京都大学大学院、鎌田浩毅教授の古典本に関する連載の第42回。
雑誌はちょっと前の号ですが、処分しようかなと思ってパラパラめくっていたら、鎌田先生の連載を読み忘れていて、整理の手を止めて読み始め・・
ついでにブログを書いています。
一生モノの古典・・この連載は絶対単行本になると思っているので、過去の記事を残しておらずひたすら本の出版を待っています。
出たら即、買います!!
さて・・
古典がテーマですので、日頃お手軽ビジネス書ばかりを読んでいる自分は、ここで取り上げられる本を読解できる自信がなく、記事を読んでもそこで終わってしまうことが多いですが、
鎌田先生の着眼点や見開き左肩にある「教訓3カ条」にわくわくっとしたり、ニヤリとしたり楽しんでます。
今回の「幸福論」は・・まず「幸福」というタイトルがついていること自体がとっつきにくい。
そしてたぶん大学生の時に読んだんですが・・消化不良だったような。
ということで、今頃になってこの記事を読んでいます。
しかし、記事のサブタイトル「退屈を恐れて興奮を求めると人生は確実に貧しくなる」
いま自分が到達しよう(おおげさ)としているものを表しているようで、目に留まりました。
組織の中で勝ち組と負け組かがはっきり分かれる年齢になって、ワクワクする仕事ができるだろうと思っていた勝ち組と呼ばれる人たちが果たして本当に自分がやりたいことをしているのかと観察してみると・・していない。
そうするとずっと所属してきた組織でいつかは自分のやりたいことがある程度できると思っていたのが、できなかったということが分かってくる。
それでは組織の外に自分がしたいと思うことを実現できるところがあるか?・・・実はどこにもない・・
自分が社会に役に立ちたいと思っていても、自分が社会に役に立つなどというおこがましいことはなかったということがわかる。
自分ができることは限られているし、また、ある人にとって価値があることが他の人には無価値であり、一人の人間のすることがすべての人の役に立つということはありえない。
自分が社会に役に立つということは・・日々生活をして仕事をして、それだけのことなのかもしれない。
そもそも人間が他人のために何かするということがおこがましいことであり、人間もただ他の動物と同じように生を受けているから生きている。
つべこべ考えずにただ自分がしたいことをしていく。それが結果として周りに影響を及ぼして、ほんの少し周りが変わっていく。
では何をすべきか・・
余計なことは考えないで、いま自分がすべきことは何かを考えてそれを実行する
・・では自分は何をするか・・
自分が知らないことをひたすら学びたいと思う、学ぶことで自分の行動がかわっていくかもしれない、自分が進むべき方向が見えてくるかもしれない。
何かを達成したいと思ったりするから、本来自分がしなければいけないことができていないのではないか。
迷いを捨ててただ自分の足りないものを得ていくことがいま自分のすべきことではないか・・
この記事にある「競争、疲れ、ねたみ、被害妄想、世評にたいするおそれ」を持っているから、それらを捨てて、
「世の中の役には立たないが面白そうなことに没頭している科学者のような人種が、実は最も幸福に近い・・」
科学者と比較するのは恐れ多いけれど、「私心のない興味」を大切にすることが必要なのではないか・・
しかし、その状態は当然注目を浴びることがなく、黙々と何かに取り組む「退屈」な状態だと思います。
だから退屈を耐える「退屈力」も持たなければならない。
そうすれば自分が求めている人生の質を確保できる・・
スリルある人生を求めるのではなく、日々を淡々と過ごしていく。そんな人生を送るのが本当の幸福なのではないか・・・
なんてことを考えています。
いまの自分に必要だったから、この記事に目が留まった・・?
これはきちんと原典「幸福論」を読むべきですね。
雑誌はちょっと前の号ですが、処分しようかなと思ってパラパラめくっていたら、鎌田先生の連載を読み忘れていて、整理の手を止めて読み始め・・
ついでにブログを書いています。
一生モノの古典・・この連載は絶対単行本になると思っているので、過去の記事を残しておらずひたすら本の出版を待っています。
出たら即、買います!!
さて・・
古典がテーマですので、日頃お手軽ビジネス書ばかりを読んでいる自分は、ここで取り上げられる本を読解できる自信がなく、記事を読んでもそこで終わってしまうことが多いですが、
鎌田先生の着眼点や見開き左肩にある「教訓3カ条」にわくわくっとしたり、ニヤリとしたり楽しんでます。
今回の「幸福論」は・・まず「幸福」というタイトルがついていること自体がとっつきにくい。
そしてたぶん大学生の時に読んだんですが・・消化不良だったような。
ということで、今頃になってこの記事を読んでいます。
しかし、記事のサブタイトル「退屈を恐れて興奮を求めると人生は確実に貧しくなる」
いま自分が到達しよう(おおげさ)としているものを表しているようで、目に留まりました。
組織の中で勝ち組と負け組かがはっきり分かれる年齢になって、ワクワクする仕事ができるだろうと思っていた勝ち組と呼ばれる人たちが果たして本当に自分がやりたいことをしているのかと観察してみると・・していない。
そうするとずっと所属してきた組織でいつかは自分のやりたいことがある程度できると思っていたのが、できなかったということが分かってくる。
それでは組織の外に自分がしたいと思うことを実現できるところがあるか?・・・実はどこにもない・・
自分が社会に役に立ちたいと思っていても、自分が社会に役に立つなどというおこがましいことはなかったということがわかる。
自分ができることは限られているし、また、ある人にとって価値があることが他の人には無価値であり、一人の人間のすることがすべての人の役に立つということはありえない。
自分が社会に役に立つということは・・日々生活をして仕事をして、それだけのことなのかもしれない。
そもそも人間が他人のために何かするということがおこがましいことであり、人間もただ他の動物と同じように生を受けているから生きている。
つべこべ考えずにただ自分がしたいことをしていく。それが結果として周りに影響を及ぼして、ほんの少し周りが変わっていく。
では何をすべきか・・
余計なことは考えないで、いま自分がすべきことは何かを考えてそれを実行する
・・では自分は何をするか・・
自分が知らないことをひたすら学びたいと思う、学ぶことで自分の行動がかわっていくかもしれない、自分が進むべき方向が見えてくるかもしれない。
何かを達成したいと思ったりするから、本来自分がしなければいけないことができていないのではないか。
迷いを捨ててただ自分の足りないものを得ていくことがいま自分のすべきことではないか・・
この記事にある「競争、疲れ、ねたみ、被害妄想、世評にたいするおそれ」を持っているから、それらを捨てて、
「世の中の役には立たないが面白そうなことに没頭している科学者のような人種が、実は最も幸福に近い・・」
科学者と比較するのは恐れ多いけれど、「私心のない興味」を大切にすることが必要なのではないか・・
しかし、その状態は当然注目を浴びることがなく、黙々と何かに取り組む「退屈」な状態だと思います。
だから退屈を耐える「退屈力」も持たなければならない。
そうすれば自分が求めている人生の質を確保できる・・
スリルある人生を求めるのではなく、日々を淡々と過ごしていく。そんな人生を送るのが本当の幸福なのではないか・・・
なんてことを考えています。
いまの自分に必要だったから、この記事に目が留まった・・?
これはきちんと原典「幸福論」を読むべきですね。