この本の中では、ブランケンブルクの「自明性の喪失」と類似している、
寡症状で「当たり前ということが解らない」「普通ということが解らない」などの
症例が取り上げられている。
しかしながら、ブランケンブルグと違い、この著者の場合は
自身がどのような態度で臨床をしているかで、そのようなことを
自分に話す患者さんが出始めたかについて書かれている。
この著者の場合は、自分が四十歳を超えて、運命共感的になってから、
自分に対してそのようなことを話す患者さんが出始めたとのこと。
自分の患者さんに何かをしようという態度よりも、運命共感的な態度での臨床のほうが、
患者さんが自分の状態について考え、言語化して医師に伝えるという、
患者さんの動きが活性化する場になったのではないだろうか。
様々な知識や技法を身に着けるのは時間がかかり難しくても、
診察室の中などで、運命共感的な態度をとってみる、というのは
比較的容易そうである。
寡症状で「当たり前ということが解らない」「普通ということが解らない」などの
症例が取り上げられている。
しかしながら、ブランケンブルグと違い、この著者の場合は
自身がどのような態度で臨床をしているかで、そのようなことを
自分に話す患者さんが出始めたかについて書かれている。
この著者の場合は、自分が四十歳を超えて、運命共感的になってから、
自分に対してそのようなことを話す患者さんが出始めたとのこと。
自分の患者さんに何かをしようという態度よりも、運命共感的な態度での臨床のほうが、
患者さんが自分の状態について考え、言語化して医師に伝えるという、
患者さんの動きが活性化する場になったのではないだろうか。
様々な知識や技法を身に着けるのは時間がかかり難しくても、
診察室の中などで、運命共感的な態度をとってみる、というのは
比較的容易そうである。