8/19(火) 昨日の朝、雨が激しくなった故郷の高知空港を後にして帰京した。今回の帰郷は、勿論亡父の盆供養の為である。十日前の9日(土)に帰郷。この日、台風の襲来に気をもみながら空港に向かったのは10時前であった。本来なら、この日の夕刻の便で発っ予定だったが、急遽午前中の便に振り替えたのは前日の夕方のことである。
帰省の前夜は、元スタッフのYURIKA嬢が新事務所に初顔出しした。アマゾネス軍団のボス、MASAMI嬢と三人でスタート。二次会に移った「ローカーボ」からはRIE嬢も加わった。飲みながら、も翌日の飛行機が飛ぶか心配をしていた・・・。
のろのろの台風の動きから、午前j中の便であれば或いは出発できるかと、一縷の望みを繋いだ訳だ。旨い具合に、台風情報で午前中の便にキャンセルが出ていたお蔭で、振り替えることができたのも読みの良さか?空港は、予約の変更やキャンセル待ちでごった反していた。空港の行き表示には、午後の便は全て欠航とあった。
私が搭乗予定のANA11:40発は「出発予定、天候調査中」とあった。チェックインをしてゲートに行くと、天候次第では羽田空港にUターンしますのアナウンス。それでも遅れて飛び立った。四国に近づくに連れて揺れが大きくなった。何度かエアポケットに嵌まった。室戸岬を過ぎると着陸のために降下する。機窓から海面を眺めると、波が逆巻き飛沫を飛ばしていた。着陸寸前の横風を心配したが、案じることはなかった。着陸と同時に、後方の席から拍手が鳴った。
妹夫妻の迎えで、太平洋を右手に見ながら実家へと向かう。太平洋から怒涛が押し寄せる様がすざましい。空港の脇を流れる物部川、途中の安芸川・伊尾木川も濁流であった。安田川沿いに生家へと向かうが、川は土色の奔流が波立っていた。訊けば、八月二日以来洪水がつづいているとか。風雨が一層激しくなっていた。
台風が安芸市付近に上陸したのは翌未明だった。悪天候で薄暗い中、庭先の植木が激しく揺れ風雨が打ちつける様は中々のものである。久しぶりに見る台風の様子であった。八時過ぎに風が、雨が弱くなった。100m程離れた橋の上から川の様子を見ると、今にも欄干を越しそうな激流となっていた。下手の田圃は、一部洪水に洗われて流木が入っていた。
台風の去った直後の川 四日後の川だったが・・・
ニュースによれば、土讃線も止まり飛行機も欠航である。そう云えば、深夜何度か停電があった。町から我が山里への道路も川の水で冠水、通行止めになっていた。雨が上がった昼前、川向こうの畑の様子を見にゆくと、栗の大きな枝が何本か折れていた。何本かの果樹も横倒しになっていたが大きな被害はない。然し、栗の実は半分以上が落下して、マリモか緑のウニが畑を埋めているようだ。
折れた栗枝 田圃の中に流木が・・・
思いがけなかったのは、ガレージの横の小さな畑に植わっていた花桃の木が二本、折れて倒れていたこと。この始末に一汗かくことになった。生け花をする母が植えて三十年以上は経つ。毎年紅・白の綺麗な花を咲かせていたが、見事に根元から折れてしまった。芯に虫が入って腐っていたのが原因のようだ。
庭の倒れた草花の手入れ、飛び散った枝や葉っぱの掃除と、台風のお蔭で思い掛けない労働を課せられてしまった。開催が危ぶまれていた「よさこい祭り」も、台風が去ったこの日の午後から開催となったとのこと。
翌日の11日はすっかり晴れて暑くなった。この暑い最中、高知市内に在る古家の庭の草刈に行くことにした。お盆の準備や、お寺さんの来る日程、更に今治から来てくれる予定の友人の日程、これらを考えるとお盆前に済ませたかったのだ。妹の亭主で、私の同級生であるHIOKATUの応援を得たので助かったが・・・。
草刈後(暑かったよ)
14日午前、北寺の宗圓住職の読経で亡父の盆供養の後、安芸市土井へ。今年二月に逝去した、名木秀道の初盆となるのでお参りに行った。この季節、早稲米の収穫時期であるが、秀道が生きていた昨年までは、新米を届けてくれていた。そんなことを思いながら、田圃の稲穂を眺めた。
お供え膳もmy料理
15日、雨の予報だが朝方に降ってから昼までは曇り空で何とか天気が持った。畑に出て草刈を済ませた。丁度、刈り終えた頃に、また降りだした。奥の集落・馬路村辺りは相当降っているようだ。水嵩が低くなり、濁りが薄まっていた安田川が、また濁って水嵩が高くなってきた。これじゃ、今月一ヶ月は鮎が獲れないなと、漁をしないで喰い役の私は心配になる。
16日も大雨注意報が出た。そんな中を、東京から今治に帰省中のKAMOGASHIRAさんが車を転がしてやってきた。買い物がてらに私も安芸まで出ていたので、合流して生家まで案内した。外は雨、やることもないので早々と風呂に入って貰い、ビールを飲んで貰う。私は、KAMOさんの相手もそこそこに、台所に立ちつづけた。
料理は従姉がくれた鮎、刺身、豚・空芯菜炒めから、珍しいであろうとリュウキュウの酢物、ヤッコ、小松菜お浸しetcである。土佐では、客人が来ると飲め、喰えとしつこく勧めるのが流儀なのだ。
就寝前にKAMOさんにくれぐれもと、注意事項を伝えた『午前五時にサイレンが鳴ります。六時になると音楽が流れます』と。後は、剝製になっているエンペラーペンギンが耳元を齧りに来るかもね?である。このペンギンの剝製は四十年も前になろうか、船乗りの知り合いが南氷洋の漁のお土産で持ってきたもの。(魚船の冷凍室に入れてきたらしい)。
翌朝も雨だったが、KAMOさんが出る頃には上がって晴れ間が見えてきた。私もKAMOさんが向かう室戸方面の途中まで送ることにした。隣町の田野町の奈半利川河原に建つ、幕末に非業の死を遂げた勤王の志士・二十三士の記念碑へ案内した。ここも洪水に洗われている。
碑の前に立つKAMOさん
そして、帰省の度に訪れる道の駅「キラメッセ」でKAMOさんと左右に別れた。この夕には、埼玉から帰省している親戚も交えて食事会になろうと、天然物のハマチとカマスを仕入れて帰宅。晩飯作りに勤しんだ。ハマチのアラでブリ大根、刺身に下した。カマスはオリーブオイル焼きにする。
帰省して以来、朝夕と飯作りに勤しんできた。なんのことはない、これが私の遊び、ホビーの世界なのだ。お袋の食が細いので、結局は己の胃袋に収めることになる。悪循環ではあるな・・・。
そして昨日の朝、帰京となった次第。そのまま会社に出て、夕方に綱島の税理士さんを訪問して決算に関する打ち合わせなど。その後は駅前のイタリアンレストランで食事となった。税理士さんは、HIROさんのお姉さんなので、殊の外親身にお世話下さる。有難いの一言しかない。
火曜日の朝は、久々の弁当である。十日も弁当から離れると新鮮な気分になる。その所為ではなかろうが、四時に目が覚めた。何のことはない、夢を見ていた。「仕事の夢だっが、なんと私が三ページ分のイアラストを描く役だった。夢の中で「何で俺がイラストを描くんだよ?」と文句を云っていた。寝汗を掻いていた。
再び眠りに着くことが出来ず、睡眠は諦めて台所に立ったのは5:20分であった。ご飯は、前夜に家人が炊いた十穀米とやらが残っていたのでこれを使うことにした。
菜は、豚肉肩ロース味付けを焼き、添え物の野菜はピーマン・人参・タマネギのオリーブオイル焼。鶏肉と根菜(大根・人参)・万願寺の煮物。鯖・ギンダラの焼き物、卵焼きであった。なかなか美味そうに仕上がったぜ・・・。三人分であった。