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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

大贖罪日 第5回

2015年11月25日 | 日記

 もろもろの罪が清められる日

聖書によく知られている大贖罪日について、レビ記16章に書かれています。29節からお読みします。

 

「これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の仕事もしてはならない。この国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである。これはあなたがたの全き休みの安息日であって、あなたがたは身を悩まさなければならない。これは永久に守るべき定めである。油を注がれ、父に代って祭司の職に任じられる祭司は、亜麻布の衣服、すなわち、聖なる衣服を着て、あがないをしなければならない。彼は至聖所のために、あがないをなし、また会見の幕屋のためと、祭壇のために、あがないをなし、また祭司たちのためと、民の全会衆のために、あがないをしなければならない。これはあなたがたの永久に守るべき定めであって、イスラエルの人々のもろもろの罪のために、年に一度あがないをするものである」。彼は主がモーセに命じられたとおりにおこなった」(レビ記16:29~34)

 

 一日中断食をしながら、私はすべての偶像を捨てただろうか、悔い改めていない罪がないだろうか、まだ習慣的な罪があるだろうか?弱さゆえに陥っている罪がないだろうか、まだ私が主の前に告白していない罪が、私の生涯の中に残っていないだろうか?恐れの心を持って、永遠に生きるために心を内省する一日を過ごすのです。一日中そのように過ごすのです。

 

「この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである」。

 

どのくらい清められるでしょうか? 80%でも 99%でもないのです。100%清めてくださいます。私たちの罪が赦される時、97.7%許されるのでしょうか。そうではありません。罪は一つも、私たちの生涯の中で、思いや考えにおいても残すことができないのです。それが罪だからです。0.03%ほどの罪が残っていても、その罪は、やがて私たちを完全に支配し、人生を破壊する力があるからです。

「もろもろの罪」から、私たちは人々の前でなく、主なる神様のみ前で清められるのです。神様は私たちの心の底まで見ておられます。私たちは欺くことができます。きれいな服で隠すことができます。しかし、神様の前では、誰も自分の罪を隠すことのできる者はいません。神様は恐れおおい方です。神様は私たちの考えや動機をお読みになるお方なので、私たちが罪を捨てる時には、徹底的に捨てなければなりません。

私の中に利己心があることを知ったなら、徹底的に捨てて、傲慢があることがわかれば、主の前にことごとく低められなければなりません。偶像があるなら、徹底的に切り捨てなければなりません。徹底的に悔い改めるのでなければ、悔い改めないでください。改心に至らない適当な悔い改めはしないでください。なぜでしょうか?悔い改めを適当にして滅びることは、悔い改めを全くしない酔っ払いと同じ結果だからです。私たちが悔い改めるのは大贖罪の日のように悔い改めなければなりません。

1年の最後の日である大贖罪日に、神様は本を広げ、私たちの名前を一人ひとり呼ばれます。その時、私たちの中に罪があってはなりません。私たちの内に罪があってはならないのです。


大贖罪日  第4回

2015年11月24日 | 日記

 公正な審判

アメリカでは、裁判所に行くと、どう説明すればいいでしょうか、サーキットコートという言葉が記されています。巡回裁判所のことをいいます。その昔、裁判官が少ないときに、町ごとに被告人を一時的に留置場に閉じ込めておき、巡回裁判官が来て、裁判をするのを待ちました。そして裁判官が、月に1回、2ヶ月に1回、3ヶ月に1回、巡回してくるときにサーキットコートと呼ばれるところで裁判をするようになっていました。ここで、その巡回裁判官が来た時のことを想像してみましょう。

「今留置場に何人いますか?」。「17人います」。「じゃあ、今すぐみんな連れてきて、一列に並ばせなさい。私は今忙しいから、調査したり、審判したりする時間がないから、あっ、君はまだ顔つきが悪いし、もっと反省する時間与えて10年。君は善い心が芽生えそうだから釈放する。君は、3週間。君は無罪」。とハンマーをカンカン叩いて審判を終わらせるならどうなるでしょうか。「あーなんてことだ、不法だ!!話にならない!!」。と人々が暴動を起こすのではないでしょうか?なぜでしょうか?判決を言い渡す前に、必ず判決について審議・審判することが必要だからです。審判が無ければ、判決もないのです。当然のことですね。この世界でもそうするのなら、さらに天においても審判があるのではないでしょうか。

罪人に対して、「懲役20年だから、地獄の監獄に行って20年後に出てきなさい」ではないですね!永遠に生きるのか、それとも永遠に滅びるのか、恐るべき運命を決定する上で、審判がないだなんてあるでしょうか!いいですか、審判がないなんてことがありえますか!!こんな話にもならない教えが、なぜキリスト教会にこれほど広がってしまっているのでしょうか。放送を通してこのメッセージを聞いておられる皆さん!皆さんの中に、そのような考えをお持ちの方がおられるでしょうか。聖書は宣言しています。審判があると明確に述べています。審判を通過しなければ救いを受けることはありません。義人たちにとって、自分の罪を告白し、罪から離れた者にとって、裁きは恐ろしいものではありません。そのように聖書が述べているからです。


大贖罪日  第3回

2015年11月23日 | 日記

救いは個人的経験

テモテⅡ5:24にこのようにかかれています。

ある人の罪は明白であって、すぐ裁判にかけられるが、ほかの人の罪は、あとになってわかって来る」。興味深いですね。「ある人の罪は明白であって、すぐに裁判にかけられる」とあります。なぜ、すぐに審判にかけられるのでしょうか。

私たちは審判を受けますが、団体としてではないということです。1家族として審判を受けたり、1教会として審判を受けるのなら、いいですね。そうではありませんか?一つの教会で3分の2が義人であるなら、残りの3分の1の悪人もまとめて、救いに入ることができるなら、どれほどいいでしょう。

しかし、救いは、極めて個人的な経験です。復活も個人的な経験です。福音も悔い改めも個人的な経験であり、審判も極めて個人的な経験なのです。全宇宙にその人1人しかいないかのように全宇宙の住民の前に、何一つ隠されたものがなく、記録の書が開かれ、審判を受けるのです。恐ろしい話ではないでしょうか?怖いですね?震え上がってしまいますね。そうではないのです。審判は福音です。審判はいいことです。なぜでしょうか?神の恵みによって、許しを受け、私たちが救われて、毎日、聖霊が私たちの内に働かれ、罪の力に勝利し、主の御心のままに生きるなら、主はすぐに私たちを裁き、私たちが罪人であり、悪であるにもかかわらず、主のあふれる恵みによって救い出され、主の義によって新たな人生を歩んできた事実が明らかにされる時だからです。

神様の恵みとあわれみが、どれほど豊かに注がれてきたかを告白し、賛美する時となるのです。審判は恐ろしいものではありません。信じる者に、審判は良い知らせです。しかし、罪を捨てず、罪から分離されない、生まれながらの人々には、審判の日は恐ろしい日となります。自分たちの運命が滅びに決定される日となるため、人々は裁きを恐れます。私たちが本当に主を愛し、主と一つになるなら、審判を恐れることはありません。

私たちが主を敬い、隠れたところで主のために払ってきた奉仕と犠牲は、多くの人々に忘れられることもあるでしょう。しかし天には記録の書があり、神様は忘れられることはありません。それぞれ自分の罪と善が書かれた本が開かれ、審判を受ける経験は、各自一人ひとり進められていくことでしょう。

 

 


大贖罪日  第2回

2015年11月22日 | 日記

開かれた本

なぜ本を開かれるのでしょうか?神様は本を必要とされません。なぜ神様に本が必要なのでしょうか?記録する媒体を必要としませんね。本を広げるということは、あなたと私のために、天使たちのためにも、サタンと堕落した天使たちが告訴するとき、証明するために、本を開いておられるのです。主の審判は、密かにこっそり行われるものではありません。全宇宙の前に、公に本を広げて、主の救いを受けた者が本当に義とされ、天の住民にふさわしい者とされた事実を証明して見せるためです。そして、救われない者に関しても、神様が彼らの一生の間、天使を遣わし、またありとあらゆる方法を用いて最善を尽くされたのにもかかわらず、義とされる道を選ばなかった事実を、公開されるのです。審判は神様のために必要なものではなく、この宇宙に住んでいるすべての被造物のために必要なのです。

特にこのことを覚えてください。天にいた天使たちは彼らの3分の1の友人を失いました。その数は千の幾千倍、万の幾万倍、千千万万、多くの数という意味ですが、その数は数十億、数百億ともわかりません。そのような多くの天使たちが、愛していた友人を3分の1失いました。悪魔の訴え、誘惑によって、心を転じていった親友たちを失ったのです。その深い悲しみを持つ天の住民たちは、再び天に罪が侵入してくることを、近づいてくることさえ忌み嫌っているのです。天には、もう罪が生じてはならないのです。反逆があってはなりません。だから、天のみ国が、本当に徹頭徹尾、本当に義なる者だけが永遠に存在している場所にするために、救われる者が来るのを最大の関心を持って見守っているということを、私たちは覚えておく必要があります。ですから、神様は本を広げて審判なさるのです。

「さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか」(Ⅱペテロ4:17,18)

なぜペテロはこのように記録したのでしょうか?「神の家から裁きが始められる時がきた」と述べています。みなさん、エゼキエル9章を見てみますと、審判の天使がどこから審判を始めるでしょうか。まず、神殿、聖所から、つまり教会の中から、教会の誰からでしょうか?歳を重ねた老人から始めるとしています。その当時、歳を重ねたという人というのは、祭司を意味していました。今日で言えば、牧師から、次に長老たち、執事たちのことです。御言葉を知っていて、他の人に教える責任を持っている人々から審判が開始されることが旧約に述べられ、新約にも語られています。

 

もう一度聖句をお読みします。

さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。 4:18また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。」(Ⅱペテロ4:17,18)

この御言葉は、イエス様が十字架にかかり、復活された後に書かれた御言葉ですね?使徒ペテロがこのように記録したものですね。

ですから、人々が言うように、イエス様の十字架によって、もう審判・裁きが終わったのではないのです。みなさん、私たちがこの御言葉だけを見ても、審判が終了していないことを知ることができるのではないでしょうか。

しかし、今日の多くの教会が誤りに陥っているのです。


  大贖罪日 第1回  デイビット・カン説教集

2015年11月21日 | 日記

大贖罪日

                   デイビット・カン

 

    裁きの日

ユダヤ人たちが毎年正確に保つ日がありますが、その日をヨム·キプールと呼びます。それは大贖罪の日という意味です。それは、ユダヤ人だけが守るのではなく、聖書によれば、すべての人々がこの大贖罪の日の経験をしなければならないという掟なのです。みなさん、この日、一日中ユダヤ人たちは断食をします。それは昔のイスラエルの民がそのようにしたからです。なぜこの日がそのように重要な日とされているのでしょうか?ヨム·キプール、大贖罪の日がなぜそれほど重要なのでしょうか?

ユダヤ人の大百科事典第2巻286ページをみると、大贖罪日という単語の下にこのような説明があります。「神は世を裁くために、御座の上に座っておられる。そしてその前に本が開かれている」もう少し下の方に行くと、このような言葉があります。 「神は、羊飼いが棒を持って羊をその下を通過させるように、すべての生きている魂を通過させて、生きているすべての被造物の運命を決定しておられる。この日は、判決の日であり、どのような者たちが生きることを許され、どのような者たちが死ぬことになるかを判断する日である」と彼らは説明しています。これは非常に聖書的です。ですからキリスト教を、私たちはユダヤ・キリスト教と言ったりします。ユダヤ人はいまだメシアを待っているので気の毒なのですが、旧約聖書を信じているのでそうするのです。

最近クリスチャンたちは、異常な二つの考え方を教会に持ち込みました。誤った概念を持って神様の裁きを廃したのです。イエス·キリストを信じさえすれば、審判はないというものです。審判を受けることなく、裁かれないといった間違った考えです。聖書を誤解しています。第二に、私たちは、イエスを信じさえすれば、神の戒めと、律法はもう必要がないというのです。誤った考え方です。聖書を誤解したゆえに起こる考えです。聖書はそのよう教えていません。

今私たちは、審判の問題を扱っています。大贖罪についてです。一年に一度すべての民は聖所の周りに集まって断食をし、自分自身を深く探り、本当に罪から清められて贖罪を受ける経験をするのです。

日毎の聖所の働きを通して、羊、あるいは鳩を、さらに貧しい人々は小麦粉一握りを持って来て、罪を告白し、その都度罪を洗うようにされました。ではなぜ年に一度、大贖罪の日を制定し、心底から罪を悔い改めるように主は命じられたのでしょうか?

このことを簡単に説明しますと、神様は永遠に変わらないお方で、神様に回転の影はないのです。しかし、私たちは、朝夕に変わってしまうことがあります。一日に何度も変わってしまうのです。また、心から罪を捨て、本当に生まれ変わった人が、6ヶ月後には自分の昔の罪の習慣に陥ることもあります。主の御心のままに生きようと最善を尽くしてきたのに、誘惑に負け、試練に倒れて、後ずさりしていく人々がたくさんいるのを私たちは見て知っています。従って、神様は主を知り、主を信じ、主に従うと告白する者たちが本当に最後の時に至るまで、罪を悔い改めた者であるか、知ろうとされたのです。本当に罪から実際に分離された人であることを知ろうと望まれたのです。

いいえ、主は全てをご存知ですから、宇宙万物と、特に天使たちのために、そのことを証明することを希望されたのです。その人が、本当に罪を悔い改め罪から分離された者であるかどうか、また清められ義とされた者であるかどうか、御国に行って永遠に生きても、安全で正当なものであるかどうかを、全宇宙に証明しようとされたのです。