まい、ガーデン

しなしなと日々の暮らしを楽しんで・・・

夏は時代小説

2015-08-06 07:38:52 | 

なんて、限られたジャンルしか読まないから少し大げさかな。

躰動かすのがいやで引っくり返っているから時間を持て余す、ただの怠け者。ま、いっか。
で、引っくり返って本を手に取る。
こんなときはしみじみと、時代小説人情もの。これがいちばん。
私にとっては北原亞以子さん『慶次郎縁側日記』シリーズ。先週は2冊「あした」と、

『雨の底』  

蓬田やすひろさんの挿画と新潮社装幀室の表紙を見ただけで、いっきに江戸の世界に引き込まれる。

根岸で酒問屋山口屋の寮番をしている慶次郎と飯炊きの佐七。

私が好きなふたりの関係。たとえば。

花ごろもや八丁堀や、辰吉のいる天王町など、出かける先はいくらでもある慶次郎にくらべ、
(「花ごろも」にはいい仲のお登世がいて
「八丁堀」には息子夫婦と可愛い孫の八千代がいて医者の庄野玄庵宅 隣家の島中賢吾を訪ねて昔話ができる)
佐七が世間話をしに行けるのは、時雨岡のよろず屋くらいしかない。

そんな佐七の心中を思い、

二晩つづけて花ごろもに泊まるより、一日か二日おいて泊まる方が佐七の機嫌をそこねずにすむだろう。
なぜそんなに佐七に気を遣うのだと言われたことがあるが、
気遣いは浮世で暮らすもののつとめだと慶次郎は思う。

「気遣い」は浮世で暮らすもののつとめだと・・・もうこの文だけで泣ける。
だからこその慶次郎の佐七への心遣いは

佐七と約束した時刻に戻れない。遅れれば、佐七は露骨に顔をしかめる。
「旦那の顔も見たくない」と言うので出てきたのだが、帰る途中で何軒かの煎餅屋へ寄って、
厚いのや薄いのや、かたいのや少しやわらかいのや、幾種類かを買ってゆかねばならないだろう。

なんてところにも表れて・・・いっそう慶次郎の懐の深さにやられる。

そのいっぽう、

のめのめと、という言葉を思い出すこともある。
(略 妻と娘をあの世に送りながら 妻の心残りや、娘の口惜しさを思えば)
のめのめと生きながらえて、二人が口にしなかったような料理に舌鼓をうっていてよいのかと、
忸怩たる思いにとらわれる。だが、慶次郎の煩悩は花ごろもへの道をいそがせるのだ。

こんな男くささもあって。

私は、同じ北原さんの「深川澪通り木戸番小屋」シリーズより縁側日記の方が圧倒的に好きだ。


佐七がよろず屋に出かけていく。半刻あまりもたってから帰ってきた。
よろず屋夫婦の来し方を、つめたい麦湯を飲みながら聞いていたそうだ。
「明日っからお盆だろ。俺達にももうじきお迎えが来るって話から、身の上話になったんだけどさ。
旦那、あんな皺くちゃな人間にも、つやっぽくて波乱があった昔があるんだね」

こんなセリフを書かれちゃあ、横向いて鼻をすすりたくなるというもの。


『雨の底』は2009年の執筆作品。北原さんは2013年亡くなったから、

慶次郎シリーズは『乗合船 慶次郎縁側日記』(新潮社 2014年3月)- 最終巻
を残すのみになった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする