北國新聞(6月17日)
昨日の県議会一般質問後の記者団の取材に対する谷本知事の発言である。
学者が社会に関わる問題について最終的な決定権までもってはいないのはその通りである。
仮に大事故の確立が10万炉年に一回だと科学者が言ったところで、それを受け入れるのかどうかが社会全体で議論しなければならない。
現在の志賀原発差止訴訟でも、第20準備書面「科学の不確実性と司法判断」で原発問題は「科学に問うことはできるが、科学だけで答えることはできない」トランス・サイエンスの問題であることを明らかにしている(第9回口頭弁論)。
科学には常に不確実性が伴う。
特に地震科学は「現象が複雑系で決定的な理解が困難なこと」「実験で再現することが不可能なこと」「地震発生の情報(いつ、どのくらいの大きさ)といった情報すら依然大きな不確定さを伴っていること」から科学の限界を見ておかなければならない(纐纈一起東大地震研教授)。
北陸中日新聞(6月17日)
知事は北電が科学的データに基づく資料を提出し、有識者が推論に基づいて見解を示しているとするが、地震科学の不確実性(限界)を理解しているのは北電か有識者かは論を待たない。
あらゆる動く可能性を探るのはむしろ地震学者の当然の姿勢。
これを「推論」だからケシカランというのはまったく当たらない。
(問題その1.地震科学の不確実性を認識しない発言)
北電の提出した「科学的」データは原発直下の断層が「将来にわたって動く可能性がない」ことを否定できなかったのである。
北電の主張を踏まえて検討が重ねられ、一つの結論へと議論は収れんされていった。
(問題その2.有識者会合の議論の経緯を全く無視した発言)
不確実な科学に基づく原発であることを認識して、私たちは原発に対する判断基準をもたなければならない。
その基準は、①ひとたび大事故が起これば回復不可能な損害をもたらすこと、②巨大科学の性質上安全を実証することは困難、③代替の発電手段が存在すること、④建設・運転の意思決定者や受益者と被害者が一致しないこと、などを考慮しなければならないと考える。
知事の「学者(有識者会合)の見解だけで決まらない」との発言は、本来、「周辺住民の安全確保」という県の立場でも意見表明させろ!という意味で使わなければならい。
当然その意見表明は、安全の側の立った有識者会合の見解を支持するものでなければならない。
ドイツの太陽光を例にあげ、ドイツ国民の怒りを紹介しているが、フクシマの被害者の怒りを紹介して安全の側に立つ重要性を強調してこそ、立地県の知事ではないか。
(問題その3.政策の判断基準の間違い)
残念ながら知事発言は原発を再稼働させたい北電の意思と、そんな北電との蜜月行政を実現したいという自らの思惑を活断層評価に反映させろと言っているに過ぎない。
県原子力安全専門委員会の結論が透けて見えてきたような発言である。
トランス・サイエンスの全くの誤用、乱用、悪用である。
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