まい、ガーデン

しなしなと日々の暮らしを楽しんで・・・

12月の声を聞くと

2017-12-03 08:57:52 | くらし

師走のせわしない気持ちよりも、どうしても思い出してしまう123の数字並びの出来事。
何年に起きたかことかは曖昧だが月日だけはしっかり覚えている。

12月3日。
私が買い物に出ていたとき正午前だったと思う。
帰って来たら玄関にまだ現役だった夫が仁王立ち。
「ばあちゃんが倒れたってじいちゃんから電話があったぞ、すぐに帰れ」って。
その年の10月に父が1回目の脳梗塞を患い、幸い体には後遺症が残らず言語障害だけが残っていた。
私も看病に帰っていたが、もろもろの用事があり一時自宅に。その間従弟が心筋梗塞で死亡。
お葬式に出て2,3日後に再び佐渡に帰ろうとしていた矢先のできごと。せっかちな母は待っていられなかった。

帰れと言われても冬の最中のこと、どんなに急いでも船は19時半発22時着のフェリーにしか乗れない。
誰に何を連絡したかも今となってはよく思い出せない。
ともかく船が佐渡汽船に着いたらマサチャンママが待っててくれて、車で国仲の病院に連れて行ってくれたこと。
病室ではお隣のヤマグチサンが母に付き添っていてくれたこと。
このことだけは鮮明に覚えている。どんなにありがたかったことか。

12月12日。
母が倒れてからというもの、私は父と佐渡生活を送っていた。
その日はハイキングの会の忘年会だった。
私は朝食を食べ終え、こたつでテレビ「趣味の園芸」を観ていた。
まだゆっくり食べていた父が「何時に家を出るんだ」と聞いて。「もうすぐだよ」と返事をした。
父は食事を終え流しで食器を洗ったあと、歯磨きをするために洗面所へと廊下に出た。
途端、ものすごい大きな音が。
どうしたのかとこたつから飛び出て戸を開けてみると、父が洗面所の前で倒れていた。
2回目の脳梗塞の大きな発作。

日本海側の厳寒の時期のできごと。
母が倒れた日もとても寒かったと聞く、現にその日は脳疾患の救急の患者が3人いたと。
母は脳出血で7年間、ひと言も話さず口から食べることなく介護施設でお世話になった。
声をかけるとじっと見つめ手を握ると強い力で握り返した、その力が健康状態を知る手掛かりだった。

父は洗面所前で倒れてから約半年で旅立った。
最初の4か月くらいは、全身麻痺でも頭はしっかりしていて声掛けによく反応してくれた。
4月の半ば、また発作が起きたらしくその後寝たきりになってうんともすんとも反応しなくなってしまった。

施設でも病院でもほんとうによく看ていただいて感謝しかない。
マサチャンママ遅刻友はじめ近所の人、佐渡生活でできた知人友人との何気ない世間話や何かがなかったら
私は母を見舞いながら父との5年間を乗り切れなかったとつくづく思う。

12月21日。
母のすぐ下の妹、叔母が施設で亡くなった。
その日の夕食後、叔母の家の近所の人が誘ってくれて施設に面会に行った。
頭はしっかりしていた叔母はとても喜んでくれて帰るだんになると「ありがとう、また来てくれえや」
とみんなに何度も言って。

帰って11時過ぎのテレビ「ぷっすま」を観ていたら、叔母が亡くなったとの電話。
さっきまで元気だったのにと驚いたのなんの。
またもや近所の人の車に同乗させてもらって施設に引きかえし、叔母を家に連れて帰った。
東京に住んでいる長男が来るまでの間、夜通し叔母のそばに付き添った。

施設でお世話になっていた皆に「ありがとう」と感謝する叔母は、職員の方に好かれていた。
二人の子供には会えなかったけれど、最後まで苦しむことなく会える人には会って逝った叔母は
私の理想とする逝き方だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする