原水禁福島大会2日目はフィールドワーク。
JR福島駅前を出発し、一路川俣町へ、さらに飯館村へ。
川俣町は唯一立ち入りが制限されていた山木屋地区がこの春、避難指示解除となった。
飯館村は全村立ち入りが制限されていたが、同じく今春、長泥地区を除き避難指示が解除された。
それらの地区の報告はあらためて書くことにし、今晩は少しだけ感想を。
ここは飯館村長泥地区への入り口。
ここから先は勝手には入れない。
バスを降りて測定器を見ると数値はみるみる上昇していく。
※通常空間線量は地上1mの高さで測定するのでこの数値をそのまま紹介するのは適切ではないかもしれないが、足元は大変な数字だということで紹介する。
本来ならばここでUターンとなるところだが、私たちを乗せた大型バスはこの場所で切り返しができないということで、バスUターンのためにゲートを通らせてもらい、長泥地区へ。
日光のいろは坂に負けないようなつづら折りの道路を延々と下る。
集落の直前でUターン。
途中の道路脇には至る所でアジサイが植えてあり、草刈りも行われている。
事故から6年4カ月が経過し、依然帰れるあてはまったくない。
が、住民の皆さんが時々帰宅し、一日4時間以内という制限の下、草刈りなどを行なっている。
泥棒や不審者も入るので、警察のパトロールに加え、住民もパトロールをおこなってる。
飯館村役場の住民かのカウンターにはこんなポストが。
長泥地区の皆さんは何と書くのだろうか。
現地で私たちを案内してくれたのは飯館村職員のAさん。
飯館村は国からの放射線量の情報提供がなかったため、高線量地域にもかかわらず多くの住民、さらには避難者が2011年の6~7月まで生活を続け、無用の大量被ばくを強いられた。
Aさんは3カ月で50mSvの被ばくをしたとのこと(一般人の年間被ばく限度量が1mSv)。
事故後のある日のことをAさんは鮮明に覚えているという。
Aさんはその日、農地の放射線量を調査するため畑にいた。
その近くに白い防護服を着た国の職員が放射線量を測定しにやってきて、素早く去っていったとのこと。
国は放射線量が高いと知っていたと、Aさんは怒りを押し殺して語った。
Aさんも、そして川俣町を案内してくれた役場職員のOさんも同じだが、被災地に残ってふるさとを復興をなんとか進めたいと懸命に頑張っている姿が痛いほど伝わってくる。
避難解除区域には意外なことに新築中の家が何か所かで見られた。
6年間放置していたため、そのままではも住めず、リフォームや新築し、帰還する人がいるとのこと。
その一方でこんな無残な姿のふるさとには帰れない。
こんな放射線量のふるさとには帰りたくても帰れないという人も多くいる。
※福島民報は毎日、県内の放射線量を掲載している(単位はまいくろ。
10年後を見据えて腹をくくった人がいる。
その一方で避難先で10年後の新しい姿を描いている人もいる。
迷い続けている人もいる。
こんな現実に、復興庁はじめとした政府は寄りそっているとは思えない。
JR福島駅前を出発し、一路川俣町へ、さらに飯館村へ。
川俣町は唯一立ち入りが制限されていた山木屋地区がこの春、避難指示解除となった。
飯館村は全村立ち入りが制限されていたが、同じく今春、長泥地区を除き避難指示が解除された。
それらの地区の報告はあらためて書くことにし、今晩は少しだけ感想を。
ここは飯館村長泥地区への入り口。
ここから先は勝手には入れない。
バスを降りて測定器を見ると数値はみるみる上昇していく。
※通常空間線量は地上1mの高さで測定するのでこの数値をそのまま紹介するのは適切ではないかもしれないが、足元は大変な数字だということで紹介する。
本来ならばここでUターンとなるところだが、私たちを乗せた大型バスはこの場所で切り返しができないということで、バスUターンのためにゲートを通らせてもらい、長泥地区へ。
日光のいろは坂に負けないようなつづら折りの道路を延々と下る。
集落の直前でUターン。
途中の道路脇には至る所でアジサイが植えてあり、草刈りも行われている。
事故から6年4カ月が経過し、依然帰れるあてはまったくない。
が、住民の皆さんが時々帰宅し、一日4時間以内という制限の下、草刈りなどを行なっている。
泥棒や不審者も入るので、警察のパトロールに加え、住民もパトロールをおこなってる。
飯館村役場の住民かのカウンターにはこんなポストが。
長泥地区の皆さんは何と書くのだろうか。
現地で私たちを案内してくれたのは飯館村職員のAさん。
飯館村は国からの放射線量の情報提供がなかったため、高線量地域にもかかわらず多くの住民、さらには避難者が2011年の6~7月まで生活を続け、無用の大量被ばくを強いられた。
Aさんは3カ月で50mSvの被ばくをしたとのこと(一般人の年間被ばく限度量が1mSv)。
事故後のある日のことをAさんは鮮明に覚えているという。
Aさんはその日、農地の放射線量を調査するため畑にいた。
その近くに白い防護服を着た国の職員が放射線量を測定しにやってきて、素早く去っていったとのこと。
国は放射線量が高いと知っていたと、Aさんは怒りを押し殺して語った。
Aさんも、そして川俣町を案内してくれた役場職員のOさんも同じだが、被災地に残ってふるさとを復興をなんとか進めたいと懸命に頑張っている姿が痛いほど伝わってくる。
避難解除区域には意外なことに新築中の家が何か所かで見られた。
6年間放置していたため、そのままではも住めず、リフォームや新築し、帰還する人がいるとのこと。
その一方でこんな無残な姿のふるさとには帰れない。
こんな放射線量のふるさとには帰りたくても帰れないという人も多くいる。
※福島民報は毎日、県内の放射線量を掲載している(単位はまいくろ。
10年後を見据えて腹をくくった人がいる。
その一方で避難先で10年後の新しい姿を描いている人もいる。
迷い続けている人もいる。
こんな現実に、復興庁はじめとした政府は寄りそっているとは思えない。
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