この著書では、関係発達がいかに止まっているかが解りやすく書かれているが、
山中康裕医師が東京大学出版会・分裂病の精神病理5や、現代のエスプリ「自閉症」
の中の論文などで触れている、治療者の積極的配慮を伴った絶対受容の時期から、
治療者への自閉症児の密着、共生関係につながり、
その後、治療者に向けて強い攻撃性が向けられるところ、例としては、
抱きついている場合ならば、治療者の肩を強く噛む、頬を叩く、髪を引っ張る、爪を立てる、
などの、患児の自閉の殻を破壊する強いエネルギーの現れ、
治療者への試し、などに繋がるところまでは書かれていないことが
残念である。
何人かの治療者が、共生関係まで発展しても、そのような
強い攻撃性の発現で、共生関係が無効であったと考えたのではないかというのが、
山中医師の推測であるとのことだ。
そのような強い攻撃性が治療者へ向けられる時期が臨界期であり、
その後、象徴的遊戯を始めるとのことである。
そのような象徴的遊戯を通して、それまで外界にばらばらにあった
患児の自己が、まとまっていく過程へ行くとのことである。
もちろんそこまで書かれていなくても、患児が自閉しているというよりも
関係発達でのつまづきについて解りやすく書いているこの著作の
オリジナルな価値が少しでも減じる訳でないことは明らかである。
山中康裕医師が東京大学出版会・分裂病の精神病理5や、現代のエスプリ「自閉症」
の中の論文などで触れている、治療者の積極的配慮を伴った絶対受容の時期から、
治療者への自閉症児の密着、共生関係につながり、
その後、治療者に向けて強い攻撃性が向けられるところ、例としては、
抱きついている場合ならば、治療者の肩を強く噛む、頬を叩く、髪を引っ張る、爪を立てる、
などの、患児の自閉の殻を破壊する強いエネルギーの現れ、
治療者への試し、などに繋がるところまでは書かれていないことが
残念である。
何人かの治療者が、共生関係まで発展しても、そのような
強い攻撃性の発現で、共生関係が無効であったと考えたのではないかというのが、
山中医師の推測であるとのことだ。
そのような強い攻撃性が治療者へ向けられる時期が臨界期であり、
その後、象徴的遊戯を始めるとのことである。
そのような象徴的遊戯を通して、それまで外界にばらばらにあった
患児の自己が、まとまっていく過程へ行くとのことである。
もちろんそこまで書かれていなくても、患児が自閉しているというよりも
関係発達でのつまづきについて解りやすく書いているこの著作の
オリジナルな価値が少しでも減じる訳でないことは明らかである。
発達障害の人の、ぎこちない動き、不器用さ、
折り紙などを覚えにくいというのは、小林隆児氏などの書いているような、
感覚、感情を刺激するものから、反射的に離れようとする、というところが、
その後も残っているため、
常に内的に、離れる、飛び退こうとするところが在るために、
その部分を無理に止めながら、そのうえで何かをするために動くということをするので、
ぎこちなかったり、不器用だったりするのではないのだろうか?
そのような経緯を考えずに、脳機能の偏り、特性などというのは、
昔のMBDと同じく、思考停止、考察の放棄に過ぎないのではないだろうか。
折り紙などを覚えにくいというのは、小林隆児氏などの書いているような、
感覚、感情を刺激するものから、反射的に離れようとする、というところが、
その後も残っているため、
常に内的に、離れる、飛び退こうとするところが在るために、
その部分を無理に止めながら、そのうえで何かをするために動くということをするので、
ぎこちなかったり、不器用だったりするのではないのだろうか?
そのような経緯を考えずに、脳機能の偏り、特性などというのは、
昔のMBDと同じく、思考停止、考察の放棄に過ぎないのではないだろうか。