北野進の活動日記

志賀原発の廃炉に向けた取り組みや珠洲の情報、ときにはうちの庭の様子も紹介。

テレビ金沢制作「シカとスズ」 ~批判的感想~

2014-12-22 | 珠洲原発
 今年5月に放送されたテレビ金沢制作の「シカとスズ」
 日本民間報送賞を受賞し、11月にも再放送されていたが、いずれも見逃しており、今度は見なければと昨晩の再放送を眠い目をこすりながら見る。

 5月以降の安倍政権の川内原発再稼働への動きや11月2~3日にかけて行われた志賀原発の防災訓練、そして今月実施の衆議院選挙なども盛り込まれており、最初の作品からさらに編集を加えたようだ。

 スタッフが心を砕いたのは「原発へのスタンスではなく、歴史の事実と住民の証言を積み上げて構成すること」とのこと。懐かしい映像がたくさん紹介される。
 サブタイトルに「~勝者なき原発の町~」とあるように、建設を許しても大変、建設を阻止しても大変。過疎の町に原発のような巨大開発計画が一旦持ち込まれると、計画段階から運転開始後に至るまで、地域全体、そしてそこに暮らす住民には、原発へのスタンスに関わらず様々な苦悩が襲い掛かる。
 原発とは何か、過疎と原発の関係をどう捉えるのか、そこから先は視聴者1人ひとりに考えてほしいということなのだろう。

 そこはわかるが、考えてもらうために取り上げられた「事実」が、果たして適切だったか。
 作品制作上、時間の枠の制約がある中、膨大な歴史の事実や証言の中から何を切り取り、どのように編集するかは、客観的な優先順位があるはずもなく、まさに制作者側の意図が現れる。

 以下、私の感じた疑問を3点だけ列挙したい。

(1)住民対立のその後について
 珠洲について「28年の対立の歴史が今も影を落としている」と描きたがっている制作者側の意図がみえみえ。番組は高屋にスポットを当てているが、高屋は思いのほか早く住民間の溝は解消されていった。なぜこういうことが出来たのか、先入観なしにこの点の解明に踏み込んでほしいが、これでは番組の企画書を書き直さなければいけないか?高屋の人が取材に協力的でなかったのは、マスコミが好む「映像」の中に自分たちが押し込まれるのが嫌だったからだ。
市内全体でも、もちろんしこりは皆無とは言えないが、おそらく初めて市外から訪れた人には、もはやそんな雰囲気はほとんど感じられないのではないか。
 対立の映像は2003年12月5日の電力撤退申し入れの日の午後の私たちの集会の映像にも示されていた。村八分の悔しさを涙ながらに語るYさん。いじめの経験を忘れることはできないと怒りを込めて語るK先生。珠洲で住民運動が拡大する前から頑張ってきたお二人の思いは、個人的には痛いほどよくわかるが、実はこの日のこの会場での「対立」を想起できる発言はこれだけであった。
 これにはもちろん伏線がある。
 電力の撤退の日は突然訪れたわけではない。その雰囲気は1年以上前からあり、私の下に確実な情報として入ったのはこの年の9月24日深夜だった。そして翌日の北國新聞の一面の見出しは「珠洲原発計画断念へ」だった。その後2か月余り、紆余曲折はあったものの撤退の申入れは既定路線であった。
 この間、私たち反対派は電力撤退後に向けた相談を重ねていた。
 「絶対に『勝った!勝った!』と言わないこと」
 「推進派を非難しないこと」
 まさに勝者も敗者もない原発計画であり、住民の溝を埋める努力は自分たちから取り組もうと確認していたのである。
 12月5日はそういう意味で「ようやく訪れた日」ではあったが、はしゃいで浮かれるような日ではなく、対立解消へのスタートラインであった。私や市議の皆さんからは「凍結」という表現を使っているが事実上の撤退だること、そしてこれからのまちづくりに向けて、対立の解消に努力していこうと呼びかけられた。
 もちろん大きな節目の日であることに違いはなく、それぞれが長年の苦しさに思いを馳せ、「お通夜」の雰囲気になったのである。
 テレビ金沢の視点は、多くの住民の視点とはかけ離れていた。

 志賀町の計画段階での住民対立の動きとその後についても、取り上げれば珠洲以上の物語があると思うが、今回踏み込めなかったことは仕方ないか・・・

(2)「原発ができた志賀」と「できなかった珠洲」、勝者なしで括るだけでいいのか
 原発ができた志賀町の大変さはわかるが、率直に言って、できなかった珠洲を暗く描きすぎている。
 高屋のTさんの地道な取り組みは評価しつつも、市全体では無為無策でじり貧の一途のようなイメージを感じたのは私だけ?
 確かに過疎化、少子・高齢化は進んでおり、厳しいことには違いないが、志賀町の新しい動きとして紹介されていた大学との連携や地域の特産物を活用した動きは珠洲も決して引けをとらず、特に大学との連携は珠洲の方が質的にも量的にも、二歩も三歩も先を行っていることは客観的な事実だ。
 Iターン、Uターンの若者も市内各地にたくさんの刺激とパワーを与えてくれている。原発ができていたら果たして彼らは来てくれただろうか。
 里山里海を活かした交流人口の拡大や特産品づくりなど、珠洲の自然の恵みを活かした取り組みに活き活きと取り組んでいる人たちの中には、かつて、珠洲の活性化には原発しかないと信じていたような人たちも実は多く参加している。中心的役割を果たしている人も何人もいる。
 「どっちも大変」で一括りにすることなく、できなかったからこそ開かれた道を歩んでいる何人もの人たちにしっかりスポットを当ててほしかった。
 
 うがった見方かもしれないが、同じ「勝者なし」でも、「原発マネーをたっぷりもらった志賀の方が今後の展望を考えていく元気があるぞ」みたいな構成だと感じたがこれも私だけ?

(3)福島原発事故の衝撃の大きさ
 今回、この番組がつくられたきっかけとして3.11があったようだが、その割にはフクシマが志賀や珠洲にどのような影響を与えたか、余り掘り下げられてなかったように思う。現在の珠洲を語るときに、フクシマを抜きには語れないものがる。
 2003年の電力撤退以降、もはや珠洲に原発ができることはないと思いつつも、厳しい地域経済、あるいは我が家の家計を見るたびに「原発ができていたならなぁ」とため息をついた旧推進派は大勢いたことだろう。心の中では「あいつらが反対したばかりにこんなことになってしまったんだ」と恨みつらみを胸に抱いてきた人も少なくないだろう。原発への未練を断ち切れないでいたのである。
 そんな中で起こった3.11は、かつての反対派よりも推進派の人たちに大きな衝撃を与えた。
 何十回となく連れていかれた先進地視察や、毎月のように開かれた原発講演会では耳にタコができるほど安全神話を聞かされてきた。「地震が来たって大丈夫」「津波が来たって大丈夫」というチラシやパンフも累計では数百万枚とばら撒かれてきた。連日ニュースで流される「原発を襲う大津波」や「水素爆発で吹き飛ぶ原子炉建屋」は、絶対にありえないはずの光景だった。安全神話が音を立てて崩れ落ちていった。真面目な推進派、熱心な推進派だった人ほどショックを受けた。行政や電力の説明を信じ、地域の中でリーダー的に活動してきた人は尚更である。電力撤退から7年あまり、ようやく「珠洲に原発がなくてよかった」と原発誘致の未練を断ち切ることができたのである。福島の大変な被害と犠牲があって、ようやく珠洲は原発から卒業できたのである。

 一方、志賀町の受け止め方はもっと複雑だろう。ここはぜひ丁寧に掘り下げてほしいところだった。
 
 この他、詳細は省くが、志賀原発と珠洲原発の共通点や相違点についての踏み込んだ分析もほしい。また「珠洲」とひとくくりに捉えても、高屋、寺家の立地地域とそれ以外の地域の違いもある。志賀町でも同様だろう。市全体の課題と立地点の課題は必ずしもイコールではない。こういった点にも配慮がほしかった。
 

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