高野山真言宗総本山の金剛峯寺からスタート、標高800mの高地に約2300人が暮らす町、住民のおよそ3人に1人がお坊さんの仏教都市がなぜ作られたのかの探索をするもの。
まず水、高野山全体には177の寺があり、メンストリートにも寺がある。道沿いの蛇行が御殿川で今は暗渠になっており、千手院橋の名前が残っていた。川の水は豊かで、その理由を不動院の裏で、湧き水や地盤が泥岩でお盆のような形で水が溜まりやすく、山上の町は縦3㎞と横4㎞の広さで奇跡的な水に恵まれていた。
次に食料、宮大工棟梁一級建築士尾上恵治案内人が作った金剛峯寺の煩悩を払う仏具「三鈷杵」をタモリ・近江さん手でさすり、貴賓の上段の間の金箔は人に踏まれた土壁は使わないと。年貢米や寄進された領地からの米2000人分が炊ける3つの釜の200畳の台所と、そして坊さんにより工夫されてできた高野凍豆腐の特産品が生まれた。
明治になるまで女人禁制だった高野山は、いわば“出生率ゼロ”の町。人口維持には、学生寮の会下で暮らす学生は平安時代から続く学生の住み込みで、お金がかからず、徳川、織田、前田、浅野などの家紋が入った提灯が掲げられた寺や六文銭の石碑の蓮華定院には、真田家と宿坊との契約書を見て、各大名との契約ができ全国から若い学生が集まっていた。
しかし、御影堂の奥に空海の肖像画がある神聖なお堂は、高地で瓦は凍みて割れ使用できず寺の屋根は檜の木場葺きで、落雷などで一度火災が発生すると全焼となり、昭和元年金堂の火災が全焼した時、御影堂の外廊下の手すりの擬宝珠(ぎぼし)が変形していた。172年ぶりで2015年に再建された中門で全部終わったと。そして、御堂を守る噴水で建物を丸ごと防ぐトレンチャーの実演を見て、火災から町を守っていた。高野山の町は、水に恵まれ、寄進の食料と高野豆腐、全国から若い坊さんが集まる仕組みの人口維持と防火対策でタモリさんも納得。
まず水、高野山全体には177の寺があり、メンストリートにも寺がある。道沿いの蛇行が御殿川で今は暗渠になっており、千手院橋の名前が残っていた。川の水は豊かで、その理由を不動院の裏で、湧き水や地盤が泥岩でお盆のような形で水が溜まりやすく、山上の町は縦3㎞と横4㎞の広さで奇跡的な水に恵まれていた。
次に食料、宮大工棟梁一級建築士尾上恵治案内人が作った金剛峯寺の煩悩を払う仏具「三鈷杵」をタモリ・近江さん手でさすり、貴賓の上段の間の金箔は人に踏まれた土壁は使わないと。年貢米や寄進された領地からの米2000人分が炊ける3つの釜の200畳の台所と、そして坊さんにより工夫されてできた高野凍豆腐の特産品が生まれた。
明治になるまで女人禁制だった高野山は、いわば“出生率ゼロ”の町。人口維持には、学生寮の会下で暮らす学生は平安時代から続く学生の住み込みで、お金がかからず、徳川、織田、前田、浅野などの家紋が入った提灯が掲げられた寺や六文銭の石碑の蓮華定院には、真田家と宿坊との契約書を見て、各大名との契約ができ全国から若い学生が集まっていた。
しかし、御影堂の奥に空海の肖像画がある神聖なお堂は、高地で瓦は凍みて割れ使用できず寺の屋根は檜の木場葺きで、落雷などで一度火災が発生すると全焼となり、昭和元年金堂の火災が全焼した時、御影堂の外廊下の手すりの擬宝珠(ぎぼし)が変形していた。172年ぶりで2015年に再建された中門で全部終わったと。そして、御堂を守る噴水で建物を丸ごと防ぐトレンチャーの実演を見て、火災から町を守っていた。高野山の町は、水に恵まれ、寄進の食料と高野豆腐、全国から若い坊さんが集まる仕組みの人口維持と防火対策でタモリさんも納得。