雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

昔話ー84 ブランドコンセプト-1

2008-01-21 04:37:17 | カワサキ単車の昔話
カワサキ単車の昔話もちょっとご無沙汰であった。
昔話をするよりも夢のある話のほうが、どうしても面白いのである。

先日、松下のブランド戦略の話題が世間を賑わして、これについてブログを幾つかアップした。

その中で、カワサキはブランド戦略だけは成功したと書いている。
私自身は、カワサキの知名度などよりは、カワサキというブランドの高質化に関心があり、それは達成されているという意味で成功と言っているのである。



カワサキのブランドは幾多の変遷を経て現在に至っている。
1950年代は、単なるエンジン供給メーカーであった。
発動機工場で、エンジンやらミッションなどの関連部品を製造していた。

納入先には、東洋工業、井関農機、本田技研にもミッションの納入があったようである。
単車のエンジンとしては、メイハツと井関に納入していた。
当時はブランドなど存在しなかったのである。

1960年代に入り、単車の一貫生産が始まり、メグロ製作所を吸収する頃からブランドという真似事の意識が芽生え出したと言っていい。
それも、誰も正式には意識などはしなかったと思う。

確かに「カワサキ」のマークがタンクマークに付けられてはいたのだが、
それはつけるものだという慣習に従ったぐらいのことである。

メグロもカワサキに参入したが、そのブランドはメグロのままであった。
ある展示会でペーペーの私が、勝手に「カワサキメグロ」と表示したら、しばらくそのように言われた時期もある。そんな程度であった。

幾らかでも、ブランドの意識やカワサキのロゴに関心が出来て、仕事として取り組み始めたのは1964年広告宣伝課が出来て、私がその担当を命じられてからだろう。

まず最初にカワサキのロゴを決めようということになって、当時では1億2千万円の途方もない金額の「事業開発費としての予算」を持っていたので、ロゴも有名な人に頼もうということになった。、

それで、東京オリンピックのポスターのデザイナー亀倉雄策に打診したら、
デザイン料が1億に近い金額を言われて、ビックリして社内のデザイナーに無料で創らせたりした。

広告の世界では、何事もその価値で価格が決まる。
「カワサキ」という4文字のデザインが幾らなのではなくて、
「カワサキ」という広告の基本の基本の4文字であるからこんなに高いのである。
今でも会社のシンボルマークなどは、みんな1億近い金が掛かるはずである。

同じ4文字でも商品名などだと安くなる。
同じタレントを半日拘束しても、雑誌に使うのと、テレビに使うのでは値段が違うのである。その効果によりその価値が判断されるのである。
こういう広告の世界の価値判断の基準は、その後いろんなことに多いに役に立った。



当時は、コーポレートカラーなどもなかった。
敢えて言えば、「赤」であった。
当時、モトクロスでタンクに赤が使われ、誰言うとなく「赤タンクのカワサキ」と呼ばれていたのである。
FISCOで初めて、世界GPに登場したときも、マシンのタンクは赤く塗られていた。

当時、ホンダのファクトリーはモトクロスには参戦していなかった。
確か、ホンダのロードのマシンのタンクは赤であった。
赤はもうひとつだと、思い出したのは、ロードレースに参画しだした65,6年頃からである。先輩格のホンダのカラーを勝手に使っていたのである。
それも内心私が思っただけで、そんなことに気付く人はいなかったと思うのである。

今、カワサキのコーポレートカラーは「ライムグリーン」である。
これは日本で決めたのではなくて、
広告の本場アメリカでKMCがレースにこの色を使い出して、日本に逆輸入されたはずである。



事ほど左様に、カワサキのブランド戦略などは、1960年代には殆ど存在しなかったし、意識するような人は殆どいなかったのである。

こんな昔話を綴ろうと思ったのは、ひょこむで今展開されている、こんな話題にその歴史として載せようと思ったからである。

ライムグリーンへの憧れ

ブランドの高質化というブログに寄せられたコメントに対して


カワサキのブランド戦略と言えるものがあるとすれば、それは1970年代から始まるのである。
その話は次に。
コメント (4)
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