我が家の梅が咲きました。
今朝は未だ咲いていなかったんですが昼飯を食べている時窓の外を見てビックリ!!!
なんとぉ〜一輪ですが梅が開花していたわけであります。
だよなぁ、気温は15度だもの咲いてもおかしくは無いよな、と思いつつも昼を境に風は南東から東に変わり気温も心なしか下がっているのが心配であります。
早咲きの一輪・・・寒さで凍えなければ良いけれど、なんちゃって。
玄関の切り花です
梅といえばわたし的には即梅電なんだが・・・無理があったか?
いや、2月28日のCPACでトランプさんが長い演説をしたんだけれども、これをアレ、大統領の一般教書演説だとの説が流れているわけです。
で、バイデンは本来なら就任から一、二ヶ月以内にやるはずの一般教書演説をしていないしこれからも予定は無いらしい。
で、プーチンもDSが負けた、トランプが勝ったと語ったって話もあるんですが探してもソースが出てこないので、まっ、いつものアレですかね?
そーか、カナダは年寄りに優しい国なんだな。
翻って日本はワクチンを射ってさっさとお迎えが来るように促進するようだ、なんちゃって。
自分は前期高齢者・・・死なないから生きているだけであります。
で、生きているなら辛いよりは楽しい方が良いので本能的に遊んでいるだけでして、遊んでいたいから生きているわけでは無いのであります。
なのでお迎えが来る時は潔く、どちらかと言えば喜んで行く予定であります。
と言いつつ、あれ、一休禅師は今際の辞世の句に何を言うのか期待していた弟子坊主に対して「死にとう無い」を連発してガッカリさせたとらしいので自分もその口かも知れませんけど。
いや、死にとう無いを言っ人に本田勝家やらも出て来ますがこの言葉を凡夫が考える額面通りに捉えるのは浅はかでありましょう・・・なんちゃって。
まっ、こんな話になったんでこっちの方向で続けますが、生きるってことは死ぬことに向かっているわけでして、それは死ぬほど頑張っても避けられないわけであります。
で、自分はこの歳になってやっと生きるって何かが分かる緒に辿り着いたかと思える節があるわけです。
生まれたのは自然界の掟に則った偶然と思うわけですが、死ぬのも全くその延長でして表裏一体、切り離すことのできない理なわけであります。
そーなんです、誰だってこの程度のことは思いつくんですが現実としては別世界のこととして区別してしまうわけであります。
そのうえ生は善で死は悪と捉えるんですから悪者になった死は堪ったもんでは無いわけであります。
で、話はいろんな方向に転がせるんですが、自殺ってことで掘って見ますと、これも有りだと自分は思うんであります。
人は精神の生き物でありまして、だから社会は面倒臭いし、今後はあーすればこうなる理論が益々巧妙になってより複雑化するわけであります。
虫や猿や白鳥なら生きる意味は繁殖して種の保存という一点張りで簡単なんですが人は違います。
死に向かう過程に意味や意義を見出そうとするので複雑になると思うわけです。
その複雑化する部分は本能とは相容れないからだと思うんですが、人は生きることに悩んじまうわけであります。
いや、単純な話しでアレですが便利なのでマズローさんの欲求段階説を出しますが、本能レベルの生き方だと単純なことは既に定説だと思うんであります。
まっ、話に資本主義の物欲を持ち込むと低レベルでも葛藤は生まれるんでややこしくなりますが、ここは野性的種の保存が本能の根本ということで逃げさせてください。
で、本人が生きるのが辛いとか面白く無いと言っているのに、いや生きていろ、と言うのは根拠の無い無責任な話だと思うんであります。
いや、特に高齢者の自殺なんてのはむしろ手伝ってやってこそ親切と思うんですが、社会の前提に死は悪であるが染み込んでいる以上声にも出し辛い話であります。
若い人には未来がとか将来が、と言いますが誰も未来を約束はしてくけません。
で、死ぬのを思い留まらせたとすると生き延びた人には社会を生き延びる努力が待っていて生きてる間中付いて回るわけであります。
そもそも生きるのが辛かった人に死ぬのを思い留まらせずーっと苦労しろというのは親切なのか、と自分は思うんですがこれは間違った考えでありましょうか?
で、これに触れると話はややこしすぎるんですが、厄介なのは生きている側の感情であります。
親兄弟や自分の家族から自殺者が出ちまったら生きている側こそ地獄でありましょう。
なんで助けられなかったのか、と苛まれると思うんですが、これも生きるのが善で死は悪と考えるからと思うんであります。
いや、お前は我が子がそうなった時にキッチリ受け止められるのかという問いには、なって見ないと分からないとしか言えないんですが、その方向で考えてはいます。
で、話はなんぼでも続くんでオチに行くんですが、少なくても自分は他人の命に関わる話は生きろとも死んでよしとも言えないな、と言うことであります。
今の時代、生きる力の大半は財力が決め手であります。
いま、目の前に飢えている人がいて、自分はカツ丼の一つを食わせることはできますがその後の面倒までは見られません。
自分が言いたいのはここなんであります。
私ゃ現実的な生き死にの話になったら何も言わず、言えずなのは所詮は自分が第一だから極まったら逃げるに決まっているからであります。
まっ、だからお仕事として割り切れる公的機関などが関わるのが最善ってことで社会は成り立っていると思うんですけどね。
いや、仏様はこの辺も明確に語ってまして、生きるも死ぬもあるがまま、と語っているわけであります、なんちゃって。