マチンガのノート

読書、映画の感想など  

魂と暴力(ユング心理学研究 第3巻)「発達障害における『イメージと言葉の解離』 その2

2014-07-31 01:19:03 | 日記
7月30日のシノドスで取り上げられているように、
日本での「責任」というのは、その人の「選択の結果」以前に、
その人の「立場」での役割を果たす、ということと結びついているので、
発達障害のように、「主体」が無く、よって「立場」自体を理解する事が困難な場合、
「立場に応じた責任」を理解する事が困難で、単に身勝手、周りを見ていない、
と周囲から見られて、何か注意をされても、「選択の結果」ではない事を、
急に責められと感じて、状況が理解できないことが多いのではないのだろうか?
「主体が無い」ということは、物事をみる立脚点がないので、
定型発達の人の言葉の体系と、根本的にかみ合わないのではないのだろうか?


河直美の映画

2014-07-14 01:02:19 | 日記
河直美の映画は、父が死ぬ話だったり
子供が死ぬ話だったり、どれもストーリーが重い。
しかし映像はすごく綺麗。
「沙羅双樹」は昔、天王寺のフェスティバルゲートにあった映画館で見たが、
「名探偵コナン」と交互に上映されていて、
「コナン」から出てくる子供連れは多くても、「沙羅双樹」に
入って行く客は、7,8人だった。
「沙羅双樹」も、双子の片方が亡くなる話だったが、
生瀬勝久さん演ずる父役が、生き残った子供の方が
何も無かったかのように学校に行こうとするのを止めて
「忘れてもいいことと、あかんことが在って」というシーンが
印象に残った。
生瀬さんがアドリブで演じたシーンだそうだ。
奈良の町がとても綺麗に映してあった。

「遥かなる勝利へ」 ニキータ・ミハルコフ監督 その3

2014-07-10 01:48:00 | 日記
コトフは中将として将校に復帰後、スターリンに呼ばれて、
「軍人で手足を失っている者が多いのに、様子見の人間が多すぎる」
とのことで、1万5千人をドイツの要塞に突撃させて、
見せしめに死なせる作戦を指揮するように言われます。
当時のソ連では、その様な提案を断っても、収容所に送られて
他の将校がすることになったのでしょう。
ハンナ・アーレントがナチスの官僚のアイヒマンについて言った「凡庸な悪」
の様なものでしょう。
そしてコトフは集められた市民を指揮するのですが、列車で送られてきた
市民たちが追い立てられるところは、「ソフィーの選択」のユダヤ人移送の様な
シーンです。
ミハルコフ監督も、そこは意識して演出したのでしょう。
市民たちは平服のまま、塹壕に送られて棒切れを持たされるのですが、
意義をとなえると、あっさり軍人に殺されます。
しかしコトフは周りの将校の止めるのを無視して、市民の所に降りて行きます。
参謀の一人は、将校は指揮所から指揮すべきで、顔を合わせるべきではないと言います。
しかしながらコトフは自ら棒切れを持って、塹壕を出て先頭を歩き始めます。
そして部下の将校たちも、自らその後について棒切れを持って続きます。
そして市民たちもその後に続きます。
ロシア人にとっては、この世は民主的でも合理的でも平等でもないというのが
前提として在るのでしょう。
日本と比べると、はるかに貧しく、気候も厳しいという前提が在るからなのでしょう。
日本の昔の左翼とか学生運動の人たちは、自分達がいかに恵まれた
歴史と自然環境に生まれたかを解らずにソ連の社会主義に憧れていたのでしょう。
現在の対ロシア外交も、そのような物事の見方の前提自体が違うということを
考えに入れて立案すべきではないでしょうか?


「アタック・ザ・ブロック」 ジョー・コーニッシュ監督 イギリス映画

2014-07-07 20:06:08 | 日記
ロンドンの団地に住んでいる子供たちの所に
エイリアンが来て、十代の子供たちが身近な物を使って戦う、という話。
リーダー格の黒人少年のふてぶてしい顔つきが印象に残った。
なぜ十代位で、あの様にふてぶてしい顔つきなのだろう、と思った。
日本の理系大学生などとは大きな違いだ。
日本の暗記教育の影響だろうか?
日本も暗記教育よりも、あのようにふてぶてしくなれる教育の方が
良いのではないだろうか?
ふてぶてしくなれば、何年も英語を習っても、会話も大して出来ない
というのから脱せるのではないだろうか?