雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

岩崎茂樹君のこと 昔話ー28

2007-02-07 06:24:53 | カワサキ単車の昔話

岩崎茂樹君のこと

先日、haradaさんなる方から、「川重の岩崎さん(故人)には非常に感謝しています。人生の分岐点に本音のアドバイスを頂いたのが懐かしく感じます。」というコメントを頂いた。

いつか必ず登場して貰わねばならぬ、カワサキ単車の歴史を背負ったような人で、若い頃から亡くなる直前まで、お付き合い頂いた。

何故俺を早く登場させないのかと、冥土から督促されたような気もする。
少し,長くなるかも知れぬが、故人の供養と思ってお付き合い願いたい。


好奇心のかたまりのような人だった。
そして、それに詳しくならぬとおれぬ性格で、兎に角何でも知っていた。

兵庫県の生野高校野球部の出身で、当時全国的な強豪チームだったオール生野のメンバーに明石のOBが数多くいて、その人たちに高校時代コーチを受けたとか。
明石野球部OB関連の話は、明石野球部OBの私よりも数段詳しく、いつも私は聞き役だった。

渓流つり、狩猟、カワサキが本格的に単車をやる前から、ハーレーダビットソンに乗るなど多趣味でもあった。

彼とのはじめての出会いは、1962年まだ単車に本格的に参入していなかった時期、彼は本社の監査室にいて、構内運搬車関係の監査を受けたときである。

学習院を出た、「くろやなぎ君」という面白いのがいて、半年で20台位しか販売していないのに二重売上などがあったりして、どうしても台数や在庫が合わないのである。
直接、関係なかったのだが、引っ張り出されてボール紙を切って、20枚ほど作り車体NOを記入し、どこへ売ったここへ行ったと終日やったのが最初である。


その後、単車再建が決まり、本社からも人が集められたとき販売促進部に来て、単車でのお付き合いが始まった。私が広告宣伝、レースを担当していた頃である。

ハーレーに永年乗っていたこともあり、単車には詳しくレースの造詣も深かった。
兎に角、何でも知っていた。
私が東北に異動したあと、広告とレースを引き継いでくれた。

その後、矢野さんと九州の代理店営業を担当し、当時日本一ウルサイといわれていた鹿児島の金谷さんなど代理店と上手に付き合ったりされていたようだ。

直営部にもどり、生産から販売部門に出向された高橋さん(元川重副社長)の販売面での指南役みたいな感じで、一緒に走り回っていたようだ。
今の大阪営業所の土地、これは間違いなく高橋さんと岩崎君が残されたものである。

私が東北から大阪に戻ったとき、新しい営業所がその土地の上に建っていた。
丁度、大阪万博のあった年である。

当時私は、カワサキ共栄会などを作って大阪の販売網整備に専念していたのだが、
船場モータースの岡田さんとの間を、昔ハーレーのお客だった岩崎君が上手に取り持ってくれりした。


そんなカワサキオートバイ販売時代を経て、事業部の企画に戻るのだが、
ここでは田崎さん(現川重会長)と組んで、当時自動車業界で唯一のアメリカ工場であったリンカーン工場関係を担当していた。
事務屋であったが技術や生産でも器用にこなし、元来監査出身なのでそうは見えなかったが、数字にも強かった。

そして、高橋さんが市場開発プロジェクト室を立ち上げられたとき、私などと一緒にCKDビジネスを担当した。

みんな、はじめて経験する仕事だったが、彼が長で鶴谷君(現川重商事社長)と一番ややこしかったイランを担当し現地駐在もやっている。その頃の面白い話もいっぱいあるのだが。

その後、営業に戻って広報を担当しニューモデルの試乗発表会など世界を駆け巡り、内外の記者諸氏と関係があったので、ご存知の方も多いだろう。


彼と一緒に仕事をするようになったのは、私が企画から営業に移った1988年からである。

いろいろあったが、SPA直入の建設は特に想い出が多い。
サーキット建設、全くの未経験の分野だった。

建設業者もレースコースーの設計については何のノウハウもなかった。
コースのカーブの数、S字の形状、のぼり、下り勾配、パドックとの関係など、所謂コース設計のコンセプトは当方から建設会社に細かく指示をした。

サーキットの建設で、コースそのものよりも、動かす土量、水処理の費用のほうがはるかに金がかかるということもよく解った。
こんなことを踏まえながら、現地の形状などを見て、詳細な仕様を岩崎君と二人で決めた。

その知識を得るために、あちこちのレース場を観に走り歩いた。

本社の阿仁さんと岩崎君が居なかったらSPA直入は実現しなかったと思う。
阿仁さんは、こんな無謀とも思える計画の本社サイドへの説得を一手に引き受けてくれて、現場調査にも同行してくれた。

そして、直入が完成して「SPA直入」のネーミング
この名付け親は岩崎君である。

SPA直入のSPAは温泉と思っている方が殆どだが、ベルギーの有名なサーキット「スパ、フランコルシェン」のSPAを70%意識して名づけられている。
そんなサーキットが有名であることなど知らなかったが、後年「あのSPAはフランコルシェンのSPAですか」と聞いてくれた人がいる。

好感企業の時代という本を書かれた、中央大学の中江剛毅教授である。4輪の国内A級ライセンスを持っておられた。
感性の領域で好きと感じる、そんな好き嫌いの時代になる、と今後の世の方向を予測されていた。
直入をご案内したときの質問で、流石と思った。


晩年、彼はKMJで、物流関係を担当し手伝ってくれた。
その頃も、スズカのレースのたびに一緒に車で,鈴鹿への道を二人で走った。

その頃の話をもう一つ、スズカでテストをしていたとき、星野インパルも来ていた。
私と岩崎が来ていると聞いて、星野一義君が挨拶に来てくれた。
星野がカワサキにいた20才前後のころ、二人がレース担当だったからである。

周囲の連中が星野のサインを欲しがって貰っていた時、
「星野もいいが、右京のほうが」と言っていた。
まだ片山右京が星野のチームにいて、私などは右京が何人か、全然知らなかった。
そんな風に何でも知っていたのである。

退職してからも、狩猟の犬の散歩、散歩と言っても訓練だが、そのために三木近郊の山に来て、そのたびに家に訪ねてくれた。


そんな彼だったが、突然逝ってしまった。いい奴だったのに。ご冥福を祈りたい。


少々長くなりましたが、最後まで付き合って頂いて有難うございました。



コメント (16)
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