オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

成人の日

2011-01-10 | Weblog

1/10(月:祝日) 今日は成人の日、私たちの頃は1月15日だったような気がするが、そんなことも遥かなこと、朧である。

祝日に国旗を掲げた家・ビルetcをとんと見かけなくなった。最近の風潮か、はたまた戦後教育の成果か、或は頻々と変化する祝日の所為か。私が子供の頃には玄簡先に国旗を掲げていたものだが・・・。勿論、我が家でもその習慣はなくなり、最近国旗を見かけないなあと云う始末。

私にとって成人を意識したのは、成人式よりもその一月ほど前に訪れた誕生日の方であった。ああ、早や二十歳、未だなり難く、これから何ものになって行くのかと我が身ながら不安であったことは確か。そして、今やこの体たらくである。  

今更、先に希望や夢を描ける歳ではないが、それでも何ものかにならねばならないとの想いだけは消えない。

若者よ、羽ばたけ。大いに道を拓けと云いたい。

さて、昨日は昼前に家をでて中目黒まで二駅歩いた。そして会社からの戻り、暗い中を昭和通り沿いに銀座まで歩く。このルートだとショートカットになるので駅の数に換算すると三駅ぐらいか。寒いのでぐんぐんと歩き、気がつけば銀座四丁目三越銀座店前であった。

少し、むきになっているような気もするが、歩けるうちに歩こうと云うセコイ心である。今年の目標としている730kmは、西に延ばすとどの辺りか?岡山か精々広島辺りか?
日本橋から鹿児島までが約1500km、大阪で550kmである・・・。

“閑話休題” 
日本橋が今の橋に架け替って100年になるとか。明治44年、木橋から石造りの今の橋となった。この三年後の大正3年に戯曲「日本橋」を泉鏡花が上梓、翌年、新派の舞台でこれが初演されたそうな。(私が好きなタウン誌 日本橋 からの受けうりだが)

戯曲 日本橋の舞台となるのは、日本橋の上流となる「一石橋」である。日本橋と一石橋の間にある橋が西河岸橋。先週、有楽町まで歩いた折に一石橋を歩いたが、それだけのこと。今度は、舞台に縁の西河岸地蔵寺を訪ねてみよう。

一石橋の名の由来、橋の南北に両後藤家(金座と呉服商)の屋敷があったことから、五斗と五斗を懸けて一石橋としたそうな。江戸の人はなかなか洒落ていたようだ。

こんなことを書いてみたが、私は新派の舞台を観たことはない。ましてや泉鏡花の戯曲を知る由もなし。(架橋100年を記念して、本店の三越劇場で1/25まで新派の公演がある)

しかし、タウン誌「日本橋」は中々愉しい、古老の話や地域のことが毎月盛沢山。日本橋のお店には置いてあるところがあるので一度手にされたら如何か。

今日は、これから新大橋を渡り森下町、芭蕉庵~永代橋~八丁掘のルートで帰宅予定。店が開いておれば、森下で「深川丼」などを久々に食すか・・・。

 あり散歩

新大橋を抜けて芭蕉庵、隅田川の向こう側を歩き永代橋から八丁掘駅と散歩をして帰宅のつもりで会社を出た。

何時もバーベキューで世話になる中央公園の川沿いは風が強く寒かった。ここから、新大橋を向こう側に渡り下流に行くと直ぐに芭蕉庵。芭蕉堂を見学して「深川めし」の店に向かった。

                

          バーベキュー場           芭蕉堂からの新大橋            芭蕉堂          

残念ながら深川めし(浅蜊めし)の「みやこ」は本日品切れの札が下がっていた。深川七福神巡りのグループが大勢立ち寄った様子。

また川沿いにでて、遊歩道を下る。冬の陽射しが西から目に刺さるよう注ぐが、風は依然として強く寒い。川上に目を転じると「東京スカイツリー」が、清州橋越しに見えた。

少し下ると隅田川大橋、そして永代橋となる。永代橋を渡りながら会社に忘れものをしたことを思い出した。(ほんまにボケや)
永代通りから茅場町に至り、新大橋通りを人形町に舞戻った。結局、一時間半足らずの川沿い散歩をして元に戻った次第。

口惜しいので、先ほどの写真をblogにアップして帰宅することとした。今日も、お疲れさん!

コメント
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