼く火なのだ。
 九月に入って、盧聖玉君の手で、やっと残留者の帰国のめどがついた。広島鉄道管理局から九月十五日広島駅乗車の指定がとれた徴用工たちは、朝鮮のふるさとへ向けて、九月二十日までには帰郷できると手紙にかいた。
 いよいよ広島を出発するという前日の夜、徴用工の幹部たちの別れの会が寮の一室でひらかれた。 日本人で招かれたのは私ひとりであった。南観音町の畑からもぎとってきたウリやナス、それに彼らがどこからか仕入れてきたドブロクのささやかな宴である。
  聞慶鳥峠の斧折れの木は
  せんたく棒で すっからかん
  使えるような男どもは
  徴用徴兵で
  すっからかん
 苦渋にみちた三十六年間の日韓「併合」の歴史。その中で朝鮮の若ものたちが背負わされた代価は、はかりしれないものがあった。どんぶり茶碗をたたきながら、朝鮮人小隊長のひとり金忠煥(日本名=金城)は、あふれてくる涙をじっとこらえているようであった。盧聖玉たちは、口ぐちにこんな日本にいてもだめだから朝鮮へくるようにと私にいってくれた。孟鏞模は「私のところはウナギがたくさんとれる。帰ったら手紙をするからぜひきてください」という。歌いながら、踊りながら、若ものの宴は夜ふけまでつづいた。
 
 朝鮮人徴用工との別れ
 あくる九月十五日の朝、はやばやと荷物をまとめた徴用工たちは寮の広場に集まってきた。荷物といっても身のまわりのものくらいである。いよいよ出発という時になって、本館訓育課の森本氏が南観音派出所の巡査を同行してきた。私物検査をするというのだ。私はこの焼け野原で持って帰ったところでたいした物はないし、せっかく持ちやすいように整理しているのだから、このまま出発させてやってほしいと頼んだが、森本氏らはそういうわけには行かぬという。五列横隊に並ばせて、上官の観閲さながらの検査がはじまった。これには徴用工、とくに小隊長グループが動揺した。このままではおさまらないと激しくつっかかっていった。そして私にも行動をうながすのだ。私は彼らの行動を止めることはしなかった。
 盧聖玉を引率責任者として、西寮からの最後の帰国グループ241人の徴用工の一団は、午前十時過ぎ廃墟の広島の街を徒歩で広島駅に向かった。広島駅で盧聖玉の家族五人が合流し、一行は246人になった。駅まで同行したのは三菱の下請けの仕事をしながら広島興生会(協和会)の幹部をしていた聖玉の実兄盧長寿(ノチャンス)(日本名=吉川武雄)と私だけであった。
 ・・・
 帰り着かぬという問い合わせ
 別れた日から二十日あまりたったころ、朝鮮の徴用工家族から、会社や寮にあてて九月十五日に広島を出発した一団が帰り着かないので、会社で調べてほしいという問い合わせが多く届くようになった。これにたいして三菱は、家族への連絡をとらなかった。
 ・・・


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