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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

完全な屈服  最終回

2015年11月20日 | 日記

私たちの生活は時には混乱するようなことが起きるかもしれません。しかし聖書の約束により、神様に自身を任せることを通して、神様はご自身の品性を私たちのうちに創り出して下さいます。このようにして、キリストの栄光、すなわちキリストの品性を生活に表す人は、神様の御国に受け入れられるのです。新しくされた人類は、白い衣を着て神様と共に歩みます。彼らにはその価値があるからです。

 

もう一か所『各時代の希望』の言葉を読みたいと思います。このようにあります。

 

「魂がキリストに屈服するとき、新しい力が新しい心を占領する。人が自分自身ではなしとげることのできない変化が行われる。それは超自然の働きであって、人の性質に超自然の要素をもたらす。キリストに屈服した魂は、キリストご自身のとりでとなり、キリストはそれをそむいた世の中に保たれる。キリストはその中でご自身の権威よりほかの権威がみとめられないように望まれる。このように天の勢力によって占領された魂はサタンの攻撃に攻め落されることがない。しかしわれわれは、キリストの支配に服していないときに、悪魔に支配される。われわれはこの世の主権を争っている二大勢力のどちらかに必然的に支配されるのである」(各時代の希望中巻41p)

 

私たちの心を誰が支配しているでしょうか。私たちが仕えているのは誰でしょうか。誰に心を捧げているでしょうか。徹底的な屈服、これこそ主が求めておられることです。このような賛美歌があります(讃美歌370番)。

 

♪目醒めよわが霊(たま)、こころ励み、ちからの限りに いそぎ進め

 命の冠(かむ)りは わがためにぞ、天にゆく馳場(はせば)にそなえらるる ♫ 

 

主は私をどこへ連れて行かれるのでしょうか。主が望まれるのは何でしょうか。屈伏、徹底的な屈服なのです。神様は私たちを御国に連れていきたいと願っておられます。すべての聖なるものと過ごす世界へ・・・。しかし、あなたがまず屈服すること、神様に徹底的に屈服することを願っておられます。

 

《お祈りいたします》

「天におられる神様、み言葉を通して、今日、心を尽くして主に屈服することを教えていただきました。このメッセージを聞かれた方々の心に、そのような思いをお与えください。主よ、今、ひざまずいて私自身を燔祭として、生きた供え物、聖なる供え物として主の前にお捧げいたします。主に用いられる器になるために、主の前に降伏します。どうぞ私のすべてをお受け入れ下さい。そして、主の栄光をあらわし、主の働きが出来るように助けて下さい。聖なるキリストの御名によってお祈りいたします」。

 


完全な屈服 第10回

2015年11月19日 | 日記

重荷も軽く

くびきは牛が荷物を運ぶのを助けるため、また、重荷を軽くするために牛に掛けられます。キリストのくびきもこれと同じです。我々の意志が屈服を通して神様のみ心と一つになる時、私たちは人生の重荷を軽く感じるようになります。私たちは自分の考えで、自分の力でやろうとする時、たくさんの重荷を背負うことになります。ところが私たちの人生を主に捧げ、神様の栄光のために生きるならば、たとえどんなに苦しみがあったとしても、心配がない、不安がない、重荷がない、心が楽しく喜びがあるようになります。キリストはいつも私たちと共にいて下さる方、神様の戒めの道を歩む人はキリストを道連れとして歩いているのであって、その心はキリストの愛のうちに休まるのです。

モーセが、「どうかあなたの道を示して下さい」と祈った時に、主は、「私自身が一緒に行くであろう、そしてあなたに安息を与えるであろう」と彼に答えられました(出エジプト33:13,14)。また、預言者エレミヤを通して次のようなメッセージを与えられました。「あなたがたはわかれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ」(エレミヤ書6:16)と安息の約束を与えられました。

私たちが神様に屈伏、無条件降伏する時に何を得ますか。その時に安息が与えられるのですね。神様はこのように言われます。「どうか、あなたはわたしの戒めに聞き従うように。そうすれば、あなたの平安は川のように、あなたの義は海の波のようになり」(イザヤ48:18)。聖書の御言葉通りに信じ、自分の魂をキリストにゆだね、その生活をキリストの命令に従わせるものには平安と穏やかさがあります。 

神様に従う時に、平安があります。イエス様がそのご臨在によって、私たちを喜ばせて下さいます。そのとき、この世のどんな者も私たちを悲しませることは出来ません。完全な服従は、完全な安息を与えるのです。 

「あなたは全き平安をもって こころざしの堅固なものを守られる。彼はあなたを信頼しているからである」(イザヤ26:3)。

  


完全な屈服  第9回

2015年11月18日 | 日記

天から生れた心

「『わたしは柔和で心のへりくだった者であるから・・・・・・わたしに学びなさい』とイエスは言われる(マタイ 11:29)。われわれはキリストから柔和と謙遜を学ぶために、キリストの学校に入るのである。あがないは、魂が天国のために訓練される過程である。この訓練はキリストを知ることである。それは暗黒の君の学校で身についた考え方、習慣、行為からの解放である。魂は神への忠誠に反する一切のものから救い出されねばならない。キリストの心の中は、神との完全な調和に支配されていたので、完全な平安があった。彼は称賛に得意になったり、酷評や失望に落胆したりなどされなかった」。

本当にこのことは真理です。私たちは、人から賞賛を受けて拍手されると気分がいいですよね。しかし、そうやって多くの人に賞賛されても、過ぎ去ってみると何でもないのですね。過ぎてしまえば、ちょっと拍手があっただけで、それ以上何もないのです。賞賛も酷評も、過ぎてしまえば何でもありません。

「最も激しい反対と最も残酷な仕打ちのただ中にあっても、イエスは勇気を失われなかった」。 

イエス様はそのようにされました。私たちもそのようにすることが出来るのです。

「しかしキリストに従う者であると自称している人々の中には、不安で心配な心を持っている人が多いが、それは彼らが自分自身を神にまかせきれないからである。彼らは神に完全に屈服しない。それは彼らがこのような屈服に含まれている結果を避けるからである。彼らは、この屈服をしないかぎり平安をみいだすことができない。不安を生じさせるのは自分を愛する心である」。

キリストに従うという人の中には、不安で心配な心を持っている人が多くいます。どうしてそうなるのかというと、彼らが自分たちを神に任きれないからで、彼らは神様に完全に屈服しないのです。それはこのような屈服に含まれている結果を避けるからだと書いてあります。

皆さん、完全な平安はここにあるのです。彼らはこの屈服をしない限り、平安を見出すことが出来ないのです。屈伏なしに平安はありません。「不安を生じさせるのは自分を愛する心である」皆さん、本当にこの通りではないでしょうか。

「われわれが天から生まれる時に、イエスのうちにあったのと同じ心がわれわれのうちに宿るようになる。それはわれわれを救うために自らいやしい身となられたイエスの心である。その時われわれは、最高の地位を求めなくなる。われわれはイエスの足元にすわってイエスについて学びたいと望むようになる。われわれの働きの価値は、世間にそうぞうしい宣伝をしたり、自分自身の力で熱心に活動したりすることにあるのではないということがわかる。われわれの働きの価値は、聖霊を与えられる度合いに比例する。こうして神に信頼することによって、一層きよい心の品質が与えられ、忍耐のうちにわれわれの魂を保つことができる」(各時代の希望中巻50~53p)。 

この通りですね。「私たちの働きの価値は聖霊を与えられる度合いについて比例する」。このことをもう一度しっかりとらえたいと思います。そして、神様に信頼することによって、非常に強い心の品質が与えられ、忍耐のうちに私たちの魂を保つことが出来ることを体験していきたいと思います。


完全な屈服 第8回

2015年11月17日 | 日記

では一つ、本を読みたいと思います。ちょっと長いですけど、だいたい2ページくらいあります。この本は『各時代の希望』という題ですが、とても霊感に満ちた書です。この本は、神学的な本ではなく、また注解書のようなものでもなく、神様の御心を私たちに伝え、神様の恵みをはっきりと教えてくれるものです。私はこの本をいつも傍らに置いて、瞑想の課題としています。この本は中国語では、『万代願望』となっていますが、私たちの願望ではなく、長い間多くの人たちが期待し慕っていた救い主イエス様の生涯について、とてもよく書かれています。この内容をよくかみしめて学んでいきたいと思います。 

「この世の標準に達しようとして、心配の重荷に心を痛めている人が多い。彼らは世の奉仕をえらび、世のわずらいを受け入れ、世の習慣をとり入れた。こうして彼らの品性はそこなわれ、人生は疲れはてたものとなる。野心と世俗的な欲望を満足させるために、彼らは良心を傷つけ、悔恨というよけいな重荷まで背負いこむ。たえまない心配のために、生活の力はすりへって行く。主は彼らがこの束縛のくびきを放棄するように望まれる。イエスはわたしのくびきを負いなさいと彼らを招いておられる。『わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである』と主は言われる」(マタイ 11:30)。

 多くの人は、この世の生活に疲れていて、生きるだけでも辛いのに、さらに良心の苦しみまで持っているとイエス様はおっしゃったのですね。この絶え間ない痛み、束縛の苦しみから解放しようとしておられるのです。

「イエスは彼らに、まず神の国と神の義とを求めなさいと命じられる。そうしたらこの世の生活に必要なものはすべて加えられると、主は約束しておられる。心配は盲目であって、将来をみわけることができない」。

 多くの人は、心配とか不安があると信仰が無くなってしまいます。確信がなくなってしまうのです。皆さん、この事がどれほど事実でしょうか。 

「だがイエスは、始めから終りまで見通される。困難のたびに、イエスはそれをとり除くためにご自分の道を備えられる。天の父なる神は、われわれのために無数の道を備えて下さるが、われわれはそのことを何も知らないのである。神に奉仕しそのみ栄えをあらわすことを最高のものとするというただ1つの原則を受け入れる者は、困った問題がなくなり、足元にはっきりした道が開かれることに気がつくのである」。

自分の意志を通そうとすると困難しかないのですね。自分の思い通りにやろうとすると問題ばかりになります。神様の御心の道は平たんで明らかなのです。皆さん、救いとは、贖い(あがない)とは何でしょうか?それは、魂が天のために訓練される過程です。イエス様を信じれば終わりというのではなく、日々自分の世俗的なところ、古い習慣、誤った考え方、そうしたものを真理によって訓練されることです。ある時は倒れ、もう一度悔い改めてまた立ち上がって、毎日毎日の訓練の過程が贖いなのです。


完全な屈服 第7回

2015年11月16日 | 日記

 主の御声を聞く人生

韓国である時、一人の年配の方ご婦人が電話して来られました。「牧師先生」「ああどうなさったのですか?」「私、とても感動して電話せずにはおられなかったんです」「どのような感動を受けられたのですか?」。その方が言いました。「私ある集会に行ったんです。家庭の小さなグループだったんです。何十年もイエスさま信じていたけれど、このような小さな集会で、このような大きな感動を受けたことはありませんでした。30人位の、韓国の中部にある集会だったんですけれども、とてもとても感動して、聖霊に満たされました。その集会は、牧師先生のDVDの説教を聞いて、それから一人の人が証しされ、その次の人が証しをして、その人が終わるとまた次々に別の人たちが証しをして、皆さんもう声を詰まらせて、涙を流して証されました。もう御霊がその中に充満していました」「誰が説教されたのですか」「ああ、先生の説教をお聞きしました」「そうですか私にはそんな力はありません。どうしてそんなことが起きたのでしょうか」「わかりませんが、皆さんが、神様の御心がはっきり分かり、自分がこれから何をするべきか理解出来るようになりました。今まで分からなかった御言葉が分かるようになってきました」と、証しされたのです。本当にこれが天の雰囲気でなければ、どこが御国でしょうかと言うくらい、御霊に満たされました」。このような会話をしました。

皆さん、私たちは屈伏する時、神様の証人になれるのです。屈伏する心に神様はお住まいになります。神様が心に住まわれると、私たちは神様のみ心を知ることが出来るようになり、単純にそれを行う、御心に完全に服従する人になります。もし私たちが主の上に落ちて砕けるなら、もう私と言うものはなくなるのです。私のもの、私の思い、私の主張、私の意見、私の計画、そういった私というものが、イエス様の石の上に落ちて砕かれなければなりません。

皆さん、すべてのことを屈服するというのは、自己放棄、自分に死ぬことです。自分が主ではなく、イエス様が主になるということです。そして、その後やってくる苦難、苦しみ、またその代価がどれほどのものであったとしても、それを受け止める覚悟をすることが屈服なのです。屈伏には保留するものがあってはなりません。屈伏とは無条件降伏です。神様が私の主人になることです。神様が私の王であり、私の創造者であり、私たちは主の僕なのです。私たちは祈る時、よく「しもべ」という言葉を使いますね。韓国では牧師先生に対して、「しもべ様」と言うことがあります。「しもべ」なのに、なぜか「様」をつけるので、ちょっと変ですね。私たちは主のしもべであって、それ以外に何があるでしょうか。主の御名に全てを屈服させるならば、自分というものがへし折られるならば、主が私たちに新しい人生を与え、私たちは主の栄光をあらわす器となります。