6/16(木) 今朝も弁当を作ることとした。夜明け頃に目覚めるが、暫くは布団の中で過す。考え事はしない、やることと云えば散歩か弁当作りの軽い人生である。時間はたっぷりとある、今朝は散歩と弁当の二兎を追うこととした。
先ずは弁当メニューを考える。そこで浮んだのが、夏・食欲不振・傷み易いのワード、これに対応できるメニューと云うことで、久々に「土佐風五目すし」の登場となった。
散歩前に「干し椎茸・桜エビ」を水に浸けて準備を調えた。それから散歩へ・・・。おっとその前にやることがあった。メダカの孵ったばかりのオチビちゃん達が居るバケツの水を減らす。そして、金魚とメダカの餌遣りを済ませ、漸く出発となった。
今朝の散歩は一時間弱。目黒郵便局から清水公園~桜並木、雀のお宿をひと回りして環七へ。環七から東急線の線路沿いに学芸大学に戻る。清水池では既に15~6人の太公望達が釣り糸を垂れ、碑文谷公園ではラジオ体操が始まった。
さて、次は弁当だ。人参・筍・油揚げ・椎茸を刻み煮る、鯖の干物を焼く。卵焼きを作る、錦糸卵を作る。炊き上がったご飯に「てまいら酢」を振り、炒り胡麻を混ぜる。生姜と大葉を刻む。
と、まあ~こんな具合で出来上がった。今日も三人分だが、Kの弁当箱はデカ弁なので二人前は入った。私は、今日も弁当を持たない・・・。
台所の蛍光灯が切れたままで、写真に影が出てしまった。
「続:仙台取材」
13日(月)の午後。二軒目の取材訪問先は、89歳と86歳になられた高齢のOBご夫妻であった。震災前は、仙台市若林区荒浜(深沼地区)に30年前に住まいを構え、広い敷地内で畑仕事、野菜作りを楽しんでおられた。
ここは海岸から500mほどの距離。チリ津波では、近くの小学校に避難したことはあったそうだが被害は受けていない。ご主人は10年程前から震災・津波のことに関心を持ち、勉強をされた。何度か車で高速道路の先まで避難したことがある、だが津波は来なかった。ちょっとばつが悪かった・・・と云う。
地震発生時は自宅内に居たが、神棚の物が落ちたぐらいで特段の被害はなかった。奥様の方は、これまでの地震で津波がくるくると言われながら大したことはなかった。今回も大した事はないだろうと思っていた・・・。
警報があり、二階に置いてあった非常用の袋だけを持ち車で避難する。何処に避難するか迷ったが、遠くに在る小学校まで避難する。結果的にこれが良かった。(車で逃げては駄目だと分かっていたが、老人はそうそう歩けない。ましてや延々と続く平野部のこと、車を使うのは正解であった。近くの小学校、建物は残ったが殆ど津波を被った)
思い出の品、これまで収集した謡曲の本、全て流されてしまった。鉄筋の家だけは残るだろうと思っていたが、残ったのは門柱と基礎のコンクリートだけであった。後日、孫が基礎の部分に引っかかっていた小さな牛の置物(因みに奥さんは牛年)と古いパスポートを拾ってきた。残った物はこれだけであった。(写真はYさんの自宅が在った辺り。瓦礫は除かれていた)
荒浜海岸から仙台平野を望む
それでもご夫妻は言う。「物に執着しないで出たから助かった。持出したのは薬と保険証・免許証ぐらいだが、これがあったのでその後の手続きができた」と。
特に高齢者としては、避難所の環境に適応するのが大変だったそうだ。
ご主人に”こんな思いをされたのは初めてでしょう”と訊くと、「軍隊時代にアンダマン島の沖で、乗船していた潜水艦が沈没して以来ですよ」と、大変なことを体験していたのだった。
何ものにも替え難い、その時代の思い出の品々も全て津波に攫われてしまった。そして大好きで生き甲斐でもあった野菜作りもマンション暮らしとなり出来なくなった。
奥さまがしみじみと「ジャガイモを買いにいったら、一つ43円もしたんですよ。これからは、自宅の畑でジャガイモが沢山採れるのに」と。失われしものへの切なさを物語っていた。