真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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天皇の戦争責任と15回の御前会議

2010年08月25日 | 国際・政治
 「御前会議」は、戦争にかかわる重要な国策を決定した会議であったが、大日本帝国憲法には天皇の統帥大権が国務から独立した大権であるという規定はなかった。しかしながら、憲法制定以前に発せられた「陸海軍人に賜りたる勅諭」(軍人勅諭)では、天皇の統帥権が例外的に国務大臣の輔弼責任外にあるとされていたため、最重要な国策が、大部分の国務大臣の参画なしに決定されていくこととなったのである。そして、閣議は御前会の議決定事項を追認するだけの機関になっていった。それだけに、天皇の戦争責任は重いといわざるを得ない。
 上段は「昭和天皇の十五年戦争」藤原彰(青木書店)から、下段は「御前会議ー昭和天皇15回の聖断」大江志乃夫(中央公論社)からの抜粋である。
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                 V 太平洋戦争と天皇

1 連絡会議と御前会議

 日中戦争が全面化した1937年11月20日、宮中に大本営が設置されて以来、重要な国策の決定は大本営政府連絡会議で行われてきた。この連絡会議は、第1次近衛内閣のときの1938年1月15日に、中国との交渉打ち切りという重大決定をし、翌日の「国民政府を対手とせず」という声明によって戦争長期化の大原因をつくった。また第2次近衛内閣成立直後の1940年7月27日には、「世界情勢
の推移に伴う時局処理要綱」という、武力行使を伴う南進政策を決定し、対米英戦争の遠因をつくった。


 不定期に、重要問題のあったときにだけ開かれていた連絡会議にかわって、第2次近衛内閣の時の1940年11月28日からは、定期的に(週1回、問題があれば毎日でも)連絡懇談会が開かれることになった。この連絡懇談会は、1941年7月12日まで、39回にわたって開かれているが、第3次近衛内閣が成立した後の7月21日からは場所を宮中に移して連絡会議の名に戻っている。そして小磯国昭内閣が成立した直後の1944年8月5日、名称を最高戦争指導会議と変更しているが内容にはほとんど変化はなかった。連絡会議(連絡懇談会)の構成メンバーは時によって変動があるが、基本的な構成員は内閣総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長、軍令部総長であった。閑院宮、伏見宮が両統帥部長だったときは、参謀次長、軍令部次長が出席した。それに必要に応じて企画院総裁や大蔵大臣などの閣僚、陸軍省、海軍省のそれぞれの軍務局長、参謀本部、軍令部の作戦部長、内閣書記官などが加わる場合もあった。

 連絡会議(連絡懇談会)は閣議ではない。連絡会議の構成員でない大部分の国務大臣には、会議の内容は知らされなかった。「連絡懇談会設置の趣意」という文章には、「本会議に於テ決定セル事項ハ閣議決定以上ノ効力ヲ有シ戦争指導上帝国ノ国策トシテ強力ニ施策セラルヘキモノトス」(『杉山メモ……大本営政府連絡会議』上)として、閣議以上の権限をもつものとされていた。

 この大本営政府連絡会議を、天皇の「御前」で開くのが御前会議であり、最高国策を決定するもっとも権威あるものとされたのである。ほかに大本営だけの会議に天皇が出席するのを大本営御前会議といって、1937年11月24日に第1回が開かれたが、これは天皇への戦況説明であった。38年2月16日の大本営御前会議では戦面不拡大の方針が決定された。
 御前会議と名づけられた会議は、大本営設置以後対米開戦まで、次のように開催された。


 第1回 1938年1月11日「支那事変処理根本方針」(国民政府が和を求めてこ
      ないときは、これを対手にせず、新政権を樹立するという方針)を決定
 第2回 1938年6月15日 武漢、広東作戦実施を決定(『戦史叢書・支那事変
      陸軍作戦(2)』で御前会議と書かれているが、内容からみると大本営御
      前会議であったかもしれない)
 第3回 1938年11月30日「日支新関係調整方針」(東亜新秩序の建設のため
      日満支の提携と、華北と揚子江下流域の特殊地帯化方針)の決定
 第4回 1940年11月13日 汪政権との間の「日華基本条約」締結の決定
 第5回 1941年7月2日「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」(北方問題の武力解
      決を準備するとともに、南方進出のための対米英戦を辞せず)の決定
 第6回 1941年9月6日「帝国国策遂行要領(10月下旬を目途として対米英蘭
      戦争準備を完成)の決定
 第7回 1941年11月5日「帝国国策遂行要領」(対米交渉を甲乙両案で行うとと
      もに、12月初旬武力発動を決意)の決定
 第8回 1941年12月1日「対米英蘭開戦の件」の決定


 対米開戦決定にいたるまでの重要決定をしたのは、第5回から第8回までであるが、第2次近衛内閣のときの7月2日の御前会議は「対米英戦を辞せず」として南進の続行をきめたものの、まだ開戦を決定したのではない。告いで第3次近衛内閣になってからの9月6日の御前会議は、10月下旬を目標とする戦争準備の完成を決めると同時に、対米交渉において「10月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ直チニ対米(英・蘭)開戦ヲ決意ス」という、開戦決意に期限をつけたきわめて重要な決定を行った。この決定があったので、10月上旬になってなお交渉をつづけようとする近衛首相と、「目途」がないから直ちに開戦を決意すべきだとする東条英機陸相が対立し、10月16日の近衛内閣総辞職、10月18日の東条内閣成立となるのである。

 東条内閣は、一応は国策の再検討をするが、11月5日の御前会議では、すでに12月初旬という開戦の時期を決め、日本の要求案を甲、乙の両案にまとめ、これが容れられないときは既成方針どおり戦争に突入するという決定であり、12月1日には、11月5日の決定にもとづき、対米開戦を最終的に決めたのである。

 ただこれらの御前会議の議事の次第はあらかじめ準備されていた。そこで決定される国策は、事前の連絡会議で成文化され合意されていた。そして御前会議の前に、成文化された国策は、首相および両総長によって内奏され、天皇はそれにかんして詳細に「御下問」を行い、納得がいくまで「奉答」を求めた。その経緯は、『杉山メモ』をはじめとして、『木戸幸一日記』や近衛の手記『平和への努力』が明らかにしているところである。
 
 連絡会議も御前会議も、大日本帝国憲法には何の関係もない機関である。憲法には天皇の統帥大権が国務から独立した大権であるという規定はない。ただ慣行として統帥権が独立の大権であるとされ、統帥権の範囲が次第に拡大した。そして大本営政府連絡会議では、大元帥である天皇の』帷幄の補佐機関としての大本営側が国務の補佐機関である内閣と対等、あるいはそれ以上の権限をもち、最重要な国策を決定していったのである。正規の国務の責任機関である国務大臣の大部分は、戦争国策の決定過程になんら参画させられなかった。戦争は連絡会議を経て御前会議が決定したものであり、閣議はこの結果を追認させられただけである。閣議が開戦を決定したのであって、天皇は責任機関としての閣議決定を却下することができなかったのだというのは、戦後になって作り出された神話である。
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 上記の第8回御前会議以後も御前会議は開かれた。「御前会議ー昭和天皇15回の聖断」大江志乃夫(中央公論社)によると、「ポツダム宣言受諾」を決定した御前会議までを合わせると15回の御前会議開かれたという。しかし、その内容は上記とやや異なっている。
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              Ⅳ 昭和天皇の最高戦争指導

 15回の御前会議


 ・・・

第1回  38・ 1・11 支那事変処理根本方針    第1次近衛内閣 
第2回  38・11・30 日支新関係調整方針     第1次近衛内閣
第3回  40・ 9・19 日独伊三国同盟条約     第2次近衛内閣
第4回  40・11・13 支那事変処理要綱に関する件ほか 第2次近衛内閣
第5回  41・ 7・ 2 情勢の推移に伴う帝国国策要綱   第2次近衛内閣
第6回  41・ 9・ 6 帝国国策遂行要領           第3次近衛内閣
第7回  41・11・ 5 帝国国策遂行要領           東条内閣
第8回  41・12・ 1 対米英蘭開戦の件           東条内閣
第9回  42・12・21 大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針 東条内閣
第10回  43・ 5・31 大東亜政略指導大綱         東条内閣
第11回  43・ 9・30 今後採るべき戦争指導の大綱ほか 東条内閣
第1回御前最高戦争指導会議 
     44・ 8・19 今後採るべき戦争指導の大綱ほか  小磯内閣
同第2回 45 ・6・ 8 今後採るべき戦争指導の大綱ほか 鈴木内閣
同第3回 45・ 8・ 9 国体護持を条件にポツダム宣言受諾 鈴木内閣
同第4回 45・ 8・14 ポツダム宣言受諾           鈴木内閣

 御前会議という名称でひらかれた会議が合計11回、大本営政府連絡会議が最高戦争指導会議と名をあらためたのち、「御前における最高戦争指導会議」の名称でひらかれた御前会議が4回、つごう15回の御前会議がひらかれている。


 ・・・

 憲法の明文のうえでは軍隊の統帥権もこの制度の例外ではなかったが、憲法制定以前に発せられた「陸海軍人に賜りたる勅諭」(軍人勅諭)に天皇の絶対意思の表明として、天皇みずから大元帥として軍隊を直接統率し、臣下には委任しないという原則が宣言されていたので、統帥権は例外的に国務大臣の輔弼責任外にあるとされ、大元帥の幕僚長である参謀総長(陸軍)、軍令部総長(1933年以前は海軍軍令部長)がそれぞれに統帥を輔翼する制度になっていた。
 参謀総長や軍令部総長は補弼責任のある地位ではなく、したがって決定権も決定の執行権もなく、大元帥の軍事的助言者つまりあくまでスタッフであり、この点が閣議決定権をもち、行政上の執行権をもち、憲法上の責任を負うラインに属する国務大臣とはちがっていた

 ・・・(以下略)


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