10/31(月) 10月最後の今日、店仕舞いをしたのは築地場内市場の魚卸「藤保(ふじやす)」。この店には奈加野のオヤジに連れられてよく顔を出してきた。
先週の土曜日、奈加野のオヤジが「藤保が店仕舞いする、月曜日は市場だ」と云うので同行した。店仕舞いの店へのご祝儀ではないが、毛蟹を一箱購い田舎の妹へと送った。記念写真だと、藤保の兄弟と奈加野(帽子姿)のオヤジが一緒の処を写す。
“千秋なおみ”の歌の文句であれば「今日でおしまい、店お仕舞い・・・・つけは帳消し云々」となるところだが、兄弟年金暮らしに入るとのこと。顔見知りがなくなるのは淋しいものだ。
帰りに土佐の「四方竹」(しほうちく)を青果場で求め、何時もの「愛養」でコーヒーを飲んでから会社にでた次第。(四方竹は20cmぐらいの大きさ、根本が四角。今時分に出るタケノコ。煮て食すが、柔らかくて美味い)
さてさて、今朝の弁当だが何時ものように5時には目が醒め、早くから準備に入った。何ににするか全く考えてない。冷蔵や冷凍を引っ張り出して、メニューを吟味。(ちっと表現がオーバーか)
思案・呻吟の結果、イカのリング揚げ、根菜の煮物、定番の卵焼きに落ち着いた。飯を炊き、イカとさつま芋・ピーマン・パプリカを揚げる。大根と人参・椎茸・牛蒡を油揚げ煮る。最後にサクサクと卵焼きを作り弁当に詰めた。
今日は、三人分の弁当。私は築地に立ち寄るので持たずだが、Kの弁当があるので結局は弁当袋を持参となったが・・・。
弁当も詰め終えた頃に電話があった。何と長女「今日は休みで弁当要らない」だって。用意してあるよと言うと、「後で食べに行く」だって、さ。
「田舎の高校」
土曜日、私の出身高校である高知県立中芸高等学校の在京OB会があった。高知県の人でもその高校を知らない人がいるかもしれない。それだけ田舎の学校と云うこと。別に田舎と卑下も自虐もあるわけではない・・・。
高知市内から室戸岬(東部という)へ50~60Km向かった田野町の丘の上に在る。江戸の末に郡奉行所や学館があった跡地。学び舎からは太平洋が望める。広い海、限りない空が広がる。(岩崎弥太郎の親父が入牢し、中岡慎太郎が学んだ跡地)
土佐の片田舎ではあるが、山・川・海・空と自然に恵まれ温暖で穏かな土地である。その高校である以上、校風も穏健であるはず。私が在校した当時のクラスは6クラスだったか。二百名以上の同級生がいたであろうが、その大半の記憶がない。
在京同窓会(オール卒業生)の名簿では、当初三百数十名のリストがあった。私が幹事となり昨年に同窓会の案内を出したのもこの人数。処が転居先不明と今後の案内不要で戻った数が百通以上となった。同窓会への参加者は僅か二十名であった。
色んな会がメンバーの高齢化、若者の組織帰属離れなどで維持が難しくなってはいる。しかし、二十名とは淋しい限りであった。(数年間のブランクがあった所為もあろうが)
そして今年、二百二十枚程の案内を発送した。参加人数は十五名と更に減った。郷里から現校長や校友会を代表して三名の方が上京下さったので総勢十八名の会であった。幹事としての責任は重いが、これはこれでいいのではないかと思い直した。
消滅するものは無くなればいい、集まりたいと思うメンバーだけが集えばいい。そう考えることとした。実は、母校も存続の危機にあるとか。
都市への集中化、少子高齢の波を被っているわけだが、輪をかけて優秀な生徒は都市の学校に入る。田舎の学校は益々寂れていくこととなる。
されども、あの丘の上に建つ学び舎だけは残したい。青春の思いでが有るからと云うだけではない。地域の教育機関を無くすと益々地域は寂れて行くのだから、そのことは自明の理であろう。
裏の竹薮の中に無数に落ちていたタバコの吸殻、体育館裏への呼び出し、秋祭りの酒、砂埃を浴びながら通った自転車通学、砂浜にでて沈む夕日を臨みながら語り合った青春と部活。
百人百様の青春が詰まっているだろう、丘の上の学校。通称下駄割坂と呼ぶ、正門へとつづく急な坂道・・・。良きも悪しきも、思い出の地であることは間違いなし。
そんな青春や、これからの年金・老いのことでもいい。集えば輪が・世界が広がろうに・・・そんなことを思う次第。