蒋介石の略歴を述べます。1887年浙江奉化の生まれとされています。1907年保定(ほてい、北京近くの都市)の全国陸軍促成学堂に入り、1908年日本に留学、その時同盟会に入っています。1910年日本振武学校を卒業し、日本陸軍第十三師団第十九連隊の士官候補生になっています。辛亥革命後孫文に従い袁世凱反対運動に参加。1923年にはソ連に行き軍事政治を視察、1924年帰国後黄埔軍校の校長、国民革命軍第一軍長を歴任、1926年に中山艦事件を起こして、共産党と決別、1928年に国民党政府主席。1936年に西安事件を機に第二次国共合作という具合です。後は、共産党との内戦に敗れ、台湾へ敗退、1975年台湾にて没ということです。
略歴を眺めてみると、日本陸軍の士官候補生になったり、革命直後のソ連に足かけ2年視察に滞在したり、共産党と協力したり、迫害したり、波瀾万丈の一生です。
今回紹介する渓口の建物は、国民党政府の主席になるかならないかという頃に再建されたり、新築された建物が多いようです。因みに中華民国の首都は南京にありました。南京から奉化渓口は、そこそこありますが、南京から上海へ行くのとほぼ同じか、やや遠いという感じではないでしょうか。
今日は渓口の文昌閣です。文昌閣は、説明文によれば、清代に作られた廟のようなものですが、廃墟となり、蒋介石が再興したものだそうです。その後蒋介石は宋美齢と結婚しますが、その宋美齢との生活に文昌閣を使ったようです。
文昌閣でみかけた宋美麗の写真です。宋美麗は孫文の妻である宋慶齢の妹です。
標題をクリックして写真を大きくして見てください。その下に本文とコメントがあります。ぜひ
と
にクリックを!
略歴を眺めてみると、日本陸軍の士官候補生になったり、革命直後のソ連に足かけ2年視察に滞在したり、共産党と協力したり、迫害したり、波瀾万丈の一生です。
今回紹介する渓口の建物は、国民党政府の主席になるかならないかという頃に再建されたり、新築された建物が多いようです。因みに中華民国の首都は南京にありました。南京から奉化渓口は、そこそこありますが、南京から上海へ行くのとほぼ同じか、やや遠いという感じではないでしょうか。
今日は渓口の文昌閣です。文昌閣は、説明文によれば、清代に作られた廟のようなものですが、廃墟となり、蒋介石が再興したものだそうです。その後蒋介石は宋美齢と結婚しますが、その宋美齢との生活に文昌閣を使ったようです。
文昌閣でみかけた宋美麗の写真です。宋美麗は孫文の妻である宋慶齢の妹です。
標題をクリックして写真を大きくして見てください。その下に本文とコメントがあります。ぜひ

