10/3月曜日、社内ミーテイングの後に羽田から青森空港を経由して弘前に向かった。東京は朝から雨、青森空港は時折雨が落ちてくる程度。遥か彼方の八甲田山の頂きは雪を被っていた。今年は雪が早いとのことである。
弘前に着くと小雨、寒いくらいであった。駅前のバス会社の人の話だと岩木山の頂きも雪になったとか・・・。
今回の弘前は、NTTの芝居サークル「ばっけ」の代表だった川崎さん(65才)の話を聞くことである。今春NTTを完全に退職、今年1月からは、在所の地区総代として地域での活動が始まっている。
「ばっけ」は、津軽地区の全電通文化活動がその母体であるが、発展して独自の活動となった。その活動歴は41年に及び、春”ばっけ”(ふきのとう)の芽吹くころに老人ホームを慰問(サークルメンバーは交流活動と呼ぶ)して芝居を披露してきた。
その「ばっけ」は、今春(震災の影響で6月末に延期されたが)の芝居で41年の幕を降した。
私としては、よく41年も続けてこれたなと思う反面、折角続いてきた活動を継続して欲しかったと云う願いもあった・・・。
今回は芝居のことではなく、川崎さんのセカンドライフ・シニアライフを聞く・訊くのが目的。しかし、人生そのものと言える40年の芝居の話を抜きには成り立たないであろう・・・。
ホテルで三時間ほどコーヒーを啜りながら話を聞く。途中、ビールでも飲みながら、と水を向けるが『否、ここはコーヒーでいい』と頑固。
「ばっけ」の幕を下ろすことは、メンバー全員の総意とか。最盛期には三十名弱いたメンバーも、最終公演では十一名となっていた。
日本全国の地方から人が減り、高齢化を迎えている。弘前と云う地方都市においても然り、またNTTという企業も進化・効率化に伴い業務・拠点集約が進む。かつて500名を越えた弘前電話局も名称も無くなり、グループ会社のスタッフが駐在するばかり。
サークルメンバーも今や、青森市での勤務。稽古に集まるのも大変であろうし、輪を掛けて齢を重ねるは必定。一番若いメンバーが47歳とか、この47歳が高校生役をやり50歳を越したメンバーが女子高生役をこなす。(舞台で見る姿は何の違和感も無いが)
愈々今年で最後というその芝居「鴨池」を、7月1日(弘前文化センター)・2日(黒石市景風園:老人ホーム)と続けて観た。
それから三月ほどしか経っていないが、川崎さんは4kg程痩せたとか。第一ラウンドの終了後、場所を変え、飲物も代えて、元サークルメンバーの松本さんを交えての話となった。

松本さんVS川崎さん
そして、津軽人の血を騒がす“ネプタ”の話が出た。NTTのネプタを出そうと奔走したのもサークルのメンバー、川崎さんが中心となり実現したと云う・・・。そして夜は更けて行った。
翌日、弘南鉄道に乗り川崎さんの住む村、田舎館村に向かった。津軽・田舎館・村・何と響きがいいことか、善い・好い・良いのだ。

田圃の中の無人駅、人口8千人強、特産は米、そして田圃アートで村興し、お城のような村庁舎(顰蹙をかったこともあるようだが、中々いい)などを案内してもらった。
米は一昔前には全国一の反収を誇ったとか。この村で弥生時代の田圃遺跡が発見されて米文化の歴史を塗り替える。田圃アートでは、昨年全国一位と面白い村である。

弥生田と同じ規模(4坪程) 田圃アート(一部刈り取り済み)
この村は22地区に別れており、高樋地区の総代を務めるのが川崎さんである。総代としての仕事・実績は既にあるが紹介は省略する。
震災後、22地区の総代が秋田に震災研修に出掛けたそうだ。「ヤマゲンさん・ヤマゲンさん」と、川崎さんは呼ばれ、皆さんから親しくしてもらったそうな。ヤマゲンこと、山川源太は川崎さんの当り役、お人好し・助平・世話焼きの村会議員の通称である。
新人の地区総代ながら、直ぐに打ち解けて仲間に入れたのも、川崎さんの芝居を皆さんが見てくれていた。喜んでくれていたことにあろう。
四十年の歴史=家族の理解・我慢、そして会社の理解・職場の応援、ホームのジッチャ・バッチャ、いろんなものの上に成り立っている。そのことを一番解っているのが川崎さんであろ。前夜、酒を酌み交わしながら「NTに居たから、NTTだったからこそ、こんなに長く、深く続けることが、続けさせてもらえた」と、しみじみ語ったのを思い出していた。
10月5日、吉野・金峰山寺「千日回峰行」で有名な塩沼亮潤住職を仙台市の慈眼寺に訪問、翌6日から7日にかけて那須塩原にてご夫妻でプチホテル「だんどりあん」を経営する丸木さん夫妻(ご夫妻ともNTTOB)を訪問した。この時のことは改めて紹介したい。