蒋経国夫婦の寝室と説明されています。寝室に掲げられている写真は蒋経国とFinaのようです。蒋経国夫妻がこの小洋房に住んだのは半年程ですが、ずっとここで住んでいたような扱いです。
Finaはベラルーシ人とのことですが、蒋経国とはシベリア抑留中に出会っており、数奇な運命を辿ったのでしょう。シベリアから浙江省渓口に来て、政治も、経済も、そして人種も異なる環境の中で戸惑ったことでしょう。今でも渓口は田舎です。1937年の国民党下の渓口は、今よりもっと田舎で、その中で、厳しい義理の父親の家の隣に住むとは、随分戸惑いもつらいこともあったことでしょうね。その彼女は、台湾までついて行って蒋経国と添い遂げたようですから、そのことは蒋経国の人徳というか、彼の優しさが背景にあったのではないでしょうか。なにやら想像をたくましくさせられるお話です。
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Finaはベラルーシ人とのことですが、蒋経国とはシベリア抑留中に出会っており、数奇な運命を辿ったのでしょう。シベリアから浙江省渓口に来て、政治も、経済も、そして人種も異なる環境の中で戸惑ったことでしょう。今でも渓口は田舎です。1937年の国民党下の渓口は、今よりもっと田舎で、その中で、厳しい義理の父親の家の隣に住むとは、随分戸惑いもつらいこともあったことでしょうね。その彼女は、台湾までついて行って蒋経国と添い遂げたようですから、そのことは蒋経国の人徳というか、彼の優しさが背景にあったのではないでしょうか。なにやら想像をたくましくさせられるお話です。
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2月23日。私は、還暦を迎えました。よくぞここまで辿り着いたものです。
さて、22日昼頃、江蘇省宜興市から戻ってきました。21日は良い天気でしたが、風が強かったです。22日は朝から雨で、天気予報の通りでした。宜興の見物は、21日に済ませて、22日は朝8時20分宜興発のバスで上海に戻りました。
奉化渓口の蒋介石ゆかりの地の説明です。蒋介石が息子の蒋経国に住まわせた小洋房(しょうようぼう=小洋館の意味)です。小洋房は、蒋介石夫妻が住んだ文昌閣のすぐ隣にあります。文昌閣がこの辺りでは、一番高いところにあるので、小洋房は文昌閣から見下ろされる位置にあります。
小洋房は1930年に蒋介石が建てさせたのですが、どうも外国人を住まわせる為に作ったようで、外国籍の顧問等が住人の名前に挙がっています。しかし、一番有名な住人は、蒋介石の息子蒋経国です。
カン州の所でも、説明しましたが、蒋経国はモスクワ中山大学に留学し、スターリンとトロツキーの闘争に巻き込まれたり、国共関係の悪化等により、シベリアに幽閉されたりしましたが、1937年4月にソ連から渓口に戻り、同年秋にカン州へ移動しています。カン州で善政を敷いたことはカン州のところで説明しました。
ソ連に行く前既に蒋経国は蒋介石が決めた浙江省の中国人の娘と結婚していたのですが、ソ連から戻る時にはベラルーシ(白ロシア)人のFinaと、彼女との間にできたAllenと呼ばれる息子(蒋介石の孫です)と一緒でした。
蒋経国は、この小洋房で蒋介石から半年閉門読書を命じられ、主として漢籍の読書をしたようです。また「私のソ連に於ける日々」という回想録を書いているようです。蒋介石は、この期間、蒋経国の赤化傾向を払拭しようとしたそうです。「赤化傾向」という言葉が、小洋房の中の説明板に括弧もつけずに書かれていたのには驚きました。
話が飛びますが、英語のredは中国語では通常「紅」です。中国語で「赤」は、「裸」の意味で使われることが多いようです。日本でも赤裸々とか、赤子(せきし)とか、この意味で使われます。文化大革命の最中に促成の医務員のことを「赤脚医生」(せっきゃくいせい)と言いましたが、「裸足の医者」と訳されていました。しからば、この小洋房の説明板(勿論中国語です)で、どうして「紅化」と言わずに「赤化」と書いたのでしょうか。私の推測ですが、日本語の「赤化」が蒋介石というか、国民党政府に伝わり、彼らの間で共産主義の風潮に染まることを「赤化」と行ったのではないかと思います。
写真は陸地側から見た小洋房です。その先にセン渓が見えます。文昌閣は写真右手の高台にあります。銘板が見えますが、「全国重点文物保護単位 蒋氏故居[小洋房]」とあり、1996年に中華人民共和国国務院が指定し、浙江省人民政府がこの銘板を掲げたとあります。小洋房だけでなく、文昌閣や武嶺学校等蒋介石一連の建物が「蒋氏故居」の指定を受けて、保護されているようです。
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さて、22日昼頃、江蘇省宜興市から戻ってきました。21日は良い天気でしたが、風が強かったです。22日は朝から雨で、天気予報の通りでした。宜興の見物は、21日に済ませて、22日は朝8時20分宜興発のバスで上海に戻りました。
奉化渓口の蒋介石ゆかりの地の説明です。蒋介石が息子の蒋経国に住まわせた小洋房(しょうようぼう=小洋館の意味)です。小洋房は、蒋介石夫妻が住んだ文昌閣のすぐ隣にあります。文昌閣がこの辺りでは、一番高いところにあるので、小洋房は文昌閣から見下ろされる位置にあります。
小洋房は1930年に蒋介石が建てさせたのですが、どうも外国人を住まわせる為に作ったようで、外国籍の顧問等が住人の名前に挙がっています。しかし、一番有名な住人は、蒋介石の息子蒋経国です。
カン州の所でも、説明しましたが、蒋経国はモスクワ中山大学に留学し、スターリンとトロツキーの闘争に巻き込まれたり、国共関係の悪化等により、シベリアに幽閉されたりしましたが、1937年4月にソ連から渓口に戻り、同年秋にカン州へ移動しています。カン州で善政を敷いたことはカン州のところで説明しました。
ソ連に行く前既に蒋経国は蒋介石が決めた浙江省の中国人の娘と結婚していたのですが、ソ連から戻る時にはベラルーシ(白ロシア)人のFinaと、彼女との間にできたAllenと呼ばれる息子(蒋介石の孫です)と一緒でした。
蒋経国は、この小洋房で蒋介石から半年閉門読書を命じられ、主として漢籍の読書をしたようです。また「私のソ連に於ける日々」という回想録を書いているようです。蒋介石は、この期間、蒋経国の赤化傾向を払拭しようとしたそうです。「赤化傾向」という言葉が、小洋房の中の説明板に括弧もつけずに書かれていたのには驚きました。
話が飛びますが、英語のredは中国語では通常「紅」です。中国語で「赤」は、「裸」の意味で使われることが多いようです。日本でも赤裸々とか、赤子(せきし)とか、この意味で使われます。文化大革命の最中に促成の医務員のことを「赤脚医生」(せっきゃくいせい)と言いましたが、「裸足の医者」と訳されていました。しからば、この小洋房の説明板(勿論中国語です)で、どうして「紅化」と言わずに「赤化」と書いたのでしょうか。私の推測ですが、日本語の「赤化」が蒋介石というか、国民党政府に伝わり、彼らの間で共産主義の風潮に染まることを「赤化」と行ったのではないかと思います。
写真は陸地側から見た小洋房です。その先にセン渓が見えます。文昌閣は写真右手の高台にあります。銘板が見えますが、「全国重点文物保護単位 蒋氏故居[小洋房]」とあり、1996年に中華人民共和国国務院が指定し、浙江省人民政府がこの銘板を掲げたとあります。小洋房だけでなく、文昌閣や武嶺学校等蒋介石一連の建物が「蒋氏故居」の指定を受けて、保護されているようです。
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