先日、最高裁大法廷が、 ”夫婦別々の姓(名字)での婚姻は認められない、夫婦同姓を定めた民法などの規定は、憲法24条の「婚姻の自由」に違反しない”との判断を示しました。裁判官15人のうち11人が、夫婦同姓を定めた民法を「合憲」とし、4人が「違憲」としたとのことです。日本の裁判官の多くも、自民党政権中枢と同じように、個人の尊厳を基本原理とする国際社会の民主主義の歩みと逆方向を向いているのを感じました。
どう考えても、夫婦同姓を義務づけることは、「法の下の平等」を保障する憲法14条や「婚姻の自由」を定めた24条に反するばかりではなく、国際連合憲章などに基づき、あらゆる男女差別を禁じた国際条約、「女子差別撤廃条約」や「国際人権規約」にも反すると、私は思います。
「女子差別撤廃条約」第4部第16条の(g)には、守るべき権利の一つとして、”夫及び妻の同一の個人的権利(姓及び職業を選択する権利を含む。)”とあります。それらが法的に認められていないので、国連女性差別撤廃委員会は、日本政府に対し、選択的夫婦別姓を認めるように勧告しているのだと思います。夫婦同姓を義務づけている国が、他にないことも見逃せません。
また、国際人権規約の第一条【人民の自決の権利】に”すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、 その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する。”とあります。だから、自らの「姓」を決定することは、自決権の行使だと、私は思います。
でも、日本ではいまだに、結婚したら女性が姓を変えることが当たり前であり、性別による役割分担意識が強く、”夫は外で働き,妻は家庭を守るべきである”という考え方に基づくさまざまな制約が、女性に多くあると思います。だから、女性の社会的地位や、政治的・公的分野における参画率も低く、「経済」「政治」「教育」「健康」の4つの分野のデータから作成された世界経済フォーラムのジェンダーギャップ指数でも、日本は156か国中120位という結果だったのだと思います。
また、しばしば、「人権後進国」ともいわれたりします。
でも、なぜ大日本帝国憲法を一新し、他国の憲法に比べて人権規定が多いといわれる「日本国憲法」のもと、著しい経済成長を遂げた戦後の日本が、いまだに、そういう状態にあるのでしょうか。
私は、それを知る手掛かりの一端が、「神道政治連盟」の「綱領」にあると思います。『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、神道政治連盟設立時(1969年)の綱領は、以下の5項目だといいます。
1、神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す。
2、神意を奉じて経済繁栄、社会公共福祉の発展をはかり、安国の建設を期す。
3、日本国固有の文化伝統を護持し、海外文化との交流を盛んにし、雄渾なる日本文化の創造発展に
つとめ、もつて健全なる国民教育の確立を期す。
4、世界列国との友好親善を深めると共に、時代の幣風を一洗し、自主独立の民族意識の昂揚を期す。
5、建国の精神を以て、無秩序なる社会的混乱の克服を期す。
そして、安倍前総理が会長を務める「神道政治連盟国会議員懇談会」には、圧倒的多数の自民党国会議員や閣僚が所属しているのです。
上記のような綱領をもって、選択的夫婦別姓制度の導入に反対しつつ、日本を戦前の「神話的国体観」に基づく国に戻そうと、大勢の人々が日々活動しているのですから、ジェンダーギャップ指数の低迷も不思議ではないと、私は思います。
自民党の「日本国憲法改正草案 Q&A」の「5 国民の権利及び義務」に、下記のようにあります。”権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。”
この内容は、神道政治連盟の綱領をやさしく言い換えたようなものだと、私は思います。
そしてそれは、1945年8月、ポツダム宣言受諾を拒否することによって、日本の降伏を阻止しようと軍事クーデターを企図した陸軍省軍務局軍事課の若い将校達(稲葉中佐、井田中佐、竹下中佐、椎崎中佐、畑中少佐等)が堅く信じていた「神話的国体観」の延長線上にあると、私は思います。当時、「教育勅語」や「軍人勅諭」の教えを深く学んだ若い将校達には、「国体護持」のために、ポツダム宣言受諾派の要人を殺害することも、戦地で日本兵が亡くなることも、原爆や空襲で一般国民が亡くなることも、やむを得ないことだったのだと思います。井田中佐、竹下中佐、畑中少佐は、皇国史観の教祖と言われた平泉澄の直門であったと聞いています。
下記にあるような、”仮令(タトヘ)逆臣トナリテモ、永遠ノ国体護持ノ為、断乎明日午前、之ヲ(軍事クーデター)決行セムコトヲ…”というような考え方は、骨の髄まで「神話的国体観」が沁み込んでいた証しだと、私は思います。
私は、そうした「神話的国体観」が、いまだに日本で隠然と生き続けており、当時の若い将校を含む戦争指導層の思い受け継いでいる自民党政権中枢の政治家や、自民党政権中枢で活動したい政治家は、そうした「神話的国体観」を切り捨てることができないのだろうと思います。したがって、自民党政権中枢に関わる政治家にとっては、GHQの指導によって生まれた戦後の民主主義の日本が、受け入れ難いということであり、選択的夫婦別姓導入の問題も、単なる法律論ではなく、「神話的国体観」に基づく「家族国家」存亡の問題なのだと思います。
神政連のホームページには、「神政連が目指す国づくり」の一つとして、”日本を守るために尊い命を捧げられた、靖國神社に祀られる英霊に対する国家儀礼の確立をめざします。”とあります。将来的には、GHQの神道指令を覆し、東京裁判で裁かれた戦犯の、名誉の回復を目指しているのだろうと思います。
下記は、「大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌 下」軍事史学会編(錦正社)のなかの、8月13日から15日の部分を抜萃したものですが、阿南陸相の自決の様は、「神話的国体観」がどのようなものであるか、ということをよく示していると、私は思います。(一部数字を漢数字や算用数字に変更しています)
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機密作戦日誌 (自 昭和二十年八月九日 至 昭和二十年八月十五日)
軍務課内政班班長 竹下正彦中佐
八月十三日 火[月]曜
一、朝、菅波三郎氏ト共ニ、大臣ヲ官邸ニ訪問。特ニ大臣ハ内大臣邸ニ行キ不在ナリ。帰来ヲ待チ、最高戦争指導会議出 席前小時ヲ、自動車側ニテ立話シス。三笠宮殿下、木戸[幸一]、共ニ動カズ。三笠宮殿下ハ、大臣ニ対シテモ、相当強ク云ハレシ模様ナリ。サレド大臣ハ、コノ憂愁ニ拘ラズ、予ヲ見ルヤイツモノ微笑ヲ以テ迎ヘ、予ヲ麾(サシマネ)キテ簡単ニ立話セラレタリ。
二、吾等少壮組ハ、情勢ノ悪化ヲ痛感シ、地下防空壕ニ参集、真剣ニクーデターヲ計画ス。竹下、椎崎、畑中、田島、稲葉、南[清志]、水原[治雄]、中山安[安正]、中山平[平八郎]、島貫[重節]、浦[茂]、国武[輝人]、原等、二、三課、軍務課ノ面々ナリ。竹下ヨリ大綱ヲ示シ、手分ケシテ細部計画ヲ進メ、更ニ秘密ノ厳守ヲ要求ス。
今ヤ吾人ハ、御聖断ト国体護持ノ関係ニ附、深刻ナル問題ニ逢着セリ。計画ニ於テハ要人ヲ保護シ、オ上ヲ擁シ聖慮ノ変更ヲ待ツモノニシテ、此ノ間国政ハ戒厳ニ依リテ運営セムトス。
三、此ノ日、吉本重章大佐、軍務課長ニ補セラレ著[着]任。恰モ前課長永井[八津次]少将モ本日帰京。急ニ頭ガ揃ヒタリ。吉本大佐ハ詔書必謹、山田成利大佐ハ態度明瞭ナラザリシモ、課長著[着]任スルヤ詔書必謹トナル。
四、夕方米紙ニューヨークタイムス及ヘラルドトリビューン両紙ノ、日本皇室ニ関スル論説放送アリ。皇室ハ廃止セラレルベシトノ露骨ナルモノナリシヲ以テ、大イニ喜ビ急遽印刷ノ上、閣議席上ノ大臣ニ届ケタレドモ──山田大佐持参──迫水、閣議中配布セザリシ由ナリ。
五、三笠宮殿下、吉本課長ト山田大佐ヲ呼ビ、例ノ調子ニテ陸軍ヲ責メ、特ニ陸軍大臣ノ態度ハ聖旨ニ反シ不適当ナリト云ハレシ様ナリ。
課長ハ陸軍ノ自粛等諒承セルモ、陸軍ノ主張ハ真ニ国体ヲ思フ切々ノ至情ニ出ヅル点、御諒承願ヒ度旨申上ゲテ帰ル。
六、夜、竹下ハ稲葉、荒尾大佐ト共ニ、「クーデター」ニ関シ、大臣ニ説明セント企図シアリシ所、20:00頃閣議ヨリ帰邸セル大臣ヨリ招致セラレ、椎崎、井田ト共ニ、仮令(タトヘ)逆臣トナリテモ、永遠ノ国体護持ノ為、断乎明日午前(始メノ計画ハ今夜十二時ナリシモ、大臣ノ帰邸遅キ為不可能トナル)、之ヲ決行セムコトヲ具申スル所アリ。大臣ハ容易ニ同ズル色ナカリシモ、「西郷南州ノ心境ガヨク分ル」、「自分ノ命ハ君等ニ差シ上ゲル」等ノ言アリ。時々瞑目之ヲ久シウセラル。十時半頃散会トシ、一時間熟考ノ上、夜十二時登庁、荒尾大佐ニ決心ヲ示シ、所要ノ指示ヲセラレ度旨述ベ、三々五々帰ヘル。
予ハ最后ニ残リ、大臣一人ノ時、賛否ヲ尋ネシニ、人ガ多キ故アノ場デハ言フヲ憚リタリト答ヘ、暗ニ同意ナルヲ示サル。尚、皆帰ヘル時、今日頃ハ君等ニ手ガ廻リ、逮捕セラレルヤモ知レザルヲ以テ、用心シ給ヘ、トノ注意アリキ。他ヨリ入手セル情報ニ基クモノノ如シ。
七、皆、役所ニ帰ヘリ、夫ヨリ更ニ計画ヲ練ル。予ハ特ニ左ヲ提案シ、全員ノ一致賛同ヲ得タリ。
明朝ノコトハ、天下ノ大事ニシテ、且、国軍一致蹶起ヲ必須トス。苟モ友軍相撃ニ陥ラザルコトニ就テハ、特ニ戒ムルノ要アリ。依テ明朝、大臣、総長先ヅ協議シ、意見ノ一致ヲ見タル上、七時ヨリ東部軍管区司令官、近衛師団長ヲ招致シ、其ノ意向ヲ正シ、四者完全ナル意見ノ一致ヲ見タル上立ツベク、若シ一人ニテモ不同意ナレバ、潔ク決行ヲ中止スルコト。
決行ノ時刻ハ十時トスルコト。
等ナリ。
近衛師団長ノ進退イ就テハ、昨日ヨリ問題トナリアリ。軍事課島貫中佐ハ、彼レハ大命ニ非ル限リ、仮令大臣ノ命ナリトモ、絶対ニ立ツコトナシ。二、三日マエ、訪問シテソノ心境ヲ知リアリト述ベ、若シ然ル場合ノ措置トシテ、師団長ヲ大臣室ニ招致シ、聴カザレバ監禁セントスルモノ、大臣ガ呼ンデモ来ルコトナカルベシ、然ル場合ハ師団ニ行キ師団長ヲ斬リテ、水谷[一生]参謀長ニヨリテ事ヲ行ハムトスベシトノコトトナル。
八月十四日 水[火]曜
一、七時、大臣、総長前後シテ登庁、大臣ハ荒尾大佐ト共ニ総長室ニ至リ、決行同意ヲ求ム。然ルニ総長ハ、先ヅ宮城内ニ兵ヲ動カスコトヲ難ジ(計画ハ本日十時ヨリノ御前会議ノ際、隣室迄押シカケ、オ上ヲ侍従武官ヲシテ御居間ニ案内セシメ、他ヲ監禁セントスルノ案ナリ)、次デ全面的ニ同意ヲ表セズ。茲ニ於テ計画崩レ万事去ル。
二、大臣ハ自室ニ帰レバ、東部軍[管区]司令官田中[静壱]大将、参謀長高島[辰彦]少将アリテ待ツ。大臣ハ一般的ニ治安警備ヲ厳ニスベキ旨指示サレタルニ対シ、参謀長ヨリ降服受諾ノ結果トナラザルコトニ関シ、縷々具申シ、継戦トナレバ治安ヲ維持スルコト可能ナルモ、降服トナリテハ請ケ合ヒ兼ヌル旨述ベ、且、仮令御聖断アルモ詔書ニ副書セザレバ、効力発生セズトノ意見等述ベ、又治安出兵ノ為ニハ、筆記命令ヲ貰ヒ度旨述ベタリ。
三、一方、此ノ日、畑[俊六]元帥広島ヨリ到着、次官之ヲ迎ヘ、此ノ頃陸軍省ニ出頭セラル。白石[通教]参謀随行。原子爆弾ノ威力大シタアコトニ非ラザル旨語ルヲ以テ、元帥会議ノ際、是非其ノ旨、上聞ニ達セラレ度頼ム。
四、茲ニ一ヶノ挿話アリ。即、大臣、総長室ヲ出、自室ニ帰ヘリ、東部軍管区司令官ト面会終リシ頃、井田中佐、大臣室ニ来リ、総長が[ガ]先程上奏ニ出ラレシモ、二課、総務課ニ訊(トヒタダ)スモ、上奏案件ナク、今ノ大臣ノ計画ヲ暴露ニ行カレシニアラズヤ、且、総長ハ昨日鈴木、東郷、迫水ト会シアリ、本日ノ御前会議ニ於テハ、和平論ヲ唱フルコトトナリシ風説アリトノコトヲ述ブ。真逆トハ思ヘドモ、今日ノ計画ガ計画丈ケニ棄テ置カレズ、サリトモ処置モナシ。大臣ハソンナコトハナイ、二課ヲヨク調ベヨトノコトニテ、井田ハ退出セルモ、再ヒ来リテ、二課ニテハ本日上奏案件ナシト云フ、参内ハ確実ナリト云フ。サレド大臣ハ、ソンナコトハナイヲ繰リ返ヘセラレタリ。
五、昨日ヨリノ計画ニテ、8:10ニハ省内高級部員以上集合シアリ。大臣ハ不決行ト決マリシヲ以テ、訓示内容ヲ変更シ、本日ハ重大時期ナルコト全省ノ一致結束ヲ説カレタルニ止マル。
六、本日午前ニ予定サレアリシ御前会議ハ、13:30ニ延期セラレ、午前ハ閣議ノミトナル。
然ルニ、閣議参集ノ閣僚、及平沼、両総長、最高戦争指導会議幹事ニ対シ、突如10:30ヨリ、宮中ニ御召シ遊バサレ、歴史的御前会議ハ突如開カレ、世記[紀]ノ御聖断ハ下ルコトトナリタリ。
陸軍ノ昨夜ノ計画ト思ヒ合ハセ、此ノ御前会議ノ変更過程ハ、何等カノ関連ヲ予想セラレ、即、部内ニ政府ト通ズルモノナキヤヲ思ハシムルニ十分ナリ。
七、竹下ハ万事ノ去リタルヲ知リ、自席ニ戻リシガ、黒崎[貞明]中佐、佐藤大佐等相踵(アイツ)イデ来リ、次ノ手段ヲ考フベキヲ説キ、特ニ椎崎、畑中ニ動カサル。
次デ、総長ガ決心ヲ固メ、大臣ト共ニ最后迄ヤル旨述ヘタリトノ報アリ。
細田[熙]、松田[正雄]、原等ノ具申ニ依ルモノノ如シ。
茲ニ於テ「兵力使用第二案」ヲ急遽起案ス。要旨左ノ如ッシ。
(一)、近衛師団ヲ以テ、宮城ヲ其ノ外周ニ対シ、警戒シ、外部トノ交通通信ヲ遮断ス。
(二)、東部軍ヲ以テ、部内各要点ニ兵力ヲ配置シ、要人ヲ保護シ、放送局等ヲ抑ヘ。
(三)、仮令聖断下ルモ、右態勢ヲ堅持シテ、謹ミテ、聖慮ノ変更ヲ待チ奉ル。
(四)、右実現ノ為ニハ、大臣、総長、東部軍[管区]司令官、近衛師団長ノ、積極的意見ノ一致ヲ前提トス。
此頃ニ於テ、吾等ハ大臣ハ閣議中ニテ、御前会議ハ午后ナリト思ヒ込ミアリタリ。
八、竹下、右計画ヲ持参シテ宮内省ニ至リ、此処ニテ最高戦争指導会議メンバー及閣僚全部ガ御召シニヨリ、参集中ナルヲ知リタリ。
十二時頃終了、大臣ノ跡ヲ追ヒテ総理官邸閣議室ニ到リ、御前会議ノ模様ヲ承ハル。陸相、両総長ノミニ発言ヲ許サレ、其ノ後、御聖断アリシ由、細部第九項。
大臣は[ハ]沈痛ナリ。予ハ閣議室ヲ眺メ硯箱ノ用意ヲ見テ、大臣ニ辞職シテ副書[署]ヲ拒ミテハ如何ト申セシ所、意大イニ動キ林秘書官ニ対シ、辞表ノ用意ヲ命ジタルモ、辞職セバ陸軍大臣欠席ノ儘、詔書渙発(カンパツ)必至ナリ。且、又、最早御前ニモ出ラレナクナル、ト呟キ取止メラル。
予ハ此ノ時、兵力使用第二案ヲ出シ、詔書発布迄ニ断行セムコトヲ求ム。之ニ対シ、大臣ハ意少ナカラズ動レシ様ナリ。閣議迄ノ間、一度本省ニ帰ヘル旨伝ハレシニヨリ、次官ト相談ノ上、決意セラレ度旨述ベタリ。
之ヨリ先、総長ガアレヨリ朝ノ案ニ同意セラレタリト述ベタルニ対シ、「ソウカホントカ」トテ、兵力使用第二案ニ意動カレシヲ察セリ。
九、午后一時ヨリ三時迄閣議アリ、其ノ後大臣ハ課員以上全員ヲ、第一会議室ニ集メ、左ノ趣旨ノ訓示ヲ為セリ。本日午前、最高戦争指導会議構成員、及閣僚ヲ御召シ遊バサレ、御聖断ニ依リ、ポツダム宣言内容ノ大要ヲ受諾スルコトトセラル。其ノ時、御上ニハ此ノ上戦争遂行ノ見込ナキコトヲ述ベラレ、無辜ノ民ヲ苦シメルニ忍ビズ、明治天皇ノ三国干渉ノ時ノ心境ヲ以テ、和平ニ御決心遊バサレ、一時如何ナル屈辱ヲ忍ビテモ、将来皇国護持スルノ確信アリ、忠勇ナル軍隊ノ武装解除ハ堪ヘ難シ、然レ共為サザルヲ得ズト云ハレ、特ニ陸軍大臣ノ方ニ向ハレ、陸軍ハ勅語ヲ起草シ、朕ノ心ヲ軍隊ニ伝ヘヨト宣(ノタマ)ハセラル。又、武官長ハ侍従武官ヲ陸軍省ニ派遣スル由。
御聖断ニ基キ、又重ナル有リ難キ御取リ扱ヒヲ受ケ、最早陸軍ノ進ムベキ道ハ唯一筋ニ、大御心ヲ奉戴実践スルノミナリ。
皇国保持ノ確信ニ就テハ、本日モ、「確信アリ」ト云ハレ、又元帥会議ニ際シテモ、元帥ニ対シ、朕ハ「確証ヲ有ス」ト仰セラレアリ、三長官、元帥会合ノ上、皇軍ハ御親裁ノ下ニ進ムコトト決定致シタリ。
今後、皇国ノ苦難ハ愈々加重セベキモ、諸官ニ於テハ過早ノ玉砕ハ、任務ヲ解決スル途ニ非ラザルコトヲ思ヒ、泥ヲ喰ヒ野ニ臥テモ、最後迄、皇国護持ノ為奮闘セラレ度。
十、次デ、軍務局長ヨリ、本日御前会議ニ於ケル御言葉ヲ伝達ス。要旨左ノ如シ。
自分ノ此ノ非常ノ決意ハ変リハナイ。
内外ノ動静国内ノ状況、彼我戦力ノ問題等、此等ノ比較ニ附テモ軽々ニ判断シタモノデハナイ。
此ノ度ノ処置ハ、国体ノ破壊トナルカ、否(シカ)ラズ、敵ハ国体ヲ認メルト思フ。之ニ附テハ不安ハ毛頭ナイ。唯反対ノ意見(陸相、両総長、ノ意見ヲ指ス)ニ附テハ、字句ノ問題ト思フ。一部反対ノ者ノ意見ノ様ニ、敵ニ我国土ヲ保障占領セラレタ後ニドウナルカ、之ニ附テ不安ハアル。然シ戦争ヲ継続スレバ、国体モ何モ皆ナクナッテシマヒ、玉砕ノミダ。今、此ノ処置ヲスレバ、多少ナリトモ力ハ残ル。コレガ将来発展ノ種ニナルモノト思フ。
──以下御涙ト共ニ──
忠勇ナル日本ノ軍隊ヲ、武装解除スルコトハ堪ラレヌコトダ。然シ国家ノ為ニハ、之モ実行セネバナラヌ。明治天皇ノ、三国干渉ノ時ノ御心境ヲ心トシテヤルノダ。
ドウカ賛成ヲシテ呉レ。
之ガ為ニハ、国民ニ詔書ヲ出シテ呉レ。陸海軍ノ統制ノ困難ナコトモ知ッテ居ル。之ニモヨク気持チヲ伝ヘル為、詔書ヲ出シテ呉レ。ラヂオ放送モシテヨイ。如何ナル方法モ採ルカラ。
十一、閣議ハ午后七時二十分ヨリ八時半迄開カレ、更ニ九時ヨリ十一時三十分迄開カレタリ。此ノ間、詔書案分議セラル。閣僚署名アリ。
十ニ、竹下ハ、連日不眠ヲ医スル為、駿河台渋井別館ニ帰ヘリ、白井、浴両中佐ト語リタル後、二十三時頃就寝シタル所、二十四時半頃、畑中来訪シ、「近歩二連隊長芳賀[豊次郎]大佐ハ、本日近歩二ガ守衛上番ナルヲ機トシ、更ニ一ヶ大隊ヲ赴援シ、軍旗ヲ捧ジテ蹶起スルノ決心ヲ固メ、本夜二時ヲ期シ、宮城ヲ固ムルノ処置ヲ採ルニ決ス。近衛師団中ニハ、別ニ四ヶ大隊蹶起ニ同意セシメタリ。自分ハ今ヨリ近衛師団長ノ許ニ至リ、之ヲ説得スルモ、若シ聴カザル時ハ之ヲ許[斬]リテモ実行ス。石原[貞吉]、古賀[秀正]、ノ両参謀ハ同意シアリ」ト述ベ、予ニ対シ、大臣ノ許ニ至リ、本朝来ノ計画ニ基キ、近衛師団ノ蹶起ヲ機トシ、全軍蹶起ニ至ラシメラレ度依頼ス。竹下ハ東部軍ガ立タズシテハ問題トナラズ、近衛師団長モ難シカルベク、東部軍ハ今トナリテハ恐ラク同意セザルベク、成功ノ算少キヲ以テ、計画中止ヲ静ニススメタルモ、畑中ノ決心牢固タルモノアリ。且、予ハ嘗テ予自ラ捧持セシ軍旗ガ動キ、大臣ニ取リテハ之亦嘗之ヲ仰ギタル軍旗ガ動クコトハ、天意カモ知レズト大イニ心動キタルヲ以テ、畑中ニ対シ、大臣ノ許ニ至ルヲ約ス。但、昨日来ノ決心ト同ジク、近衛師団長、東部軍司令官ノ同意ヲ先決トシ、近衛師団長ハ斬リテ代理者ニ依リテ動クナラ兎モ角、東部軍官区司令官ガ立タザル時ハ、大臣命令ノ発動ハ要求セズ、若シ両者策応蹶起セバ、大臣ニ対シ力ノ限リ
蹶起ヲススムベシト約シ同車出発、畑中ハ一寸役所ニヨリ、軍事課ノ諸士ニ東部軍ヘノ工作ヲ依頼シ、直チニ予ヲ大臣官邸ニ送リ、自ラハ近衛師団ニ向ヒタリ。
十三、十四日夜、即十五日一時半、竹下、大臣官邸着。案内ヲ乞ヒタル所、大臣ハ自室ニ在リ、「何シニ来タカ 」ト、一寸咎メル如キ語調ナリシモ、軈(ヤガ)テ、ヨク来タトテ室ニ請(ショウ)ズ。 室内ニハ床ヲ展ベ、白キ蚊帳ヲ吊リアリ、ソノ奥ニテ書物ヲセラレアリシ如ク感ズ、──遺書ナリ──机上ニハ膳ヲ置キ、一酌始マラントシアリシ模様ナリキ。大臣ハ予ニ対シ、本夜予(カネ)テノ覚悟ニ基キ、自刃スル旨述ベラル。之ニ対シ予ハ、覚悟尤(モットモ)ニシテ、其ノ時機モ本夜カ明夜カ位ノ所ト思フニ附、敢テ御止メセズト述ベタル所、大臣ハ大イニ喜ビ、君ガ来タノデ妨ゲラルルカト思ヒシガ、夫レナライイ却(カエッ)テヨイ処ニ来テ呉レタトテ、盃ヲ差シ頗(スコブ)ル上機嫌トナリ、本夜ハ十分ニ飲ミ、且、語ラムトテ、夫レヨリ五時頃迄語ル、其ノ要旨左ノ如シ。
( 室内図・・・略)
予ハ平素ニ似ズ飲マルルヲ以テ、アマリ飲ミ過ギテハ、仕損ズルト悪シ、ト云ヒシ所、飲メバ酒ガ廻リ血ノ巡リモヨク、出血十分ニテ致死確実ナリト、予ハ剣道五段ニテ腕ハ確カト笑ハレタリ。
問答要旨、前後不同。
一、若シバタバタセル時ニハ君ガ、仕末シテ呉レ。然シソノ心配ハナカラム。
一、遺書ハ、「一死ヲ以テ大罪ヲ謝シ奉ル、昭和二十年八月十四日夜、陸軍大臣阿南惟幾」ト、既ニ書キアルヲ示サレシガ、裏ニ、更ニ「神州不滅ヲ確信シツツ」ト書キ足サレタリ。
辞世「大君ノ深キ恵ミニ浴(アミ)シ身ハ言ヒ残スベキ片言モナシ、八月十四日夜、陸軍大臣阿南惟幾」ハ、コレハ戦地ニ出ル時ノ、イツモノ心境ナリト云ハル。
一、短刀デヤルガ、卑怯ノツモリハナイ。
一、畳ノ上ハ、武人ノ死ニ場所デハナイ。外デハ見張リニ妨ゲラレルノデ、縁側デヤル、向キハ、皇居ノ方向デアル。
一、大臣ハ夜、風呂ニ入リアリ、自決ノ時ハ侍従武官時代、拝領セシ下着ヲ身ニ附ケラル。コレハオ上ガオ肌ニ附ケラレタルモノデアル。コレヲ着用シテ逝クノダト。
一、本夜、畑中等ノ件ニ附テハ、蹶起時刻タル二時迄ハ触レザリシモ(事前ニ、知レバ、大臣トシテ中止ヲ命ズルノ責モ生ズベキヲ考慮シタルモノナリ)、二時過ギ説明シタル処、東部軍ハ立タヌダラウト言ハレタリ。其ノ後、三時頃窪田[兼三]少佐来訪。竹下ノミ面会シ、同少佐ヨリ森[赳]師団長ハ肯(ガヘ)ゼザリシ為、畑中少佐之ヲ拳銃ニテ射撃シ、窪田少佐軍刀ニテ斬リタル由、又、居合ハセタル白石参謀(第二軍)ハ制止セル為、之又、窪田少佐斬殺セル由。窪田少佐ハ報告ニ来リ、今ヨリ守衛隊本部ニ行ク由ヲ聞キ取リ、東部軍ノコトハ分ラヌ由モ聞キ、少佐ノ帰リタル后、大臣ニ報告セル所、森師団長ヲ斬ッタカ、本夜ノオ詫ビモ一緒ニスルト洩ラサレタリ。四時頃、井田中佐来訪、大臣ニ会ヒ、東部軍ハ立タヌ、万事去ツタ由ヲ大臣ニ対シ述ベタリ。
之ヨリ先、大臣ハ十三日、大臣室ニ於テ、井田中佐が[ガ]「大臣ハ変節サレタノカ、ソノ理由ヲ承リ度」ト云ヒシコトニ附、アノ際ノ返答ハ井田ヲ後ニ残シタカッタノダト云ハレ、井田中佐ニヨロシク伝ヘテ呉レト云ハレ居リシガ、井田来訪スルニ及ビ、相擁シテ語ラレタリ。
一、井田中佐帰リタル後、大城戸[三治]憲兵司令官来邸、近衛師団ノ変ヲ報告ニ来ラル。大臣ハ夜ガ明ケルカラ始メル、司令官ニハ、オ前会ヘトテ、竹下ヲ応接間ニ出シ、其ノ後ニテ自刃セラレタリ。
林秘書官、此ノ頃、近衛師団ノ件ニテ来訪、応接間ニテ竹下ニ会ヒ、大臣ノ登庁ヲ要スト云ハレシガ、大臣室ニ至リ自刃中ナルヲ知リ、竹下ニソノ旨伝ヘラル。
一、細田大佐ニヨロシク。
一、安井国務大臣ニ御世話ニナッタ。
一、林秘書官ニ礼ヲ云フテ呉レ、ヨイ秘書官ダッタ。
一、総長ニ長イ間御世話ニナリマシタ、書キ遺シマセンガ、閣下ニハ御世話ニナリマシタ。国家ハ閣下ガ指導シテ下サイ。
一、竹下ノ婿トシテ、阿南家ノ陸軍大将トシテ、堂々ト死ンデユク、笑ッテ逝ク。
一、アア六十年ノ生涯、顧ミテ満足ダッタ。ハハハハ。
一、惟敬ニ対シ、アア云フ性格ダカラ、過早ニ死ナヌ様、呉々伝ヘテ呉レ。
一、惟晟ハ、ヨイ時死ンデ呉レタ。惟晟ト一緒ニ死ンデ逝ク。
大臣ハ三時頃、例ノ下着ヲ着換ヘ、ソノ上ニ一度、勲章ヲ全部佩用(ハイヨウ)シテ軍服ヲ着シ、竹下ニ対シ、ドウダ堂々タルモノダロウト伝ハレ、此時両人相擁セリ。軈(ヤガ)テ服ヲ脱イデ床ノ間ニ残置サレ、終ッタラ体ノ上ニカケテ呉レト頼マレシガ、ソノ際両袖ノ間ニ、惟晟ノ写真ヲ抱クガ如ク安置サレタリ。
一、惟正以下男ノ子ガ三人モ居ルカラ大丈夫。
一、綾子ニ対シ、オ前ノ心境ニ対シテハ信頼シ感謝シテ死ンデユク、ト伝ヘテ呉レ。
一、姉ヲ始メ親戚一同ニ、ヨク分ッテ呉レルダラウ。
一、惟道ハ、オ父サンニ叱ラレタト思フト可哀想ダガ、此ノ前帰ッタ時、風呂ニ入レテ洗ッテヤッタアノデ、ヨク分ッタラウ、皆ト同ジ様ニ可愛ガッテ居ルコトヲ伝ヘテ呉レ。
一、家族ノコト等、君ガ来タカラ伝ヘラレタノダ。
一、次官ニ後ヲ頼ム。
一、豊田、大西、畑閣下ニ厚思ヲ謝ス。
一、板垣、石原、小畑[敏四郎]閣下同ジク。
一、荒木[貞夫]閣下ニヨロシク。
一、米内ヲ斬レ。
一、台上各位ニヨロシク。
一、野口、除野、久雄[阿南尚男]サンニヨロシク。
一、辞表ノ日附ハ十四日トセラレ度。
一、モウ十五日ダガ、自決ハ十四日ノ夜ノ積(ツモリ)ナリ。十四日ハ父ノ命日デ此日ト決メタ。ソウデナイ場合ハ、二十日ノ惟晟ノ命日ダガ、夫デハ遅クナル。
十四、林秘書官ノ知ラセニテ、竹下ガ現場ニ到レバ、大臣ハ既ニ割腹ヲ了ハリ、喉ヲ切リツツアリ、予ガ介添シマセウカト言ヒタルニ対シ、無用、アチラニ行ケト云ハル。暫クシテ来リ検スルニ、少々右前ノメリトナリ居ラレタルモ、呼吸十分ニ聞ユルヲ以テ、予ハ苦シクハアリマセンカト呼バハリタルモ、既ニ意識ナキ如キモ手足モ少々動クヲ以テ、短刀ヲ取リテ介添ヘス。
其ノ後、載仁親王ヨリ拝領ノ軸物ヲ側ニ展ケ、遺書ヲ並ベ、軍服ヲ体ニカケタリ。
十五、陸軍省ヨリ再度連絡アリシニ依リ、三度大臣ノ死ヲ慥(タシカ)メ登庁ス。コノ時、未ダ呼吸アリ。
八月十五日 木[水]曜
一、次官閣下以下ニ報告。
二、十一時二十分、椎崎、畑中両君、宮城前(二重橋ト坂下門トノ中間芝生)ニテ自決。
午后、死体ノ引取リニ行ク。
三、大臣、椎崎、畑中三神ノ茶[荼]毘、通夜。
コレヲ以テ愛スル我カ国ノ降伏経緯ヲ一応擱筆(カクヒツ)ス。
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