雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキの販売経験者 昔話ー29

2007-02-13 06:15:49 | カワサキ単車の昔話
カワサキの販売経験者

カワサキの二輪事業において、販売の経験者、マーケッテングの解る人、これが極端に少ないのが特徴である。

これを解決するのは難しいが、課題ではあると思う。
昔話ではあるが、今の話なのかも知れない。

これは、事業展開が国内だけに絞られていた1960年代前半、販売に関係した人は、全てメイハツとメグロの人たちだったことから始まっている。
そのシステムは、ある意味、今でも続いている。

私はたまたまその頃(25才頃)営業に配属されたが、販売関係で上の人は全てメイハツ、メグロの人たちだった。
そんな平社員の頃の販売の経験は、私の体質となって非常に役に立ったと思っっている。

「若し仮に、カワサキ航空機の人たちで販売をやっていたら、多分、三菱や富士重やBSなどのように、この業界からの撤退を余儀なくされたであろう。
カワサキが生き残ったのは、国内ではメイハツ、メグロの人たち、アメリカではアメリカ人が販売を担当してくれたお陰だと思う。」

と社内の昇格論文に書いて怒られたが、今でも正しいと信じている。

海外市場の開拓期その中心となったのは、
ヨーロッパ、イギリスはメグロ出身の内田道夫君(故人)だった。彼はイギリスの後、カナダも担当した。
東南アジアの販売は、当時のカワサキオートバイの耕守正昭君や久後淳一郎君が担当し耕森君はその後ずっと東南アジアを担当し、エキスパートとして認められている。
先日も触れたが、アメリカのKMCの対策の一つとして富永邦彦君、日野勉君が逆出向をした。

この人たちはみな、入社当時からの販売経験者である。

川重籍で販売が解る人が、少なくなってきていることが心配である。
確かに、海外や国内の経験のある人はいるにはいるが、本当に若い時代から一線に近いところにいた人が少ないのである。

「管理職としての販売の経験ではなかなか本当のことは解らない」ということは、
北海道川重建機で二輪車と違う建設機械を経験してみてよく解った。

解ったような気がするだけである。
「そう思ってくれるといいのだが、本当に解ったと錯覚するのがこわい。」

少し楽観的なことをいうと、バイクが売れるのは「販売力ではない」圧倒的に「商品力」である。
Z,FX,ゼファーなどホンダさんと対抗できるほどよく売れたのは間違いなく商品力である。


確かに、難しそうな課題ではあるが、
基本的に「末端への視点」があり、本当に「末端を知ろうという心」があれば、経験などなくても解決するのかも知れない。








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SEAZ COMPANYのtoyamaさん

2007-02-12 06:22:08 | カワサキ単車の昔話
岩崎茂樹君(故人)のことを思い出して書いたブログに「岩崎さんのこと書いて頂いて有難うございました」というコメントを頂いた。

以前から、店の名前やHPは承知していた

旅行かばんとモーターサイクルが目に入る、所謂インターネットショップのホームページだが、アクセス数250000件、家の直ぐ近くだということ位が印象として残っていた。

直接お会いして、帰ってもう一度ホームページをじっくり見せて頂いて、これは改めてどうしてもご紹介しようと思ったのである。


もともと三木の出身だが、神戸にいて三木に戻ったこと、オートバイ屋もやったとか、Z1には特別の想いをもっておられるのは、直ぐ解った。

岩崎君とのいろいろな話、Z1が好きで好きでたまらないドイツ人Micky Hesseの話、
彼とKiyoさんの店を訪ねたこと、部品はマイスターの森田君のところから仕入れているとか、彼から私のことを聞いたとか、
Z1に関するKHIの人たちの懐かしい名前や写真がいっぱいあって楽しい会話が続いた。

途中からは、陸運局に出すZ2の資料を求めて、わざわざ堺から訪ねてきたお客さんも話しに加わって、いろんな懐かしい名前がどんどん飛び出す会話になった。

肝心のZ2の資料は沢山の資料から探しても見つからず、KMJのお客様相談室の能地君に直接電話したら、「資料はないがコピーなら証明して送れる」ということで解決した。
私もお役に立てて。ほっとした。


帰りに,Micky Hesseのサイン入りの「Z1KAWASAKI]と「900Z1」の夫々200ページ以上のZ1の写真と記事にあふれた、立派な本をお借りして家に戻った。

改めて、HPの中の「あるZ1の物語」を見て、是非ご紹介しようと思った。


「イタリヤ、アルプスの麓から1台のZ1が25年ぶりに祖国日本に戻り、toyamaさんの手元から、さらに生まれ故郷の明石に戻って、今、Kawasakiの資料館で他の仲間たちと一緒に、工場を訪れるカワサキファンとお会いできる日を楽しみにしている。」という感動の物語である。

そして、この物語は「何よりそれが私がこの店を始めた理由そのものですから。」と結ばれて終わっている。


ドイツ語と英語だけで書かれているこの本の見開きのページに
「温故知新」という日本語があり、「on ko chi shin]と書かれている。

Micky HesseがZ1の本を作ろうと計画したがなかなか上手くいかず困っていた時に、偶然出会ったのが岩崎茂樹君だったそうである。

「カワサキは、新しいバイクの販促には熱心だが、Z1のような旧いバイクには関心がないのか」というHesseの質問に対して、
岩崎君は箸袋に「温故知新」と書きその意味を説明したのだという。

それに感激をしたMicky Hesseが、この本のサブネームとして「温故知新」を採り入れているという。

岩崎君を知っている人ならみな、「岩崎らしいな」と思ういい話である。
haradaさんのコメントから書き出した「岩崎茂樹君(故人)のこと」は思わぬ展開を見せたが、いい話が出来て、故人の供養になったと思っている。


カワサキファン、Zを愛する方たちは勿論、バイクを愛する方どなたも。
是非ご一読をお奨めする。

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ふれあいミーテングー2

2007-02-11 06:17:02 | M/Cレース
つい先日のことだが、「忍者の伊藤さんの記事に出てくる、野崎さん(故人)は野崎輪業さんのことですか」と問い合わせて頂いた方がいる。

生駒市でカスタムペイントとモータースポーツ企画、運営をやっている「はっぴいえんど」さんである。

野崎さんとは、大阪時代の懐かしい思い出がいっぱいある。

古石君が担当していて、特に野崎さんと吉永さんとには特別の思い入れのあるようなお付き合いをしていた。
営業所と販売店といった関係を越えたお付き合いだったと思う。

そんな風になってしまう、ひょうひょうとした独特の雰囲気を野崎さんは持っていた。
多分「はっぴいえんど」さんも同じような,想いを持っておられての、お問い合わせだったのだと思う。

MFJのふれあいミーテングではお会いすることも出来なかったが、是非、機会があればお会いしてみたいと思う、そんな方である。

ふれあいミーテングについて書かれたブログの中で「雑感日記」にも触れて頂いたので、多くのの方が訪れて頂いた。


このところ急に、いろんな方たちの訪問が相次いで驚いている。

名西カワサキの西村さん。お久しぶりである。

Z1-1000J系のオーナーズクラブのTAKさん。メンバーの皆さんに紹介して貰った。

マッハⅢクラブの白いカレーマッハさん。先日、和田君やkiyoさんたちとマッハ35周年をやったとか。

SEAZ COMPANYのtoyamaさんなど
特に、toyamaさんは私と同じ町内なのでお店に立ち寄ってみたら、岩崎君の話やドイツ人のMicky HesseのZ1の本のことなど、途中堺から来たZ2のお客さんも加わって話の尽きぬ2時間だった。
toyamaさんについては、いろいろと思うところもあるので、また別の機会に。

このクラスになると、TAKさんのこともHappyendさんのことも忍者の伊藤さんのこともみんな知っている。
話の途中で、KMJのお客様相談室の能地君に電話してお客さんが探し回っていた資料を見つけて貰ったりした。

私は能地君に顔が利いて面目が保てた次第である。

そして、岩崎君の奥様からも丁寧なコメントを頂いた。

先週のMFJふれあいミーテングに続く私のふれあいミーテングであった。





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ばらの剪定

2007-02-10 06:22:16 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
立春が過ぎた。
春が近づいているのだから、だんだんと暖かくなっていくのは普通だろうが、今年はそれにしても暖か過ぎる。

例年だと、2月10日を過ぎた頃にばらの剪定をするのだが、今年のこの陽気では少し早めるべきではないかと勝手に判断して5日に剪定をすませた。

植木でも、植物でも育てようと思うものを残して、間引きをしたり形を整えるための剪定をする。

ばらも同じことだが、ばらの場合は出てくる枝の角度、そこから更にどんな形になりどのように花を咲かすのか、その姿に思いをめぐらして剪定をする。

3月頃から更に形を整えていく。
植木などと違って、5月には完成された結果が見れる。

それが想定した通り、見事に咲くと達成感があっていい。
たった3ヶ月で結果が出るし、そのまま11月までいろんな風に楽しめるのがいい。

いらちな性分の人が釣りに向くなどと言われるが、ばらも私のようないらち向きだと内心思っている。

つるばらも、枝の方向をいろいろ考えて咲いた風景を想像しながら枝を結わえていく。何となく絵を描く心境である。

これも3ヵ月後に絵が完成する。

木ばら、つるばら合わせて60本ばかりだが、狭い庭なので5月中ごろから最盛期は、ばらで埋め尽くされた光景になる。

その絵を、一応アタマに描いて剪定したのだが、計画通りいくだろうか。

私個人の小さな夢だが、そんな夢でも想い通りに実現すると嬉しいものである。
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雑感日記

2007-02-09 06:17:11 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
昨年の9月9日、おそるおそるブログをはじめて丁度6ヶ月経った。今、私の生活の一部になっている。
最近は、特にいろいろとご紹介をして頂ける機会もあり、何となく認めて頂けているような気がして嬉しい。

普通なら出会えるはずのない方と、ブログを通じて出会えた事も続ける励みになっている。


最初から今日まで、カワサキなどを中心にいろんなことに触れているが、ずっと心掛けていることの一つに、「これは、この人には読んでほしい」と願って「そのひと」を思い浮かべて書いている。

「読んで欲しいと思う人が、このブログがあることを知っているかどうか」も解らないのだが,想いだけはそんな風に心掛けている。

ある意味、loveletterを書いている心境である。
届かないかも知れない手紙、映画「硫黄島からの手紙」を観ながらそんなことも思った。


何人のひとが、どんな人が、どんな時間に、どんな記事を、などのアクセス解析が仕組まれていて毎朝それを見ることから1日が始まる。

今週など400人近い方が、訪れていただいているが、間違いなく毎朝訪ねてくれる「服部カワサキのホームページ」からのお客様や、コメントで支えて頂いている大槻さんや山本隆君に感謝したい。

今週アクセスが増えたのは、「小林ゆきさんのバイクブログ」で紹介頂いたこともあるが、デグナーから出会ったスズキの中野さんなどといろいろ繋がっている。
私が小林ゆきさんを知ったのは、KAZEの広報誌であった。

ネット社会の繋がりや、広がりは想像以上のものがある。


今後も、今までお世話になった方々へのお礼状の積りで「雑感日記」を続けていきたい。

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JALの再生対策をみて思うこと

2007-02-08 06:24:18 | 発想$感想
われわれの年代にとっては、JALは日本を代表する優良企業であった。

何となく国営企業というイメージはあったが、それ故に体質的にはいろいろあっても、経営状況が問題になるというのは考えられないことであった。

そのJALがいつの頃からか、経営的にも問題がささやかれたり、全日空との競争力に差が生じてきているとか、本当にイメージ面でも差が出てきたと言われだして今日に至っている。

部外者なので、本当のところ何が問題であったのか解らぬが、
イメージの悪化が原因で客離れを起こしたとするなら、その対策、「優良なイメージの回復」は非常に難しい問題であるだろう。


あの御巣鷹山の大事故の翌日、私はJALに乗ってロスまで出張している。
流石に空いてはいたが、事故の翌日であってもJALが危険という印象など微塵もなかった。

航空機を選ぶとき、どんなことが選択肢になるのだろうか。
所要時間は同じ、食事などの機内サービスも幾らか違うが決定的な要素ではないだろう。
安全、これは大きい。危険度、然しこれは陸上の車の危険度に比べたら、確率的には非常に安全な乗り物である。
料金はかなりの要素にはなるが、幾ら安くとも選ぶ航空会社群の枠外のものは歯牙にもかけなかった。

枠外の航空会社の内容を知っていたわけではない。何となくその会社に持っていた印象である。
そういう意味で、若しJALの印象がそのように劣化している場合は、その回復はなかなか骨が折れると思うのである。


昨日、JALは今後の対策を発表した。
4300人の人員削減をする。
10年度の目標、営業利益880億円。
社長の給料を年収960万円にする。それは部長の水準である。
10年度までに復配する。
「結果が出なければ辞める」と受け取って頂いて結構。

西松社長のこの発表はインパクトはある。人は一瞬立ち止まって振り返る。

安全とか、事故対策とは直接関連はないが、
私は「第一歩を成功の道筋の方向に踏み出した」と思う。

退路を断って、難しい目標を掲げ、苦難な道だが懸命に歩こうという決意表明は、人の心に訴えるものがあるはずである。

航空機を利用する人たちだけでなく、航空機を余り利用しない一般の人たちに対する対策こそ肝要である。

何故なら、イメージとは一般大衆が造り上げるものである。

まず、一般大衆が「よく頑張ろうとしている、応援をしようか」と何となく思ったら、それは脈があると思うのである。

不二家には、それが見えない気がする。

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岩崎茂樹君のこと 昔話ー28

2007-02-07 06:24:53 | カワサキ単車の昔話

岩崎茂樹君のこと

先日、haradaさんなる方から、「川重の岩崎さん(故人)には非常に感謝しています。人生の分岐点に本音のアドバイスを頂いたのが懐かしく感じます。」というコメントを頂いた。

いつか必ず登場して貰わねばならぬ、カワサキ単車の歴史を背負ったような人で、若い頃から亡くなる直前まで、お付き合い頂いた。

何故俺を早く登場させないのかと、冥土から督促されたような気もする。
少し,長くなるかも知れぬが、故人の供養と思ってお付き合い願いたい。


好奇心のかたまりのような人だった。
そして、それに詳しくならぬとおれぬ性格で、兎に角何でも知っていた。

兵庫県の生野高校野球部の出身で、当時全国的な強豪チームだったオール生野のメンバーに明石のOBが数多くいて、その人たちに高校時代コーチを受けたとか。
明石野球部OB関連の話は、明石野球部OBの私よりも数段詳しく、いつも私は聞き役だった。

渓流つり、狩猟、カワサキが本格的に単車をやる前から、ハーレーダビットソンに乗るなど多趣味でもあった。

彼とのはじめての出会いは、1962年まだ単車に本格的に参入していなかった時期、彼は本社の監査室にいて、構内運搬車関係の監査を受けたときである。

学習院を出た、「くろやなぎ君」という面白いのがいて、半年で20台位しか販売していないのに二重売上などがあったりして、どうしても台数や在庫が合わないのである。
直接、関係なかったのだが、引っ張り出されてボール紙を切って、20枚ほど作り車体NOを記入し、どこへ売ったここへ行ったと終日やったのが最初である。


その後、単車再建が決まり、本社からも人が集められたとき販売促進部に来て、単車でのお付き合いが始まった。私が広告宣伝、レースを担当していた頃である。

ハーレーに永年乗っていたこともあり、単車には詳しくレースの造詣も深かった。
兎に角、何でも知っていた。
私が東北に異動したあと、広告とレースを引き継いでくれた。

その後、矢野さんと九州の代理店営業を担当し、当時日本一ウルサイといわれていた鹿児島の金谷さんなど代理店と上手に付き合ったりされていたようだ。

直営部にもどり、生産から販売部門に出向された高橋さん(元川重副社長)の販売面での指南役みたいな感じで、一緒に走り回っていたようだ。
今の大阪営業所の土地、これは間違いなく高橋さんと岩崎君が残されたものである。

私が東北から大阪に戻ったとき、新しい営業所がその土地の上に建っていた。
丁度、大阪万博のあった年である。

当時私は、カワサキ共栄会などを作って大阪の販売網整備に専念していたのだが、
船場モータースの岡田さんとの間を、昔ハーレーのお客だった岩崎君が上手に取り持ってくれりした。


そんなカワサキオートバイ販売時代を経て、事業部の企画に戻るのだが、
ここでは田崎さん(現川重会長)と組んで、当時自動車業界で唯一のアメリカ工場であったリンカーン工場関係を担当していた。
事務屋であったが技術や生産でも器用にこなし、元来監査出身なのでそうは見えなかったが、数字にも強かった。

そして、高橋さんが市場開発プロジェクト室を立ち上げられたとき、私などと一緒にCKDビジネスを担当した。

みんな、はじめて経験する仕事だったが、彼が長で鶴谷君(現川重商事社長)と一番ややこしかったイランを担当し現地駐在もやっている。その頃の面白い話もいっぱいあるのだが。

その後、営業に戻って広報を担当しニューモデルの試乗発表会など世界を駆け巡り、内外の記者諸氏と関係があったので、ご存知の方も多いだろう。


彼と一緒に仕事をするようになったのは、私が企画から営業に移った1988年からである。

いろいろあったが、SPA直入の建設は特に想い出が多い。
サーキット建設、全くの未経験の分野だった。

建設業者もレースコースーの設計については何のノウハウもなかった。
コースのカーブの数、S字の形状、のぼり、下り勾配、パドックとの関係など、所謂コース設計のコンセプトは当方から建設会社に細かく指示をした。

サーキットの建設で、コースそのものよりも、動かす土量、水処理の費用のほうがはるかに金がかかるということもよく解った。
こんなことを踏まえながら、現地の形状などを見て、詳細な仕様を岩崎君と二人で決めた。

その知識を得るために、あちこちのレース場を観に走り歩いた。

本社の阿仁さんと岩崎君が居なかったらSPA直入は実現しなかったと思う。
阿仁さんは、こんな無謀とも思える計画の本社サイドへの説得を一手に引き受けてくれて、現場調査にも同行してくれた。

そして、直入が完成して「SPA直入」のネーミング
この名付け親は岩崎君である。

SPA直入のSPAは温泉と思っている方が殆どだが、ベルギーの有名なサーキット「スパ、フランコルシェン」のSPAを70%意識して名づけられている。
そんなサーキットが有名であることなど知らなかったが、後年「あのSPAはフランコルシェンのSPAですか」と聞いてくれた人がいる。

好感企業の時代という本を書かれた、中央大学の中江剛毅教授である。4輪の国内A級ライセンスを持っておられた。
感性の領域で好きと感じる、そんな好き嫌いの時代になる、と今後の世の方向を予測されていた。
直入をご案内したときの質問で、流石と思った。


晩年、彼はKMJで、物流関係を担当し手伝ってくれた。
その頃も、スズカのレースのたびに一緒に車で,鈴鹿への道を二人で走った。

その頃の話をもう一つ、スズカでテストをしていたとき、星野インパルも来ていた。
私と岩崎が来ていると聞いて、星野一義君が挨拶に来てくれた。
星野がカワサキにいた20才前後のころ、二人がレース担当だったからである。

周囲の連中が星野のサインを欲しがって貰っていた時、
「星野もいいが、右京のほうが」と言っていた。
まだ片山右京が星野のチームにいて、私などは右京が何人か、全然知らなかった。
そんな風に何でも知っていたのである。

退職してからも、狩猟の犬の散歩、散歩と言っても訓練だが、そのために三木近郊の山に来て、そのたびに家に訪ねてくれた。


そんな彼だったが、突然逝ってしまった。いい奴だったのに。ご冥福を祈りたい。


少々長くなりましたが、最後まで付き合って頂いて有難うございました。



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MFJ近畿新春ふれあいミーテング

2007-02-06 06:46:03 | M/Cレース
MFJ近畿新春ふれあいミーテングが大阪南港のウエルサンピアなにわで開催された。

山本隆君がブログのコメントで、「懐かしい連中が沢山きますよ。来られませんか」と誘ってくれてた。昔々、MFJの運営委員をしていたり、レースの担当などしたこともあって、旧交を暖めたいと出かけたのである。

午前中はロード、モトクロス、トライアルなど各部門の表彰式があり、午後からはふれあいパーテイで沢山の人たちで、賑やかだった。

初対面ではあったが、MFJの中垣常務理事ともお会いできた。。
ホンダのご出身ということで、昔お世話になったホンダの宗国さんや,佐藤英明さん、水島さんなど安全運転やNMCAでの思い出など、いろんな話もできた。


パーテイで先方から挨拶された。「ご無沙汰しています。北川です。」一瞬誰かと思ったが、直ぐ解った。
北川圭一君、カワサキにいてその後、スズキに移籍した。

このパーテイのメインゲストだった。
世界耐久選手権で2年連続世界チャンピオンとなり、引退して「ケイレーシング」を故郷の京都で開いたところとか。

世界チャンピオンになったことなど、知らなかった。先輩ライダーたちが、「何といっても北川が一番」と言っていたが、昔の通り謙虚な態度に好感が持てた。

北川君が京都営業所の吉川君の推薦で「チームグリーン」に入ってきた、その頃の印象が一番残っていて、世界チャンピオンになった今もその通りの好青年であったことが嬉しかった。


山本隆、金谷秀夫、和田正宏、吉村太一、田中隆造君ら懐かしい人たちと40年前と同じように話が出来て、本当に楽しかった。
金谷にはZ1会に入るよう薦めて、帰宅後すぐ手続きをした。

みんな既に還暦を迎えているのである。

山本君は、流石にトライアル委員長は辞めたと言っていたが、太一ちゃんも、田中、和田くんも、今もなおMFJの現役役員として後輩の面倒を見ているのは、本当に立派だと思った。

あと二人、懐かしい人に会えた。二輪車新聞記者の衛藤さんとKMJ大阪の古川君、昔話に花が咲いた。


帰りは私の車で、山本君を加古川の駅まで送った。道中の会話がまた楽しかった。
4月のアネックスでのビンテージモトクロスには出場するというので、64歳の山本がどのような走りをするのか、見てみたい。

本人曰く、「トライアルは流石に駄目ですが、モトクロスはそこそこ走れます」

楽しみである。立春の日曜日、私にとっていい1日であった。
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KAZEの思い出

2007-02-05 06:30:11 | ジェットスキー&KAZE
今なお現役のKAZEメンバーである。
先日、家に本年度の更新葉書が届いた。勿論更新した。

1988年10月、3度目の国内担当となった。
当時まだ47000台であった実績をカワサキの「イメージ戦略」をベースに「目標70000台」の達成をめざす、という難しい課題を与えられての担当であった。

12月までの3ヶ月間、今、思い出しても無茶苦茶、仕事をした。

まず、10月15日、レースのファクトリーチーム結成25周年記念を芦屋の竹園ホテルで開催することからスタートした。
どうしても原点のレースからスタートを切りたかった。

続いて、業界初の新価格体系の発表、新コンセプトのKAZEの検討、それを実現するための新ソフト会社の設立構想、ジェットスキー会社の新体制。など、年度末の多忙な時期ではあったが一挙に実施した。

井川、富永、南、山田、森、谷沢君などなど、若手諸君の健闘で100%基本のコンセプト段階の成果をあげた。

2年半後の1991年5月、難しい目標の70000台は達成出来たのである。
同時に、最も基本的な目標であった「カワサキのイメージ向上」も大きく前進した。

その原動力になったのはKAZEだと思っている。


それまでもKAZEの組織はあった。
これらは、カワサキシンパの販売店中心の運営によってなされていた。

新しい課題、とくに「カワサキのイメージの向上」のためには、どうしても従来の枠に捉われない新しい発想が必要であった。

カワサキのユーザーだけでなく「もっと視野をひろげて考える」  これが、基本である。

カワサキだけでなく、どなたでも。
バイクに乗る人も、乗らない人も。
レースのように周りでサポートするバイクを持っていない人たちも。
バイクだけでなく、ジェットスキーの人たちも。
カワサキに関心のある方は、どなたでも。

Kawasaki Amuzing Zone for Everybody」を略して「KAZE」のネーミングのなかで、「Everybody」こそがキーワードである。

そして、バイクやジェットスキーの遊びをサポートするソフト専門会社KSSの設立など、「遊び半分では、ホントの遊びは出来ない」というようなことが、「基本コンセプト」であった。

そんなKAZEは、他メーカーの活動がなくなった今もなお、活動を続けている。

バイクもジェットスキーももっていないが、私は今もなお、現役のKAZE会員である。
ひょっとしたら、会員の中で一番年上かも知れないと思っている。
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人事の話 昔話ー27

2007-02-04 06:29:20 | カワサキ単車の昔話
人事の話

サラリーマンにとって人事は最大の関心事である。

1981、2年頃HY戦争の余波もあって二輪車業界が大変になった時期がある。
カワサキもアメリカのKMCを中心に存亡の危機と全社的に問題になっていた。

81年にKMCに高橋、田崎さんが行かれた。KMCが大変だったのである。
82年4月には山田専務が全社的見地で単車を担当することになった。

いろいろ話はあったのだが、5月末になって、「富永君をKMCの企画に出して欲しい」いう具体的な話が、KMCの高橋さんから正式にあって時期は年末ということで、基本的に了解をした。

富永君は販社籍だから、例外的な人事であった。メーカーサイドには本当に販売の解る人が少なかったのである。4月に東京の責任者で異動したばかりであったが、「お家の一大事」と言うことで、年末という時期で了解をした。


7月1日の早朝、山田専務から自宅に電話があり本社に出頭せよとの指示があった。

事業部の企画に戻れという話である。これは大変なことだと思った。

山田さんは中学の先輩でもあり、レースで一緒だったこともあって話し易かったからだとは思うが、自分の異動に条件をつけたのは、この時だけである。

今回は事業全体の危機である。そしてKMCをはじめ販社に問題がある。
原因はトータルの仕組みの問題で、その対策にはある程度自信はあったが、旗を振るには力が無いと思った。

「KMCの高橋さんに戻って頂けませんか」「技術の解る人を一人」山田さんは、その日は即答はされなかった。

それから3ヶ月、いろいろあったのだが、
10月1日、高橋さんは企画室長で戻られ、大前さんが技術、特に生産関係を援けてくれることになった。
技術オンチの私は生産関係は任せて、世界の販社関係、特に田崎さんが担当したKMCの応援に専念できる体制になった。

全軍に旗を振る高橋さんが居られて、はじめて機能した体制だったと思う。


富永君には日野君もつけて、10月KMCに出向となった。
その後、二人はKMCで大いに活躍した。
マーケテングや販売管理面に精通したプロだったので、話が通じやすく助かった。

人事というのは、運みたいなものがある。

3月ごろ、高橋さんからの話ではじまった富永君の人事だったが、その時私が了解したので一緒にまた仕事をすることになり、高橋さんはアメリカから日本へ戻られた。
田崎さんはKMCの重責をひとりで背負うこととなった。

いろんなことがあったが結果が上手くいったので、本当に良かったと思っている。
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若い人

2007-02-03 06:31:19 | 発想$感想

昔から若い人、大好きである。

自分が73才にもなると、回りは大体若い人になってしまうのだが。

ブログをやりかけてから、また若い人に再会する機会が増えて自分自身も本当に若返った気がする。
特に、ホントに若いバイクに乗っている人たちからのコメントなど頂くと、loveletterを貰ったような気持ちになるものである。

まして、女性からのコメントなどは宝物みたいである。昨日はそんな宝物も届いた


若い人の特権の一つに、年寄りに比べ、永い将来があるということがある。
「継続は力なり」とか言うが、継続できる期間が永いということは,若い人の特権だと意識すべきだと思う。

継続するということは、人の資質に関係なく努力で可能である。
そして継続の過程でそれは習慣、体質となり日常生活の一部になる。

私自身の例の中からいうと、53年続いている日記がある

最近の例では、昨年5月から続いている、三木市長さんへの市長メールがある
昨日、その100回記念みたいなことで、三木市長さんと若い人たちを含む15人の方々との「雑談会」が開かれた。メールを100回以上続けているご褒美みたいなものである。

50歳前の市長さんも、私にとっては若い人には変わりなく、その他大勢の若い人たちの可能性にも賭けたいと思っている。

安倍さんが言うように、若い人は「再チャレンジ」の機会は何度かあり、それをものにするかどうかは、小さな芽を見逃さないことだと思う。

そのまんま東はいい例である。期待したい。

そのまんま東だけでなく、ご縁があってコメントを交わしただけのブログでお会いした若い方々の可能性にも期待したい。

「Zakkan Nikki let the good times roll 」

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苧野豊秋さんのこと 昔話ー26

2007-02-02 06:46:46 | カワサキ単車の昔話
苧野豊秋さんのこと


単車に配属された1962年から直接の上司として、永くお世話になった。

特に、広報やレースを担当していた頃は直接の指示を仰いだし、その後東北や大阪の頃は専務という大局的な見地からの指導も頂いた。

高橋さんと市場開発プロジェクトを立ち上げたときには、営業部隊の現地実戦メンバーとして耕森君や久後君を派遣して頂いて大いに助かったのも、懐かしい想い出である。

その後、私が国内の販社を担当して後は部品会社の社長として末端へのダイレクト発送システムを完成させるなど援けて頂いた。

往年になっても、新しいことにチャレンジされてジェットスキーの国内販売網や西武自動車と国内のJSレースの創生期から尽力された。

JJSBAの設立のためアメリカにご一緒した。
その時アメリカ側で協力してくれたのが田崎さん(現川重会長)である。私も田崎さんもかって苧野さんの部下だったので終始和やかなムードのアメリカ出張であった。

苧野さんはJJSBA初代会長でもある

若い頃の苧野さんは、迫力もあり怖かったが、技術屋さんらしからぬ営業センスがあって末端がお好きだった。
晩年、JJSBAの若いライダーたちとも気軽に付き合われて人気があった。

ソウルオリンピック開会式と同時に行われた、ジェットスキーのデモンストレーションにも世界のライダーたちと共に、ご一緒したのもいい想い出でである。

もともと、高橋さんや田崎さんと同じJET部門の出身で、お会いした当初は、カタカナ横文字の連発で理解できずに苦労した。「拙速」の発音がどうしても英語に聞こえて辞書で探し回った、笑い話のようなこともあった。

そんな、懐かしい苧野さんも亡くなられてもう2年以上にもなる。

心から、ご冥福をお祈りしたい。
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部品補給

2007-02-01 06:30:00 | カワサキ単車の昔話
二輪車という商品は部品補給の頻度は非常に多い。これが悪いと即サービスが悪いということになる。

全国各県に営業所などの出先があった時代、
1970年代の部品管理、部品補給のポリシーは各出先の部品庫に出来る限り効率的に、且つ大量に部品を確保し顧客の要望に応えるという漠然としたものだった。

何万点もある部品を、動きの多いものを中心に人間のカンで在庫として揃えるという作業は、容易なことではなかった。

持たぬと揃わない、持ちすぎると不良在庫になる。
更に、1機種で大量に売れたヒット商品が少ない時代、部品は常に経営の足を引っ張っていた。

そんな時代、大阪の浜寺モータースの親父さんに「9点部品を注文しているのに6点しか届いていない。6点の請求書だけは来た。9点揃わぬと修理は出来ないのだ。」とこっぴどく怒られた。

これがヒントで、大掛かりな部品補給システムの大改革に取り組んだ。

1.出先は部品倉庫も部品も一切持たない。
2.根元に大規模な部品倉庫を一つだけ持つ。
3.そこから出先までの発送を出来る限り早く送る方法を考える。

今では、殆どの企業がこのような仕組みを持っているが、当時そんな発想は画期的だったと思う。
社内で反対するところが続出したが、そんなところは、放っておいて賛成する拠点だけ順番に実施した。

結果は大成功で、悪い悪いと言われていたカワサキの部品補給は一挙に改善されたのである。
専門の部品会社の経営を苧野豊秋さんがどんどん改良されて、全国殆どのところが注文の翌日には部品が届く状況になった。

10年後、同じ発想でヨーロッパの部品をオランダに集めて、そこから各国のデーラーに直送するシステムを組んだ。

あれほど、経営の足を引っ張っていた部品が、今、多分経営を維持する基盤の一つになっていると思う。


部品を必要とするのは新車ばかりではない、むしろ中古車に部品は絶対に必要である。


東京にINT-MURASIMAという部品専門のお店がある。全国どこにでも、部品発送をしてくれている。
開店以来のお付き合いだが、つい先日メールを頂いた。

村島さんの感覚は素晴らしものを持っている。是非今後も頑張って欲しいと思う。
コメント (2)
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