真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日中戦争の秘密兵器=麻薬  NO2

2011年06月08日 | 国際・政治
 前回に続き「続・現代史資料(12)阿片問題」(みすず書房)「麻薬と戦争ー日中戦争の秘密兵器」(山内三郎)「第2章 ヘロイン戦争」から「ヘロイン 戦闘機に化ける」「アメリカのいやがらせ」と題された部分を抜粋する。「ヘロイン 戦闘機に化ける」では、日中戦争が、麻薬で得られた利益によって支えられていた事実が分かる。
 また、「アメリカのいやがらせ」は、アメリカ国際聯盟阿片会議委員であったF・T・メリールの論文の要約であり、この論文で、万国阿片会議や国際聯盟阿片会議の概略と、当時日本がそれらの会議の意向に沿わず、非難の的になっていたことが分かる。
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第2章 ヘロイン戦争

  ヘロイン 戦闘機に化ける

 日本人のヘロイン製造業者に対しての日本軍、とくに憲兵隊から渡された”安導権”は、彼等にとって全く何にも変えがたい宝であったといえるだろう。その保護がなければいかに支那・満州の官憲が弱腰であったからといって、あれほど安全な商売をやっていけるはずはなかった。
 ヘロイン商売で上がる利益を何らかの形で軍に還元することを考えた彼等は、直接現金を寄附するかわりに、さかんに飛行機を買ってこれを献納した。陸軍の戦闘機の献納者名簿にはヘロイン屋の名が数多く記されてあった。戦闘機1機が5万円という時代であったが、5万円の金は人間一生寝て暮らせるだけの金額でもあった。そんな大金を、ぽんと軍のために投げ出すのはヘロイン屋をおいてなかったし、彼等にはそうするだけの理由が充分あったのである。もとはといえば、陸軍が稼がせてくれた金であった。


 献納者は正装で献納式に参加した。彼等に整列する部隊の前で讃辞が送られ、表彰状を受けるのであった。そして、”われらこそ国策に沿って、軍のために、日本のために働くものである”という大義名分を得て、さらにヘロイン商売に熱を入れるのだった。

 軍人の中には、部隊将兵の慰安という名目で、直接ヘロイン屋のところへやって来て、寄附を申し付けるチャッカリ屋もいた。こうして狐と狸は手と手をとり合って支那大陸に魔手を伸ばしていったのである。


 [以下140字略す]
 日本人がヘロイン商売をする場合は、原料であるモルヒネ・バーゼを手に入れる製造人と、その製造人から規程の工賃をもらって、モヒ・バーゼにアセチルを加えて、薄桃色のジ・アセチル・モルヒネを作る”チル屋”と、さらに塩酸ヘロインを作る”結晶屋”、製造販売部である”大卸し”、そして”仲卸し”までを受け持つことになる。製品はそれから先、”小卸し”を経て”零売人”から消費者へと受けつがれるが、”小卸し”から先の販路はすべて朝鮮人の仕事となっていた。
 したがって”製造人”から”仲卸し”にいたるまでの日本人が担当するすべての部門に伴う「危険」は、日本の軍部によって面倒がみられたわけである。
 先ほど述べたように、私は大連の小崗子で、結晶づくりをやっていたが、私の場合、製品は主に奉天の”大卸し”に運搬した。
 ヘロインの白粉を運搬するには、支那官憲の目を逃れるために、まず大連市内の名のあるデパートから缶入りの「焼のり」を買って来て、これを運搬人たちの馴れた技術(実際それは特殊技術といってもよいほど巧妙であった)で中味をヘロインと入れ替え、奉天に搬入するのである

 だから、運搬人の家庭には「焼のり」が氾濫した。女や子供は「焼のり」ばかりを食わされるハメとなり、一流デパート製の高価な「焼のり」は最低のおかずになり下がってしまった。泣く子供に「焼のり」を食べさせるぞ!と脅かしたぐらいである。

 最後に”零売人”に納められたヘロインは、表面はタバコ屋の店構えをもった吸烟所や、一般家庭の吸烟者に売り捌かれた。それらはいうまでもなく、すべて中国人であった。”零売人”は消費者が粉といえば粉、注射といえば注射でその求めるものを与えてやるのであった。そして、”製造人”から”零売人”にいたるまでいずれの部分に手入れがあったとしても、手入れを食ったものは、誰からそれを手に入れたか、また、何処にそれをもっていくのかを絶対に口にすることはなかった。秘密を守ることが、ヘロイン関係業者に与えられた最大の掟であったからである。

 日本軍への、彼等(主に製造人)からの献納飛行機にしたところで、決して献納者がヘロインで儲けた金で飛行機を購入したなどということは、誰の口の端にものぼらなかったのであった。

夕日と拳銃と麻薬 ─ 略

匪賊の出没するところ…… ─ 略

「天下の国土を求む」 ─ 略

アメリカのいやがらせ
 <以下999字略す>
 さて、日本の軍部、とくに満州に本部をおく関東軍の支那大陸に対する軍政の側面に、麻薬売買人庇護政策があるということで、国民政
府は再三に渡って万国阿片会議だとか国際聯盟に提訴を続けていたが、ここでアメリカ国際聯盟阿片会議委員であったF・T・メリールの
論文要約を紹介しよう。
 メリール委員は、支那政府から渡された日本の阿片謀略に関する資料をもとに、以下の論文を作成したものである。

 『アヘン問題は最初米国の提唱によって1909年(明治42年)日米支独その他列国委員を上海に招集し、アヘン煙吸烟禍に関する事項討議の目的をもって開かれた。
 ついで1911年、各委員をヘーグに招集して会議を開き1912年の国際アヘン条約の締結を見た。だが、各国の批准を得るに至らず、条約は空文に等しかった。その後1913年─1914年と再度ヘーグで会議をもち、条約の実施時期を1914年12月31日と定めた。だがこれも、米国、支那、両国以外の国の批准が得られないまま欧州第1次大戦の勃発となり中断となった。

 
 1919年(大正8年)大戦の平和条約の締結せらるるや、右条約中にアヘン煙禁禍に関する条約の挿入が(共同提唱)され、第290条第1項前段においてアヘン条約に関する事項を規定し、締結国は本条約実施後12ヶ月以内に右の条約実施に、必要なる国内法を制定すべきことを規約した。(中略)

 支那人の大多数はアヘン喫煙に強い執着力を有しているが、その責任は英国にある。
 英国は19世紀の中葉を通じて通商帝国主義の野望から支那のアヘン奨励を保護した。それによって過去50年というもの、支那は、自国用に多量のアヘンを栽培し、保護して来た上に、トルコ、インド、およびイラン諸国からこれを輸入した。
 支那の下層民は、生活程度がすこぶる低く、かつ非常な圧制に苦しめられている。そこでアヘンに慰めを求めることになり、やがては習癖となって悲しむべき状態に至っている。かれらは無教育で、出世の望みも明日の生活の保証もなく、西欧人が当然と考える娯楽でも、支那民衆の99パーセントまではこれを享有することができない。

 支那人は祖先崇拝の民で、子孫を残すということを非常に大事に思っている。そうしてアヘンは媚薬であると考えて、これを多量に用いると子孫を増加し得ると考える迷信も手伝って、これに親しみ、支那人のアヘン喫煙者はいまや1500万から5000万人の間にあるといわれている
 この数から推論すると1人が1カ年に約400匁のアヘンを必要とすることになる。1906年ごろには、全支那のアヘン愛好者は、全国民の3割から4割といわれ、アヘン供給の少ない場所では、もっぱらモルヒネ、ヘロインによってまかなわれていた。(中略)
 1936年5月25日から6月5日までの間に開かれた第21回国際聯盟阿片委員会では、支那委員の提出した諸報告の検討が行なわれた。それによると、支那における1935年中のアヘン禁止法の違反者で、死刑に処せられたものは964人、没収されたアヘン36977ポンド、モルヒネ439オンス、ヘロイン1760オンスであった。(中略)


 日本は国内に強力な警察を有し、内地にはアヘンの脅威なるものは全然存在しない。日本が支那と満州における、アヘン密売抑圧に進展を示さないのは信じられない。支那人は、日本人が支那民族を堕落せしむる目的でアヘン麻薬の密売を助成すると非難するが、国際聯盟のアヘン委員会は、日本の努力のいかんでは、満州国および北支のアヘン麻薬抑圧も不可能ではあるまいと信じている。
 1936年6月アヘン委員会の第21回会議で、同会は日本にアヘンとアヘン剤のの製造売買禁止と、これに対する刑罰の重課を勧告した。支那の利益保護と東亜における文化の指導者たる立場から、日本が真剣になって北支と満州におけるアヘンの根絶に努力せんことを切望してやまない」


第3章 麻薬亡国時代 ─ 略
第4章 戦後の麻薬 ─ 略

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