飄(つむじ風)

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聖書について!⑥

2008-02-17 07:05:08 | 聖書について

何故、イエスは十字架に.......
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人類の罪の贖いを、ひとりイエスは背負われた....と、言われている。そして、そのためにイエス・キリストにより、御名を崇めることにより罪から救われる.....。と言われている。

 信者として、教祖をそのように崇めることは当然といえるが、ひとりイエスが人類すべての罪を贖うということには、無理がある。帰する所、自己責任というモノが人間個々に存在する。個々の罪は、個々の贖いによる他はない。贖い、言い換えれば、罪の償いである。

 どうすればいいのであろうか。?

 確かに、イエスは人間の罪により、磔にあった。それは、人間の肉としての罪である。人間には霊としての無限性と普遍性を併せ持つが、肉体を持つと同時に霊性を失う。失うというか忘れる。忘れるというか、否定する。それ故に、自らの霊としての無限性と普遍性を見失うと同時に、偉大なる魂の霊性をも認めない。イエスを真の救世主=キリストであることを認めないばかりか、その御業があまりに大きかったので、妬んだ。妬むばかりでなく、怖れた。又、偽善を暴かれることを怖れた。要するに、イエスは疎ましく、邪魔だったのである。

 そのことをイエスは、当然、見抜いていた。その予定であった。推測であるが、そうなることを承知で、敢えて、激しく指摘し、説教した。奇跡を多く顕し、主なる道=創造主の意思を直裁に説いた。当然、その反発は大きい。同時に気付きも大きい。
 丁度、高熱を出して、早くウィルスをやっつけるようなモノである。風邪は、身体の不調によるモノで、ウィルスはその不調につけいる悪霊のようなモノである。正常な身体には、免疫があるのでウィルスは居着けない。

 当時は、あまりに人間の霊性を欠き、偽善が横行し、悪霊が跋扈(ばっこ)していたので、魂を救済する必要があった。故に救世主である。本性の霊性を思い起こさせるにはどうするのが、最適か。そのためには、愛、それも最愛を気づかせなければならない。それは犠牲である。自ら犠牲の愛を実践したのである。そう推測するのは、異端であろうか。

 たしかに、イエスには当時、たくさんの弟子がいた。12使徒に見るように、必ずしも確たる信念が確立していた訳ではない。ペテロですら、イエスに命を懸けると誓ったペテロですら、3度イエスを真に理解できてはいなかったのである。しかし、イエスの犠牲と復活は、使徒達(ユダを除く)を奮い立たせることに十二分であった。

マタイによる福音書 / 26章 34節
 イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」。
マタイによる福音書 / 26章 74節~75節
 彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。
                (中略)
ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

 イエスの御名を崇めると言うことは、その犠牲の愛を思い起こさせる。人は心に誓うのである。弱き肉の心を捨て措いて、霊性に立とうと。言い換えれば、保身の欲を捨てて、魂の願いに生きようと発心するのである。この為に、イエスは荒療治ではあるが、直裁に主=神の道を説き、悪霊を蹴散らし、又、憤らさせて、自らを十字架に誘った。

 それは、イエスの計画であったと解している。そして、復活もそうである。人間として考えると、これは相当難儀な計画である。とうてい真似の出来る代物ではない。しかし、今、少なくとも10億人を超える信者がいる。イエスの名を知る者は、さらに多くに登るであろう。その功績は偉大である。


 人間は、霊であり、又肉でもある。罪は肉による。罪を犯さない人間はいない。原罪というのは、肉による(肉体として生まれたことによる)必然的な結果である。これは、イエスが磔になったからと言って消えるわけではない。当然である。
 贖いというのは、悔い改めのことである。肉による罪は、霊性による省察により悔い改めることが出来る。そういうことである。霊性とは、真我・アートマ(究極の良心)に立って生きることである。簡単に言うと、偽善を排し、善に立つと言うことである。