6/17(金) 今朝も昨夕からの雨が続いている。今日は、散歩も弁当もお休みした。昨夜は、久々に老舗野菜卸業の”海老屋本店”の店主Aさんと会った。webサイト用のお中元商品のリストが出来たとの連絡を貰い、宇田川町の「奈加野」にて待ち合わせた次第。
最近の情勢を訊くと、震災や原発事故の影響が大とのことであった。先ず、これからのイチゴの産地であった宮城県亘理町が壊滅的な被害を受けたこと、スナックエンドウの産地福島では生産がストップしている事など・・・何処も大変である。
偶々、取材で亘理町を訪れたばかり。デジカメの写真を見せながら見聞したことを伝えた。
遅れて、大学で教えているM氏も加わり原発の話などが続いた。M氏、若い頃からライタ―稼業を続けており専門分野は国際問題。それも紛争・戦争が得意分野であった。本も出し、TVなどでも評論・解説で出演していた。それが今や、大学で先生稼業に転じている。
二人とは若い頃からの付き合いで、お互い気兼ねなく何でも云い合う仲間でもある。これに奈加野のオヤジも加わり賑やかな一夜となった。
奈加野のオヤジとの話で、今朝は築地市場に出没することとなった。オヤジの買い物を見た後、珈琲店「愛養」に立ち寄る。築地に行けば、この店に立ち寄りコーヒーを飲むのが愉しみである。
何と云っても、ここのコーヒーは絶品。私的には、日本一旨いコーヒーを飲ませてくれる。彼の池波正太郎さんや山本一力氏も通った店なそうな。
この店で45年に亘りコーヒーを淹れてきたのが、カウンターに入っている通称「ケンちゃん」である。高校生の時にアルバイトで入り、以来この道が本業になったとか。昔の築地の賑わいからすると、今の築地は寂しい限りと云う・・・。
そんな今昔を、市場を生活の場としながらも、魚・野菜の商いとは異なる生業から観た築地のことをじっくりと聞いてみたいものである。出来れば物語として文字で残したいものだ。(相棒の宏さんに云ってみよう)
「気仙沼」
さて、14日(火)は気仙沼にてOBの取材、10時からの取材アポイントであった。ホテルが気仙沼や一関で取れず、仙台に泊まってからの訪問となった。6時半、レンタカーで仙台を出て、9時半に気仙沼に着く。時間が早いので港の辺りを見て廻る。
国道45号線から街の方に入ると、港へと続く緩やかな下りの道である。両側の建物を眺めながら「此処までは津波は来ていないようだ・・・」など、勝手に思いながら進んだ。
道路を下りきって港近くなると、建物は残っているが一階は破れ・壊れてボロボロの家並みとなっていた。船着場のある小さな湾をひと回りする。この辺りの建物は未だ撤去されていない。火事で焼けただれた船が岸壁に二艘。綺麗な船も何艘か係留されていた。
湾の入り口に広がる工場や町家が在ったはずの街に入る。と、手前側は壊れた残骸の建物が並ぶ廃墟、奥に入ると残った瓦礫と撤去された跡も生々しい凸凹の一面の広場となっていた。その間の、舗装道路があったはずのじゃり道をダンプが行き交い瓦礫を運んで行く。
この光景を見て、あらためて津波の凄さを実感した。後で聞くと、気仙沼の四分の三は津波の被害があったのではないかとのことであった。我々が下ってきた道路の両側に在った建物も、一階は1m程は水を被っていたそうだ。
OBのYさんが身を寄せている義姉のお宅に伺った。Yさんは湾口に面して広がる平地に自宅が在った。息子さん夫妻と孫二人の五人家族。
地震があったとき、揺れが激しいので庭にある大きく根を張った木にすがり付いていた。6mの津波が来ると警報が流れたが、小学一年生の孫が学校から帰ってくるのをひたすら待った。
不思議と、隣近所からも道路を行き交う人の声も、避難しようと云う呼びかけも聞かなかった。聞こえなかった、しずかだった。そうこうするうちに、息子さん夫妻が孫の小学生を連れて車で迎えにきた。その時、第一波の津波が押し寄せた。
戸口を空けたまま家族は二階へと逃れた。通りかかった人が二人、入れて下さいと避難してきた。二階に逃れたが、怖くて外が見えかったそうだが、家々の屋根や物が流れて行くのは分かったそうだ。
まさか家が流されようとは思わなかったが、何時の間にか家が浮き、流れていた。家は近くを流れる大川に出ていた。
普通なら川下へ、海へと向かうのが津波に押されて川上へと流されていった。湾口から入って大川に流れ込んだ津波と、港から入ってきた津波、二つの作用であろうか。大川から支流の神山川へと押上げられて1km程も流された。
「怖くて何も見たくなかった、分からない。ただ灰色の水が怖かった」
大川の本流、支流の流れの中でどこかにぶつかることもなく、流されたのが幸したであろう。家は壊れなかった。小さな神山川に入っていったのも幸して、神山橋の欄干に支え道路の上で流されるのが停まった。六人は道路際の焼肉屋の屋根に上がって津波の引くのを待った。こうして九死に一生を得た。
しかしまた、それからの避難所での暮らし、向後のことを思うとと眠れない、考えることが辛い、そんな日々が続いた。義姉のお宅に身を寄せてからは少し落ち着いてきたそうだ。
被災後一度も自宅のあった辺りには行っていない。怖くて行けなかったというYさんを誘って、自宅の跡に向かった。
辺りは瓦礫が取り除かれ、自宅跡辺りからは海が見えた。トラックがダンプが走り、騒音と臭いが体に響いた。顔を覆いながらも、自宅の辺りを教えて貰ったが、足場が悪くて近づくことはできなかった。
これからは「いちにち一日を精一杯生きていく」「自分の家で、家族五人で暮らせる日を待っている」と言う。