じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

仕事が溜まりすぎて

2021-09-15 12:01:27 | 日々の雑感
たぶん、もー自分一人の手には負えないところにいると思うんですが諸般の事情で気持ちが逃げちまい頭を抱えて耳を塞ぎ、忘れたふりを続けているわけです。

こんな時思い出すのは半世紀以上も前の夏休み後のあの日・・・私は教室の隅で未完成の宿題を抱え怯えていたのでありました。

しかし、あの時はもはやこの世の終わりかと思いましたが今も普通に生きていられるところを見ると、大概のものは気持ちの問題で生命の危機なんて大げさなものでは無かったと思うのであります。

あれです、ジジイになるまでに何度か人生の危機ってのは感じましたが、通り過ぎるとなんて事は無く、死なない限りは生きていられるものだとしみじみ思う今、であります。

で、仕事ってのは植木屋なんですが、何せコロナで蟄居を命じられた関係と、お伺いしようとするお客さんもアレコレと考えることがあるらしく、そこまで踏み込むのも面倒なので控えていたわけであります。

いや、当然新規などお断りしているんですがそれでも例年の定期のお客さんのが詰まってきちまったわけで・・・まっ、根本は二足のわらじが元にあるんですけれどもね。

で、以前の自分の考え方だと請け負ってしまった自分の責任だけを考え煮詰まるわけですが、今は違います。

いいえ、イスラムに改宗したわけでは無いのですが神様のお許しが出なかったので私の仕事は進まなかった、とマジで思うのであります。

と、言うことは、悪いのは俺じゃ無い!!!
神様が許さないことを人間でも下層の俺になんとか成る筈が無い、と。

誰が言ったか「神下駄式」って生き方なんですが、すべての責任は神様に預けちまえば良いと、簡単に言うとそんな生き方でして、イスラム教などは典型でありましょう。

で、上記のニュースは痛ましいことではありますが、私ゃ記事全体とその後の書き込み全部に呆れると言いますか、これじゃぁ話は終わらないし形を変えて次の事象が起こり続けるんだろうな、と思うんであります。

いや、自分にこれという解決策など在ろう筈も無いのですが、でも感じるんであります。

まずは、犯人探しが始まって次に責任の所在を明確にって流れが自分には見えるんですが、それは裏を返せば俺は悪く無い、と逃げを打って責任は背負わないと語っているに等しいわけであります。

で、もっと嫌なのが専門家と称する人のご意見でして、評論家なんてのはそれで飯を食っているわけでして、子供が命を絶つなんて壮絶な事実を飯のネタにできる精神って悍ましいと自分は思ってしまうのであります。

あれです、子供の自殺は何度も似たようなことを繰り返していますが、確実に低年齢化しているわけであります。

が、解決の決め手を見せた人はいないわけです。

息苦しいだろうなぁ〜今の子供らは、とジジイには思えてならないのであります。

あーすればこーなる、定型の予定以外は異常として認めない社会が生み出す息苦しさはたぶん、人間って不確実な生き物が持つ本性と相容れないからなのかと思うんであります。

いや、それだと社会が回らないとか、予定が立たないってのは日本人の感覚ですが世界にはとてもいい加減な社会がなんぼでも存在するわけです。

で、そういうところで暮らして見るととても居心地が良く曖昧がまかり通ることがどんだけ楽かってのを身を以て感じるわけです。

まっ、稀に二、三日で落ち着きを無くし日本に帰って仕事をしたいって人もいましたがあれは既に心を病んでいると思った次第であります。

で、締めなんですが、学校って行かないとダメなんですかね?
いや、自分らが子供の頃とは社会構造も違ってますから一箇所に集めて型にはまった教育ってどーなんですかね、と思うんですが門外漢なんで頓珍漢だったらゴメンなさい、であります。

自分はろくに教育ってものを受けていないわけですが脳みそで勝負しない分野で飯が食えてきまして、それは時代がそーだったからってのもあるし、常に頭の良い人に使われてきたってのは否めませんが、かなり自由で楽しかったわけです。

いや、臆病にならずに逃げ出してみたら開けるかもしれないよ、って無責任なことかもしれませんが、でも逃げるってのは戦い方の一つですから。

やっぱし、勝てないと思ったら逃げるってのを子供に教えてやって、逃げ場所を作ってあげたら良いかもなぁ〜なんて思うわけでありますが、まっ、それは言い尽くされてますけどね。

で、いじめってなると虐められた方に焦点が行くわけですが、これこそ根っこがズレている証しと思うわけです。
虐めた方を吊るし上げなくてどーする、と思うんですが、そこには未来ある子供とか、曖昧な空気感で誤魔化すわけでありますが、実態は虐めた子供の親が逃げているってことでありましょう。
で、親が咎められるとなれば当然教師やその関係もってことで、だから子供を吊るせないと思うんであります。

あれです、通常は子供には親がいるわけです。
ならば、虐める子と虐められる子を導き守るはずの親が一番問題なんで、この手の話の根本は家庭と親の問題なんだと言ったら間違いでしょうか。

やっぱし親だな・・・親がすべての元凶だな。
学校に期待しすぎると言いますか、自分らが子供にできない躾まで期待してんじ無ぇぞ、と憤るんですが、まっ、いいでしょう。

いや、この件に関してはどなた様の異論反論も全面的に認めます、なんちゃって。







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私は疲れている!!!

2021-09-15 09:13:16 | 日々の雑感
いや、一説によれば「憑かれている」とも言われているが今日は確かに疲れているのであります。

まっ、昨日久しぶりにやった筋トレのアレが何しているわけで大したことでは無いのですが大事をとって予定変更、であります。

いや、予定では軽くバイクで一回りしてくるはずだったんですがこの冴えない感じでバイクに乗るのはよろしく無いとの判断でやめた次第であります。

それで朝から始めたのが畑仕事でして、今日も昨日も明後日も畑であります。

それにしても良いもんですなぁ、野菜との対話ってのは。

なんと申しましようか、大半が一年草である野菜たちと向き合うというのは、命の誕生から終焉まで関わるわけでして芽吹きの時の危うさから成長期の勢いを見、成熟して実を持ち気候の変化とともに少しずつ勢いを無くし枯れる、と。

まっ、大根などのように最盛期に引っこ抜かれる不憫な野菜もありますがキュウリなどの実物は押し並べてそんな感じの終生であります。

で、それらと対話ができるようになってからの私は、自分で言うのもアレなんですが悟っちまったわけであります。

命あるものの理りを野菜から教わり人も含めた一個の生命の終わりが持つアレがわかったのであります。

まっ、それを文字にして記せるほどのナニが無いのが残念ですが、まっ、いいでしょう。

スイカが小さい? いいえ巨大キュウリなのです

ああ、目はトマトにすればよかった

と、まぁ、軽い収穫と即成で育って欲しい野菜たちに即効性のある液肥など撒き、芽吹いた大根の一部をチョン切り虫・・・又の名をネキリムシにやられていたのであまり使いたくは無いものですがオルトランをばら撒き予防したわけであります。

今年はキュウリを二度植えました。
早生種で早めに取れるキュウリの収穫を7月までで見切り、その後繋ぎのキュウリを別線で育て今に至ったわけであります。

いや、他所のキュウリは既に終わっているんですが我が家では後から植えた方が最盛期で毎日食べきれない量が採れている次第であります。

で、ナスは夏の盛期に思い切って切り詰め再生を図り、それが上手くいきましてその後に出た幹がたくさん実を着けているのであります。

あっ、ニラを一度刈り取るのをやり忘れました。
今の葉っぱは硬いので一度全部刈り取り新生の柔らかいのを食べると美味いのでありますが、まっ、いいでしょう。

いや、明日から天気が崩れるってことなので今からやって来ようっと。




コメント (2)
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