6/15(水) 今日は、週明けの月曜のような気がする。昨日・一昨日と、東日本大震災の取材で仙台~気仙沼~大船渡~石巻と歩き、会社には今朝出てきた所為であろうが。
日曜日、午後の二時間程を散歩。玉川通り~駒沢公園~目黒通りと国道や緑地を歩く。私の好きなアジサイの花が咲きはじめている。この季節、鎌倉辺りまで紫陽花を見に行ったのは遥かに遠いこととなった。
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目黒区と世田谷区の境辺りには植木屋や花卉栽培の農家が残っている。散歩途中でそんな光景に出会うのは楽しいかぎり、得した気分となる。
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「仙台にて」
月曜日は11時に仙台に入る。先ずは、今回の取材の労をとって頂いたOB会事務局へと挨拶に出向く。午後早くに一人目の取材となった。同行はライターのO氏、撮影担当兼ドライバーのYであった。
仙台にてレンタカーを手配、二軒の取材とその方々が住んでいた場所(被災場所)を撮る。
お一人目は、仙台市の西となる海岸沿いの町、亘理郡亘理町に住んでいたKさんである。
「ここは、宮城の湘南と云われるくらいの処で、家を建てる前からここに畑を作っていた。12年前に家を建て、夫妻と犬一匹で暮らしを愉しいでいた」。
自宅は、海からは4km程はなれているが、鳥の海という入り江(池?)から程近い場所。家に居る時に地震発生。防災無線の避難警報を聞き、何も持たずに車で逃げるが、避難場所に着くと直ぐに津波が襲う。避難所の一階は浸水、車はそのまま流された。
150人ほどが居たここの避難所には、毛布も食料の備蓄もなく困ったそうだ。翌日、避難所を移るが、愛犬の世話に難渋する。人間の食料が、日にオニギリ一つとお菓子だけという状況が何日か続く、ペットは避難所内に置けない・・・。津波から逃げなさいと、隣人に貸したセカンドカーが戻ってきたので、これを愛犬の塒にして凌ぐ。餌を分けて貰いに歩いた。
避難所暮らし三日目、東京暮らしの娘さんの友人が方々の避難所を探した挙句、偶然に出会うことができた。来てくれて嬉しかった、助かった。ノートやペン、食料を届けてくれる。漸く、秋田の実家を連絡のベースにして諸方への連絡が付いた。被災後、三日目のことであった。
避難所生活を一月ほど送り、知人の世話で現在の家に落ち着いたと云う。置いてある家具も、TVも知人の持ち物とか・・・。人のあり難さを、あらためて実感する。
一週間後、避難所から自宅のあった方面を見に行く。高速道路の土手を越え、鉄道の土手から我が家を臨むと残っていた。
ひと安心する。束の間、改めて泥水の中を浸かりながら確認に行くと、壁は破れ家の中は瓦礫が散乱、大きな流木が刺さっていた。耐震上も危険と判断されて撤去となった。
地震での損傷は殆どなかったそうだ、全ては津波による被害であった。
この丁内は25世帯、半分の家が流され、25人の方が亡くなられたと云う。
インタビューの後、Kさんの自宅が在った辺りを訪ねてみた。震災から三ヶ月、辺りは瓦礫撤去の工事が進んでいた。それでも手前のあちらこちらには壁が壊れ、破れた家が残っている。工事用の車両が行き交い、関係者以外立ち入り禁止の看板が立つ。
この光景を例えようもないが、宴の後の残骸。天上より神々が集い、喰い散し飲み散した大掛かりな宴の跡か・・・。整然と並び、美しく盛られた豊な実りの果実も、山海の恵み、豊饒の大地も消えて残骸ばかりであった。
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十数年を要した、この辺りの農地改良の完成記念碑が無残にも台座から剥されて道端に倒れていた。『拓農共栄』の文字とともに、要した年月と費やした金子、拓かれた農地が記されていた。
平野部では、海岸線から4~5km、場所によっては更に奥まで津波が押し寄せたように見えた。海岸に沿って走る高速道路(仙台東部高速)が、最後の防波堤の役目を果たし、被害を少なくしたように見えた。