真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ゼレンスキー大統領とグアテマラの独裁者ポルヘ・ウビコ

2023年08月17日 | 国際・政治

 戦後の国際社会は、世界最大の軍事力と世界最大の経済力を誇るアメリカの対外政策や外交政策を抜きに語ることはできないと思います。
 そして、下記「グアテマラ現代史 苦悩するマヤの国」近藤敦子(彩流社)を読めば、アメリカの対外政策や外交政策が、どんなものであるのかがわかると思います。
 アメリカの対外政策や外交政策は、基本的に、法や道義・道徳の外にあるのです。
 だから、ウクライナ戦争も、そうしたアメリカの歴史を踏まえて捉える必要があると思います。

 でも、日本を含む西側諸国のメディアは、ウクライナ戦争をロシアの一方的侵略としています。そして、戦争前からロシアに制裁を課し、マイダン革命以来、ロシアの孤立化・弱体化を意図して、ウクライナ戦争を準備してきたアメリカの戦略を巧みに隠して、アメリカは単なる武器支援国家の一つであるかのように扱ってきたと思います。

 ウクライナのゼレンスキー大統領は先日(7月1日)、ロシアとの停戦について、”ウクライナ軍が本来のロシア国境まで達した時に外交交渉の前提が整う”と述べたといいます。”2014年にロシアが併合した南部クリミア半島や実効支配下に置いた東部ドンバス地域も含め、全土奪還””するまで、停戦はしないということだと思います。

 ウクライナ戦争の経緯を調べると、ゼレンスキー大統領のこの主張は、決して一貫したものではないことがわかります。だからこの主張は、ヨーロッパ諸国からロシアを切り離し、アメリカの覇権と利益を維持しようとするアメリカの戦略に基づく主張だと思います。アメリカに完全に取り込まれてしまったゼレンスキー大統領が、アメリカの戦略を語るようになったのだと思います。停戦によって、ヨーロッパ諸国とロシアの関係が復活し、ロシアの影響力が再びヨーロッパ諸国に及ぶようになれば、困るのはアメリカだからです。

 15日、NATOのストルテンベルグ事務総長の側近イェンセン氏は、ノルウェーでの討論会で、”ロシアの侵攻を受けるウクライナが占領された領土の一部を諦めれば、NATOに加盟できる可能性がある”と述べ、”領土放棄が唯一の選択肢ではないとした上で(終戦への)解決策としては考えられる”と主張したのですが、強い抗議を受けて、翌日には、”NATOに加盟できる可能性があるとした15日の自身の発言は「間違いだった」”と、撤回しています。
 「終戦」を考慮した主張であり、撤回などする必要のない主張だったと思います。
 でもその主張は、マイダン革命以後、ウクライナの政治に深くかかわるアメリカと一体となったゼレンスキー大統領の方針に反するものであったのだと思います。

 ウクライナの人たちは、アメリカが深くかかわっているために、停戦によって平和を回復させるか、領土を奪還するまで戦うか、の選択さえできない状況になっているのだと思います。

 だから私は、私利私欲のためにアメリカと手を結んだグアテマラの独裁者、ポルヘ・ウビコと、ウクライナのゼレンスキー大統領が重なって見えるのです。
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                 第一部 独裁から”束の間の春”へ

                    独裁者ポルヘ・ウビコ 

 1990年代に入り エルサルバドルとニカラグアでの内戦が終り、両国で選挙による民主政権が樹立され、中米の地に一応の平和が訪れた。しかし全人口の50%以上をマヤ先住民が占める グアテマラでは、おもてだった激しい戦乱こそなかったものの、常に陰湿な抗争が繰り返されていた。ひとびとはこの抗争を「ゲラ・ラテンテ」(表面には現れない戦争)と呼び、そこに見え隠れする軍の権力に恐怖を抱いていた。

 カウディジョ(偉大なる頭領)の時代
 1929年に起こった世界大恐慌は グアテマラ 経済にも深刻な打撃を与え、失業者があふれ労働者間に不穏な空気が漂いはじめた。コーヒー・オルガルキー(広大なコーヒー農園を所有する極めて少数の支配階級)をはじめとするグアテマラ有産階級は、こうした国際的な風潮とグアテマラの社会環境の衰退にいたく憂慮して、強力なカウディジョ的リーダーシップを持つ為政者の出現を期待した。そこに登場したのがポルヘ・ウビコである。ウビコは1931年の大統領選に当選し(といってもかれが唯一の候補者で、対立候補はいなかった)大統領に就任した。ウビコの在任期間(1931~1944)は、世界大恐慌に続く30年代の経済不況と、第二次世界大戦の時期に一致する。
 上流階級出身の職業軍人であったウビコは頑迷な保守主義者で、政治家としての見識に欠け、その世界観は狭隘で、その独裁ぶりはその後のグアテマラに大きな影響を与えた。
 1944年のアメリカの諜報関係リポートによれば、「ウビコは自分で決定した地価で土地を購入し、大統領就任後グアテマラにおける最大の個人土地所有者となった」。 グアテマラはかれの所有する「領土」であり、ウビコは正しくカウディジョの感覚で、グアテマラをあたかも「村長」が村を治めるように統治した。かれは己の給料や役得をふやすべく、その財源を官僚の給料の大幅削減に求めた。この独裁者の機嫌を損じたものは厳しく処罰された。あるアメリカのリポート(FBI 調書「グアテマラ警察と刑罰」19343年12月)は「今や秘密警察はグアテマラゲシュタポという 忌まわしい名称を得た」と述べている。スパイ網は縦横に張り巡らされ、あらゆ階級の社会に密告者がいた。その国の風土病ともいえる恐怖、嫌疑、パラノイア(偏執病)はウビコの時代にグアテマラ国民の心の奥に刻み付けられた深い傷跡である。
 大統領就任当初、統治者としてのウビコは有能で、財政の拡大に力を注いだ。そのため外国からの投資には精一杯便宜を図り、低廉な先住民労働力を最大限に利用した。一方、彼は残酷であった。反対するものに対しては見境なく弾圧を加え、治安妨害という名目で、ときには文民政治家、かれと意見を異にする軍人、学生、労働運動のリーダーなどを一度に100人以上処刑した。
 アメリカ一辺倒のウビコは、アメリカをメキシコに対する頼もしい盾と見做していた。ウビコやかれと同じ階級に属するグアテマラ人にとって、メキシコは19世紀にグアテマラの要求を退けて広大な地域を併合した憎き隣人であり、しかも共産主義を培養してその感染を企てているおぞましい大国であった。当時のメキシコ大統領ラサロ・アルデナスの進歩的政策はグアテマラ流解釈によれば、政府の転覆と国の破滅をもたらす危険この上ないものであった。しかも最も頼りとするアメリカ政府の対 共産主義政策は非常に寛大(少なくともウビコの目にはそう見えた)で、それだけがウビコには歯がゆかった。かれはルーズベルト大統領の共産主義や労働組合に対する悠揚迫らぬ態度に疑問を抱き、 アメリカの外交官にアメリカ国内における共産主義運動、多発するストライキに警告を発した。因みにウビコの尊敬する政治家はルーズベルト大統領ではなく、スペインのフランコであり、イタリアのムッソリーニであったが、独裁者は尊敬することによって、アメリカ政府の機嫌は損ねないようにする配慮だけは 怠らなかった。
 ともあれウビコはアメリカにとっては優等生で、アメリカの官僚、外交官、ビジネスマンには礼を尽くし、アメリカの投資家たちを優遇した。第二次世界大戦が勃発するとウビコはいち早く連合国側に味方し、真珠湾攻撃の翌日には日本に戦線を布告した。
 アメリカ政府の要請によりウビコはグアテマラのドイツ人コミュニティをも摘発した。当時グアテマラ在住のドイツ人は、推定 5000乃至6000人で、ほとんどはドイツ系グアテマラ人であった。かれらはかなりの経済力を持ち 政権を支持していた。ウビコもこれらのドイツ人になんら敵意は持っていなかった。しかし大戦の末期、ウビコ数百名のドイツ系グアテマラ人をFBIに委ね、アメリカへ連行させた。そしてドイツ人コミュニティ所有のコーヒー農場は没収された。

 ウビコ政権時代にグアテマラの政治は著しく中央集権化され、巨大な官僚組織が出現した。軍もまた大きな変化をとげた。まずエクスクエラ・ポリテクニカの軍事教育プログラムは刷新され、アメリカ軍の士官が校長に任命された。エクスクエラ・ポリテクニカは、士官養成のための権威ある軍事専門学校(士官学校)で、卒業すると尉官に任官する。ウビコがアメリカ士官を校長に任命した目的は、アメリカのウエスト・ポイントの軍事教育を踏襲し、ウエスト・ポイントに匹敵する士官学校をつくりあげ、若い優秀な青年を政治から引き離し、軍人として養成することにあった また、1941年には最新設備の武器の専門技術を習得するためのエクスクエラ・デ・アプリカシオン(軍事職業学校)が
設立されグアテマラ社会に軍人の優位を印象づけた。
 だが、一方では軍人としての高度の教育を受けた若い士官の軍団が、80名にものぼる無能な将軍(かれらのほとんどは出身階級も低く、教養もなかった) の配下に従属させられるという矛盾をはらみ、この若い士官たちの不満が鬱積し、やがて1944年のウビコ罷免のグアテマラ革命の一つの要因となった。

 1930年代、グアテマラでも中産階級が台頭しはじめ、とりわけ首都グアテマラ・シティでは国政の幅広い参加を要求した。ウビコは産業の発展を好まなかった。工場労働者からプロレタリアートが発生し、共産主義者が出現するというのがその理由である。
 しかしウビコは社会基盤の整備を重視し、幹線道路、橋梁など公共設備の建設には力を注いだ。道路建設には 先住民労働力を利用し、道路通行税の代償という昔の「慣例」を持ち出して労働者に賃金を支払わなかった。ウビコはまた公共の建物を建設した。ここでも昔の「慣例」は適用され、警官が定期的に貧民地区を巡回し、酔っ払いの労働者などを建築現場で働かせるために拉致して行くのである。そして賃金は支払われなかった。
 ウビコは古典的な経済政策を採用、金融を引き締め、思い切った財政削減措置をとった。公務員の給与は大幅にカットされ、ある年など約40%も削減された。それどころか緊縮財政のため、彼らの多くは解雇された。ウビコの時代、いわゆる「誠実法」が導入され、公職に就くものは就任時と退任時に自己の資産と負債を申告しなければならなかった。
 ウビコの吝嗇(リンショク)は特に有名で、グアテマラの経済状態を考慮すれば、公務員に対する賃金カットも当然であったが、ウブコは士官にも厚遇を与えなかった。士官たちは薄給で厳しい訓練に耐えなければならなかった 彼らの軍務といえばひとりの独裁者に仕え、その独裁者のために大衆に恐怖感を吹き込むことだった。 しかも彼ら自身も軍隊という狭い世界に閉じ込められた囚人で、恐怖の中に生きていた。外国への留学は禁止されていた。危険思想にかぶれないようにとのウビコの懸念からである。従って 軍人の多くは世界情勢に疎かった。軍の掟は厳しく、軍法に背くと時には死が待っていた。猜疑心の強いウビコは選りすぐりの士官のみをグアルディア・デ・オノール(名誉護衛隊)のメンバーに抜擢し、アメリカから供与をされた武器を与えて、大統領府の護衛に当たらせた。
 独裁者に対する忠誠心はたたきああげの将校にも要求された。かれらは中流以下のラディーノ(主としてスペイン系白人と先住民との混血)で、かれらにとって士官というのはこたえられない職業であり、また自己の出身階級から抜け出す数少ない機会でもあった。一方、エスクエラ・ポリテクニカ 出身の将校は中流階級の子弟であったが、かれらとて1930年代の経済危機がなければ大学へ行っていた筈である。何故ならば、当時の軍隊は将軍や大佐が過剰で、軍人としての昇進の可能性が少なかったからである。
 ウビコ時代のグアテルマ軍は軍隊としての装備は貧弱であったが、それでも中米のほかの国のぼろを纒った軍隊に比べると格段の差があった。警察も軍に呼応して厳しく治安を取り締まったので、グアテマラ国内は1944年ウビコ独裁政権が崩壊するまで平穏であった。また、ラテンアメリカのカウディジョの例に漏れずウビコも共産主義を嫌悪していた。彼にとって共産主義者はとりもなおさず犯罪者であり、その犯罪者を作り出す知識階級に我慢ならなかった。知識階級は読書する。したがって 危険思想の書籍即ち共産主義関係の本も読む。ウビコは危険思想の書籍が一冊たりともグアテマラに入ってこないようにした。
 かれは徐々に側近のアドバイスも聞き入れなくなり、政府の高官をも嫌うようになった。あるアメリカの官僚はすでに1923年にウビコのこうした傾向に気付いていた。私が一時間半ばかり将軍(ウビコ)と過ごしたが、その時かれがアングロサクソンのように率直であることに感銘を受けた。しかしウビコ将軍の大統領就任は独裁者の誕生となろう。かれは自分がナポレオンの生まれ変わりであると思っていた。事実、ウビコはその容貌がナポレオンに恐ろしくよく似ていた。かれの心理状態は彼の執務室に入るとはっきりとわかった。目立つ場所にナポレオンの胸像が置かれており、その上部にウビコ自身の大きな写真が飾られていた。」(インテリジェンス・リポート「ホルヘ・ウビコ将軍との会見」1923年12月17日)

 アメリカ企業の進出と権益拡大
 ウビコとアメリカとの蜜月関係はかれの独裁政権が終わるまで続いた。かれはアメリカのグアテマラ 進出企業に最大の特典を与え、柔軟な考え方のできない男としては模範的態度を示した。
 20世紀初頭、マヌエル・エストラダ・カブレラ政権(1898~1920)時代、アメリカのユナイテッド・フルーツ社(UFCO)はグアテマラでバナナの栽培を始め、数年のうちにバナナ産業を独占し、港湾、鉄道、通信網を整備しこれらを掌握した。UFCOはグアテマラの地の利の良さからここを中米進出の拠点に選び、広大なバナナ・プランテーションの建設を目指した。当時の為政者エストラダ・カブレラは、最初は前任者の国内産業発展の政策を踏襲していたが、先住民労働力と外国からの投資が不可欠と固く信じて、次第に買弁的になり情緒不安定な独裁者になった。先住民共同居住地を没収し、これをアメリカ企業に先住民の労働力付きで売却し、アメリカ企業は、こうした土地にバナナ・プランテーションを建設したのである。
 UFCOは、ウビコの大統領就任以前の1930年に、7年以内に太平洋岸に港湾を建設する約束と引き換えに、グアテマラ政府と太平洋岸ティキサテの20ヘクタールの土地を譲り受ける契約を締結した。グアテマラのコーヒー農場経営者にとってこれは大きなメリットであった。当時太平洋館で栽培されるコーヒーは、太西洋岸のプエルト・バリオスに運ばなければ輸出できず、その輸送費は莫大な額であったからである。
 しかし太平洋岸に港が建設されれば輸送コストは削減されるが、一方輸送を担当する中米国際鉄道 (IRCA)にとっては大きな損失となる。IRCAはUFCOの子会社で、当時すでにグアテマラ国内で鉄道路線ネットワークを張り巡らし、近隣諸国へも進出、1930年までには総路線距離は1400キロに達していた。そこでウビコを入れた話し合いの結果、1936年UFCOとIRCAニ社は、UFCOがIRCA株式保有高を42.68パーセントと大幅に増加し、IRCAはUFCOの輸送価格を50パーセント以下に下げることで合意に達し、UFCOの太平洋岸の港湾建設は取り止めとなった。その結果ティキサテ産のバナナもコーヒー豆同様プエルトバリオスまでIRCAで輸送 しなければならないこととなった IRCAは独裁者の裁定と忍耐のお陰で大きな利益を上げることができ、グアテマラ政府は1936年3月、経済危機を理由にUFCOに港湾。建設の義務を免除した。


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