雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

人事の話 昔話ー27

2007-02-04 06:29:20 | カワサキ単車の昔話
人事の話

サラリーマンにとって人事は最大の関心事である。

1981、2年頃HY戦争の余波もあって二輪車業界が大変になった時期がある。
カワサキもアメリカのKMCを中心に存亡の危機と全社的に問題になっていた。

81年にKMCに高橋、田崎さんが行かれた。KMCが大変だったのである。
82年4月には山田専務が全社的見地で単車を担当することになった。

いろいろ話はあったのだが、5月末になって、「富永君をKMCの企画に出して欲しい」いう具体的な話が、KMCの高橋さんから正式にあって時期は年末ということで、基本的に了解をした。

富永君は販社籍だから、例外的な人事であった。メーカーサイドには本当に販売の解る人が少なかったのである。4月に東京の責任者で異動したばかりであったが、「お家の一大事」と言うことで、年末という時期で了解をした。


7月1日の早朝、山田専務から自宅に電話があり本社に出頭せよとの指示があった。

事業部の企画に戻れという話である。これは大変なことだと思った。

山田さんは中学の先輩でもあり、レースで一緒だったこともあって話し易かったからだとは思うが、自分の異動に条件をつけたのは、この時だけである。

今回は事業全体の危機である。そしてKMCをはじめ販社に問題がある。
原因はトータルの仕組みの問題で、その対策にはある程度自信はあったが、旗を振るには力が無いと思った。

「KMCの高橋さんに戻って頂けませんか」「技術の解る人を一人」山田さんは、その日は即答はされなかった。

それから3ヶ月、いろいろあったのだが、
10月1日、高橋さんは企画室長で戻られ、大前さんが技術、特に生産関係を援けてくれることになった。
技術オンチの私は生産関係は任せて、世界の販社関係、特に田崎さんが担当したKMCの応援に専念できる体制になった。

全軍に旗を振る高橋さんが居られて、はじめて機能した体制だったと思う。


富永君には日野君もつけて、10月KMCに出向となった。
その後、二人はKMCで大いに活躍した。
マーケテングや販売管理面に精通したプロだったので、話が通じやすく助かった。

人事というのは、運みたいなものがある。

3月ごろ、高橋さんからの話ではじまった富永君の人事だったが、その時私が了解したので一緒にまた仕事をすることになり、高橋さんはアメリカから日本へ戻られた。
田崎さんはKMCの重責をひとりで背負うこととなった。

いろんなことがあったが結果が上手くいったので、本当に良かったと思っている。
コメント (5)
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