飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

聖書について!!⑦

2008-02-19 09:32:51 | 聖書について

奇跡とは!!

 『常識では、理解できないような出来事』である。常識とは、『ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力』であるから、決して『あり得ないこと』ではないことが、分かる。つまり、奇跡とは、『ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力では、理解できないような出来事』にすぎない。

 さて、あまり聖書と引き合いに出すべき代物でもないかも知れないが、驚くべき映像を発見したので、掲載することにした。判断は、各自にゆだねたい。ちなみに、投稿者としては、あり得ると認識するが、実施者についての予備知識はないので、映像マジックかも知れないことを付言する。

http://jp.youtube.com/watch?v=sBQLq2VmZcA

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 マリックや、ユリ・ゲラーを、どう見るか。マジックもあろうし、そうでない場合もあると考える。むしろ、マジックの部分を強調することによって、エンターテイメントとして成立させていると見る。何故、そう見るかというと、『現代では、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力では、理解できないような出来事』 は、マジックで通用するからである。且つ、無難であり、生業(なりわい)にすることが出来る。

 

生業(なりわい)であるから、多少の啓蒙にはなるかも知れないが、それ以上のモノでは決してない。時として、危険でもある。何が危険かというと、善にも悪にも応用される危険である。科学的発見がそうであったように、その原理が悪用されるとすぐに、軍事利用される。であるから、今、そう多くは現出することはないであろう。悪用の一例は、Witchcraft(魔力)であって実在する。その見極めが肝要である。

 奇跡というのは、前述の通りであるから、あり得ない話ではないと言うことは、論を待たないとしても、どうして起こるかというと、それには理由がある。理由のない出来事は、宇宙には存在しない。原因と結果、因果律は大法則であって、ただ、その詳細を覚束無い状況にすぎない。それを奇跡と呼んでいる。

 何故、鳥は空を飛べるのか。それは、理由があった。何故、スプーンは曲がるのか。それには理由が分からない。しかし、スプーンは曲がるし、折れる。人も軽々と浮かぶのである。そして、天井にぶつかり、痛い思いもした。これは、投稿者の体験である。又、人は習いもしない異言を語ることはある。例えば、イタリヤ語であったり、ドイツ語であったり、中国語、ベンガル語(古代)であったりする。信じられないだろうが、アトランティス、ムーの当時の言語であったりすると、もはや確認のしようがない。と言うことは、理由は、人間は転生輪廻をしている証左としか考えられなくなる。これも不肖、投稿者の目撃体験である。

 思うに、人生は短く、生命(いのち)は永遠であるとの重みを痛感せざるを得ない。さすれば、聖書は真実の書であるとの実感を深くする。

 神=聖霊=イエス・キリストを三位一体という。これには議論がある。聖霊とは何か。永遠の生命(いのち)そのものである。そして、それは神(創造神)から出でたエネルギーそのものであって、イエス・キリストはその総体を顕している。故に神の子と称せられる。同時の人の子でもある。翻って、凡愚の我々は何であろうか。

 聖霊に満たされた人は、すべて神の子である。

 聖霊に満たされない場合が、あるであろうか。ある。それは闇の時である。太陽が隠され、真っ暗になるように、肉体をもって生まれた魂は、肉体煩悩に閉ざされて聖霊を拒否する場合がある。字のごとく闇の子である。これを罪と言う。故にパウロは、肉による罪と言い、それから離れることを救いと言った。そして、そのことをイエスの御名に依る救いと言った。そのことは大いに理解できる理由である。

 奇跡は、確かに存在するが、それにはすべて理由がある。あらゆる理由が存在するが、闇の奇跡はご免被りたい。Witchcraft(魔力)の奇跡なぞまっぴらご免である。そこに信仰による奇跡を正道としなければならない理由がある。

 正道ではない奇跡。闇の奇跡。サタンによる奇跡が実在する。それを見抜く賢さを備えなくてはならない。

マタイによる福音書 / 10章 16節   
わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。