マチンガのノート

読書、映画の感想など  

「アウトロー」 監督:クリストファー・マッカリー 主演:トム・クルーズ

2013-10-30 01:10:25 | 日記
小説の映画化ということだが、陰謀の実行の指揮者で
ロシアの収容所を生き残った人物が出てくる。
収容所を生き残るために、凍傷にかかった自らの指を、
自分の歯で噛み切って、壊死によって死ぬことを回避したという事が語られる。
そのように、生き残るために、自らの肉体や、他人を、
単なる道具、物として扱った方が、収容所から出てから、
他人を道具として扱って、他人に危害を加える、命を奪う、
重大な違法行為をするというのは、どの程度、本人の責任と
言えるのだろう?
生き残るために他に選択肢が無い状況で身に付いた行動様式を
単に個人の問題とするのは、物の見方が短期的すぎるのでは
ないだろうか?
ロシアなどの貧しい国の、刑事犯、政治犯を、単なる使い捨ての
道具として扱うということの、長期的影響として見ることから
始めないと、単にその個人の、内的問題として、見過ごされる
のではないだろうか?

「見捨てられた高校生たち」 朝比奈なを著

2013-10-25 23:42:57 | 日記
元高校教師の著者が、いわゆる、底辺校と呼ばれる高校の生徒について書いたものだが、
親が子供に日常的な挨拶などの常識的な行動、礼儀を教えるどころか、
朝起きたら顔を洗う、外から帰ったら手を洗う、などの基本的な事を教わっていない子供は、
ある程度いるそうだ。
そのような家庭では、代々その様な事を教えずに来ているのではないかとのことだ。
家族でテーマパークなどに行ったことが無いなどの欠落体験どころか、
ちゃんと風呂に入る習慣が身に付いていない子供の場合、
臭いなどで周囲から敬遠され、それを見かねた教師が親に
「ちゃんと風呂に入れるように」と、言っても、逆に
「ちゃんと入れてますよ」と反論してくるが、それが
月に数回の入浴だったりするので、話がかみ合わないそうだ。
学校は、「普通の家庭」があることを前提として、教育をするようだが、
これからは、その様な前提が欠けていることも考えて、
初等教育から考え直して方がいいのではないだろうか?
特に最近指摘されている、発達障碍児の、指示される事への
注意の向きにくさなどは、子供にじっくり教育、躾をする余裕のない家庭が
増えていることを考えれば、学校、地域での、解りやすい日常的な
関わり、教育などが無いと、ますます生活の基本ルールが
解らない子供が増えるのではないだろうか?

「ギャングバスターズ」 監督:バリー・バトルズ

2013-10-04 23:28:48 | 日記
これまでのアメリカ映画だと、正しいことをすればいい、という物が多かったのだが、
この映画は最近の様々な行き詰まりを反映してか、
文化的、風土的にそれでは廻らない中でどうするか?
というのが描かれている。
主役の悪人3兄弟と、それを使う保安官、北部から来たATF捜査官、
さらには、海賊風ギャング団、インディアン・ギャング団など、
タランティーノ風の味付けもしてあるが、全体のストーリーは
「父、帰る」(ロシア、2003年、アンドレイ・ズビャギンツェフ監督)などの
ロシア映画などを思い起こさせる。
限られた現実の制約の中で、出来るだけのことをやらざるを得ない、というところが
他の米国映画と違っている。
治安が悪いが取り締まる予算、人手も限られている中、
そこにおいてどうするのか?という、綺麗事では対処できない話が、
B級アクション映画の中で展開する。
最後に、北部から来たATF捜査官が上司から、
「上手く解決したから、君がここに赴任してくれ」と言われて、
「そりゃないよ」
というところは、リベラル派への注文だろう。
アメリカ人は、自治をすれば得をしそうだから自治を求める、
と言う訳ではないのだろう、と思った。

大学教員にみる世代間断絶 「フッサール心理学宣言」渡辺恒夫著

2013-10-04 08:51:00 | 日記
「フッサール心理学宣言」渡辺恒夫著という、「自我体験」というものを
扱った本を少し読んでみると、最初の方に、「自我体験」というのを
心理学の授業のアンケートに書く一人の架空の学生として
「アイ」という女子学生が出てくる。
その学生は、財界人が子女を入学させたがる、外国の絵葉書に出てくるような
レンガ造りの綺麗な建物が並ぶ名門大学に入学するのだが、
両親は、「両方とも学校教師という地味な家庭」に育ったという設定だ。
両親とも教員で知的に恵まれていて、私立の大学に入れるという、
経済的に恵まれていることを、「地味」と表現するのには驚いた。
この著者は1946年生まれなので、周りにいくらでも戦中派、戦前派が
居ただろうに、それらの人々からは、戦争体験や、戦後の混乱期の、
満州、朝鮮半島などからの引き揚げに伴う様々な体験を、聞かされ無かったのだろうか?
単に、学校に行って、授業の内容だけを憶えて行っていたのだろうか?
この著者自身の育った時代というと、今より治安が悪く、その為、犯罪被害者も当然多く
格差、差別も今より大きいのに、そのようなものを見ずに、
ひたすら学校の中だけを見ていたのだろうか?
前の戦争があまりにも米軍に対して、一方的に負けたので
戦争体験者は、自分たちの家族、親族などに対して
体験を語らなさ過ぎたのではないだろうか?
この著者のように、社会的視野の狭い方が、思想について語る大学教員で、
左翼なども、大手企業の組合と大手メディアなど、経済的、知的に恵まれた層が中心だったので、
ソ連の崩壊、北朝鮮による拉致などで、信用を失ったのだろう。



「アウシュヴィッツの残りのもの」 ジョルジョ・アガンペン

2013-10-02 00:00:38 | 日記
著者のアガンペンは、前半で何回も、「神」「言葉」というところに
行くのだが、ヨーロッパの人間の考え方の基礎には、
常に「神」「言葉」などが在るのだろうか?と思った。
人間はサルから進化したのだから、サルの一種という考え方には
ならないのだろうか?
知能が発達したサルが、同類を大規模に殺しても、所詮はサルのしたこと
とは思わないのだろうか?
最後のところで、「回教徒」だった方々の証言があるが、
食べ物が良くなるとあっさり、元の人間に戻るのだから、
人間は動物だな、と思った。