もろもろの罪が清められる日
聖書によく知られている大贖罪日について、レビ記16章に書かれています。29節からお読みします。
「これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の仕事もしてはならない。この国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである。これはあなたがたの全き休みの安息日であって、あなたがたは身を悩まさなければならない。これは永久に守るべき定めである。油を注がれ、父に代って祭司の職に任じられる祭司は、亜麻布の衣服、すなわち、聖なる衣服を着て、あがないをしなければならない。彼は至聖所のために、あがないをなし、また会見の幕屋のためと、祭壇のために、あがないをなし、また祭司たちのためと、民の全会衆のために、あがないをしなければならない。これはあなたがたの永久に守るべき定めであって、イスラエルの人々のもろもろの罪のために、年に一度あがないをするものである」。彼は主がモーセに命じられたとおりにおこなった」(レビ記16:29~34)
一日中断食をしながら、私はすべての偶像を捨てただろうか、悔い改めていない罪がないだろうか、まだ習慣的な罪があるだろうか?弱さゆえに陥っている罪がないだろうか、まだ私が主の前に告白していない罪が、私の生涯の中に残っていないだろうか?恐れの心を持って、永遠に生きるために心を内省する一日を過ごすのです。一日中そのように過ごすのです。
「この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである」。
どのくらい清められるでしょうか? 80%でも 99%でもないのです。100%清めてくださいます。私たちの罪が赦される時、97.7%許されるのでしょうか。そうではありません。罪は一つも、私たちの生涯の中で、思いや考えにおいても残すことができないのです。それが罪だからです。0.03%ほどの罪が残っていても、その罪は、やがて私たちを完全に支配し、人生を破壊する力があるからです。
「もろもろの罪」から、私たちは人々の前でなく、主なる神様のみ前で清められるのです。神様は私たちの心の底まで見ておられます。私たちは欺くことができます。きれいな服で隠すことができます。しかし、神様の前では、誰も自分の罪を隠すことのできる者はいません。神様は恐れおおい方です。神様は私たちの考えや動機をお読みになるお方なので、私たちが罪を捨てる時には、徹底的に捨てなければなりません。
私の中に利己心があることを知ったなら、徹底的に捨てて、傲慢があることがわかれば、主の前にことごとく低められなければなりません。偶像があるなら、徹底的に切り捨てなければなりません。徹底的に悔い改めるのでなければ、悔い改めないでください。改心に至らない適当な悔い改めはしないでください。なぜでしょうか?悔い改めを適当にして滅びることは、悔い改めを全くしない酔っ払いと同じ結果だからです。私たちが悔い改めるのは大贖罪の日のように悔い改めなければなりません。
1年の最後の日である大贖罪日に、神様は本を広げ、私たちの名前を一人ひとり呼ばれます。その時、私たちの中に罪があってはなりません。私たちの内に罪があってはならないのです。