生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

村山久美子『視覚芸術の心理学』/絵画の境界画定としての枠や額縁

2010年07月30日 18時45分51秒 | 美術/絵画
2010年7月30日-5
村山久美子『視覚芸術の心理学』/絵画の境界画定としての枠や額縁

 『視覚芸術の心理学』は、造形心理学という立場から、関係する理論とデータを紹介している。

  「ところがHagenにいわせると,Gombrichの絵画史と知覚の考え方は,まさに彼が否定した,具象的リアリズムへの発展という観点を導くものであるという.リアリズムが決定的図式でないとすれば,自然は,客観的方法ではどのようにしても芸術家にとらえられないことになる.」(村山 1988: 25頁)。

 ここでのリアリズムの定義または意味は何だろう。

  「[Gibson]の考え方によると,絵画のスタイルは,対象や描かれる場面の不変情報をどの程度とらえるかによって表象としての成功が決まるというのである.写真とカリカチュア……の成功は,その主題が通常環境にある場合と同一の情報を含むゆえであると考えられた.Gibsonは絵画を芸術家である人間の達成であるとして,知覚対象としての特殊性を認める立場でありながら,絵画とは表象であると限定していた点に問題が残るであろう.」(村山 1988: 27頁)。

 う~む、いまだに表象というのがわからん。表象の定義または解説は、出ていない。「絵画とは表象であると限定していた」とはどういうことを具体的に言うのだろう。「同一の情報を含む」かどうかの判定基準は何だろうか。(あるとすればだが、)非表象的な美術作品とは、どんなものだろうか。

  「構図というより枠に斜方向を持ち込んだ例として,Arnheimはモンドリアンの菱形の枠に注目している.それはデカルト的グリッドの安定性に基づく枠内外の連続性に妨害を持ち込み,それによってかえって不協和な境界の抵抗をつきぬけて,身体の安定性がみなぎるように示している.現代絵画は枠の形やバランスのパターンをさまざまに変え,複雑化する可能性を示しているが,枠や構図の解放は,地方区的および宇宙的なグリッドの支配性があってこそ有効性を発揮するのであろう.」(村山 1988: 50頁)。

 構図と構成を分ける場合がある。この本で構図の定義は無かった。構図とは何だろう?
 モンドリアンの菱形の枠(というより、菱形画面では?)の絵画は、面白い。「デカルト的グリッドの安定性に基づく枠内外の連続性に妨害を持ち込み,それによってかえって不協和な境界の抵抗をつきぬけて,身体の安定性がみなぎるように示している」というのは、まったくわからない。「枠内外の連続性を妨害する」とは? 逆に、身体の(なぜ身体なのか?)安定性がみなぎる、とは?

 抽象絵画には、張りカンヴァスのままで額縁の無いのがある。なぜだろうか。壁が白くて箱型の空間が、いつからだったか、美術館でも採用されるようになった。

 村田 真「ホワイトキューブ」、
http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/artscape/serial/0105/murata.html
によれば、「ホワイトキューブが理想的な展示空間とされるようになったのは、……1929年に開館したMoMAがホワイトキューブを採用してからのことである」とある。
 この、ホワイトキューブと呼んでいる展示環境と関係しているだろう。ひょっとして、抽象絵画が、少なくとも一時は注目されたことと関係しているのかもしれない。日本では、だれだったか(文献も失念)が言って、昔は暗かった壁面が明るいものに変わっていったという。


[A]
*アルンハイム,ルドルフ.(関計夫訳 1983.11)中心の力:美術における構図の研究.紀伊國屋書店.[The Power of the Center: a Study of Composition in the Visual Arts]

*アルンハイム,ルドルフ.(上昭二訳 1971)芸術心理学のために.ダヴィッド社.

*アルンハイム,ルドルフ.(波多野完治・関計夫訳 1963, 1964)美術と視覚:美と創造の心理学.美術出版社.

*アルンハイム,ルドルフ.(関計夫訳 1974)視覚的思考:創造心理学の世界.美術出版社.

[M]
村山久美子.1988.6.視覚芸術の心理学.vii+200pp.誠信書房.

*村山久美子.2005.2.人生を描く心理学:アートセラピー表現に見られる人生観.ブレーン出版.

[N]
*仲谷洋平・藤本 浩一.1993.5.美と造形の心理学.北大路書房.[y3,059]

*Hagen, M.A. 1979. A new theory of psychology of representational art. In, Nodine, C.F. & Fisher, D.F. (eds.), "Perception and Pictorial Representation", pp.196-212. Praeger.

*Hagen, M.A. 1980. Generative theory: a perceptual heory of pictorial representation. In Hagen, M.A. (ed.), "The Perception of Pictures. Vol. II.", pp.***-***. Academic Press.

データ捏造についての統計的推論/メンデル

2010年07月30日 14時11分54秒 | 生命生物生活哲学
2010年7月30日-4
データ捏造についての統計的推論/メンデル

 茂木健一郎氏との対談のなかで、福岡伸一氏は、次のように述べている。

  「データの捏造というのは昔からありました。……メンデルですら、自分の理論に合うように数をコントロールしていたという事実があります。」(茂木 2007: 90頁)。

 事実だと確認されたという話ではなかったと思う。また、データ操作があったとすればそれは、メンデル自身ではなく、気配りした実験助手だという説があった(要文献)のではなかったかな?

 メンデルのデータの捏造疑惑については、伊勢田(2003: 219-221;わかりやすくて良い本である。吟味に値する)の「メンデルのデータ捏造疑惑」と題する節で、カイ二乗検定と関わって、仮定された比にあまりにも当てはまり過ぎで、そんなのはあり得ないといった、Fisherによる推論を紹介している。
 事実関係を調べたのではなく、なんせ当時メンデルの論文は注目されず(Darwinには別刷が送られていたが、頁間にペーパーナイフを入れた形跡は無く(だったかな?)、したがって読まなかったらしいと、言われる)、統計的(分布)モデルにもとづく、またランダムを仮定した推論であるから、むろん、データ操作があったという主張への反論はある(後述)。
 要するに、推論はあるが、当時の昔に事実確認したわけは無いだろうから、福岡伸一氏の見解とは異なって、事実だとは主張できない(とわたしは主張する)。


[B]
*ブロード,W. & ウェード,N. 1982.(牧野賢治訳,1988)背信の科学者たち.vi+312pp.化学同人.[OUL]

[I]
伊勢田哲治.2003.1.疑似科学と科学の哲学[Philosophy of Science and PseudoScience].iii+282pp.名古屋大学出版会.[y2,800+] [B20030811, Rh20031007]

[M]
茂木健一郎〔/日経サイエンス(編)〕.2007.11.科学のクオリア.日本経済新聞出版社.日経ビジネス人文庫.[OcL404]

予防原則、地球温暖化対策に関わる対抗リスク、地球寒冷化被害

2010年07月30日 13時55分53秒 | 生命生物生活哲学
2010年7月30日-3
予防原則、地球温暖化対策に関わる対抗リスク、地球寒冷化被害

 桜井林太郎氏による、「予防原則の教訓忘れるな」(えこ事記 四大公害 5)という記事が、朝日新聞(北海道版?)2010年7月30日の20面にある(東京近辺では、7/29夕刊に掲載されたらしい)。そこに、

  「地球温暖化問題でも、同じことがいえる。
 温暖化対策に反対する人たちから、本当に温暖化しているのかという懐疑論がたびたび浮上する。確かに科学に百%はない。だが、それを理由に対策を遅らせれば、公害と同様に、取り返しのつかない被害となりかねない。」

とある。しかし、水俣病といった公害(むろん、私企業活動による公衆への害のこと)問題と地球温暖化問題とは、同じことが言えるとは言えない。大きく異なる点がある。

 水俣病にしろ四日市集団喘息にしろ、被害が現実に生じた。そして被害とは、たとえば集中豪雨のように、局所的である。(だから、コンピュータ上での数値模倣も格子を小さくして日本ではどうなのかを計算するようになったのであろう(研究費も請求できることだし))。南北に長い日本では、地方によって、気候温暖化による利益と不利益は異なる。江守正多『地球温暖化の予測は「正しい」か?:不確かな未来に科学が挑む』での、摂氏2度上昇というのは粗雑である。また、マスコミは東京中心的である。

 一方、地球温暖化による被害は明白ではない。ここが大きな違いである。地球が温暖化していることが事実だとしても(主に全球平均気温の変動で地球環境をうんぬんすることが、そもそも問題があると思う。このことは科学交達論 science communicationとも関わる。)
 そして地球温暖化しないように対策を取った場合の危険性(対抗リスク)は、かなり大きいと思う。対策というのは現実に関わるものであるから、たとえば排出権取引といった(構築された)経済的システムを利用した詐欺も出るわけである(詐欺の生起は、市場主義経済からほぼ帰結する系corollaryであろう)。
 寒冷化による被害のほうが大変だと思うが、そうだとすると、温暖化効果気体を地球全体に溜めて、きたるべき寒冷化に備えるといった、いわば保険をかけておくというのも、正当なリスク対策ではなかろうか。

 つまり、地球が温暖化しているとしても、その程度とそれによる脅威がどれだけかについての、科学的根拠が薄弱である。計算結果が当たるかどうかは、(変数の選択の妥当性とパラメータ値推定も含めた)モデルに依存する(専門家以外にとっては、モデルは黒箱 black boxである。しかも、英国科学者は都合良くデータ操作した疑惑がある)。第一、50年後とか100年後の脅威を言われても、ね。ましてや、IPCC第4次報告書に使われた気象データ自体に疑惑がある。朝日新聞は、気候ゲート事件や氷河ゲート事件について触れた記事は、おそらく掲載していないのではないか。あいかわらず、温暖化の脅威が自明のように扱っているように見える。(ついでに言えば、署名入り記事で、韓国軍の船の沈没原因は北朝鮮によると、事実のように書いた文があって、驚いた。米韓当局発表によるのではなく、独自の根拠があるのなら明示すべきである。さすがに、同日掲載だったと思う社説では、事実のようには書いていなかったが。)

 なお、以上のおおよそは、いわゆる地球温暖化懐疑論の人たちが言っていることである。

 なおなお、ここでの立論とは直接関係しないかもしれないが、市村(2008)は一読の価値ありのようである(要吟味)。

市村正也.2008.リスク論批判:なぜリスク論はリスク対策に対し過度に否定的な結論を導くか.名古屋工業大学技術倫理研究会編「技術倫理研究」 (5): 15-32. [http://araiweb.elcom.nitech.ac.jp/~ichimura/risk.htmlから入手できる。未読。]

蜜蝋の透明性効果/ホセ・マリア・シシリア

2010年07月30日 12時02分20秒 | 美術/絵画
2010年7月30日-2
蜜蝋の透明性効果

 昨日出てきた、走り書き(20080817)。

 ホセ・マリア・シシリア〔Jose' Maria Sicilia〕 1998~2008展。長崎美術館 長崎市。~8/31。
 「木枠に流し込んだ蜜蝋に油絵具で描くことで生まれます」。
 <消え行く光> 2004
 <マゲローネ> 2005 ドローイング

 2008年8月31日までの開催で、見に行く都合はつかなかった。
 (市販されている)粒状にした蜜蝋を、テルペンで溶かすことができたはず。
 さきほど検索すると、群馬県立近代美術館が、

シリーズ〔文字化け〕 「赤い花々〔文字化け〕」より 1998 油彩、臘・板 184.5×157cm

を所蔵しているようだ。
http://www.mmag.gsn.ed.jp/collection/gendai/sicilia.htm
に、「*画像はありません。」が、解説文のあるのが良い。

 走り書きにくっついていた紙は、その日に
http://www.pref.mie.jp/BIJUTSU/HP/event/collcata/select2003/sicilia.htm
を印刷したもので(この頁は健在だった)、三重県立美術館所蔵作品選集とあり、

[86] ホセ・マリア・シシリア《衝立・小さな花々Ⅳ》 1998年 油彩、蝋、紙・板 211.5x124cm

[87] ホセ・マリア・シシリア《衝立・小さな花々Ⅴ》 1998年 油彩、蝋、紙・板 211.5x124cm
を所蔵しているらしい(前の印刷ではⅣは(協)と、Ⅴは(労)と、文字化けしていた)。

 言わば、女性的な色使いの典型的な一つとして、桃色ないし赤紫色系でぼやーと丸味のある図柄を描くというのがある(これはむろん、わたしが恣意的に抽出したもので、女性画家の本質的な現われではない)。
 これについて、どう接近したらよいのだろうか。

村山久美子.1988.6.視覚芸術の心理学.誠信書房.[y2,940] [B20100711]

を読み進めている。

フォンタナ 1962年 空間概念、期待/国立国際美術館所蔵

2010年07月30日 11時27分48秒 | 美術/絵画
2010年7月30日-1
フォンタナ 1962年 空間概念、期待

 ときたま美術展には行っていたが、絵画の良さというのがどうもわからなかった。ダリ展を高校生のとき見たが、表現された考えの面白さはあったが、画面が感性に響くあるいは沁み入るといったものではなかった。超現実主義的な作品(デルボーとかマグリットとかを見た)は好きなほうではあったが、感動するというようなことはなかった。日展もときに見ていたが、感動したという記憶は無い。東京に出た機会を見ては、主に外国作家の展覧会をときおり見ていた。しかし、どうもわからないままだった。結局、理解(だけ)の問題ではなく、感性の問題であろう。
 わたしが急に絵画に深く興味を持つようになったのは、2006年4月下旬である。そのとき、或る絵画教室の先生に薦められたのが、国立国際美術館(大阪)でそのとき開催されていたジグマー・ポルケ展 不思議の国のアリス だった。しかしその作品のどこがいいのか、皆目わからなかった。
 その存在も知らなかった国立国際美術館には、そのときはじめて訪れた。国際美術館では、その所蔵している作品をもととした常設展?が開催されていたので見た。そこで、フォンタナの素晴らしい美しさに見とれたのであった。この潔さ! 変革の精神!

 「国立国際美術館 30年分のコレクション」展のチラシが昨日出てきた。裏面に、

ルーチョ・フォンタナ 1962年 空間概念、期待

という、青地に少し斜めで平行に4本の切り筋が入った絵の画像がある。この国立国際美術館開館30周年記念展(これの図録のレシートには2008年1月30日12:21と日時記載がある)を見たはずだが、このフォンタナ作品を見た記憶が無い。あくまで、このフォンタナ作品を見たのは、2006年4月に見た「コレクション 1」でだけだったと思っていた。見逃したのだろうか? あるいは記憶の誤りか。